名前を失った機械が、ゴミ捨て場に横たわっていた。彼は元々人の形をしていたけれど、彼を捨てた人間の手によって文字通り身ぐるみを剥がされ、骸骨のような姿で捨てられていた。彼の電源は誰かが投げ込んだゴミがぶつかったからか、何故か入ったままで。壊れかけの目でぼんやりと、街行く人を眺めていた。住宅地のゴミ捨て場にしては異質な彼の姿に足を止める者は何人かいたが、彼らは皆眺めるだけ眺めた後、ゴミを捨てて去って行った。誰かは話しかけるなりしてくれると思ったのに。俺もこのゴミたちと同じなんだな、と機械は痛感した。誰にも見向きされない、必要とされない。自分は何者なんだろう。どうして捨てられてしまったのだろう。記憶を探ってみるけれど、何も思い出せなくて。かろうじて自分がアンドロイドであることは理解出来たが、それが余計に彼を苦しめた。人に仕えるのが彼の仕事なのに、捨てられてしまった。誰かのために働くのが心の支えなのに。俺は要らなかったのだろうか。誰か、助けて。俺を、見つけて。使って。でなければ、早く壊して。こんなところで、こんな姿でいたくない。電源を自分の手で落とそうとしたけれど、身体が思うように動かない。全身が、錆び付いたようで。声を出すこともままならない。そのままもがいていると、不意にカラスが飛んで来て彼の身体を啄ばみ始めた。光る部品に興味を示したのだろうか。ちょうどいい、と彼は思った。このまま何もかも奪って、眠らせてほしい。誰も助けてくれないなら、いっそのこと。カアカアと、カラスの声がうるさい。早く、聞こえなくなればいいのに。
「ああーーーっ!!」
突然カラスの声に混じって、大きな叫び声が聞こえた。機械は現実に引き戻された気分だった。一体、何だろう。せっかく壊してもらえるのに、邪魔をしないでほしい。
「うそ、アンドロイドだよなあ、これ」
機械を見て、声の持ち主は慌てた様子で駆け寄って来た。肩につかない程度の黒髪の、少年。機械に手を触れようとして、カラスにつつかれる。
「いてて、どいてくれよお前たち。これあげるから」
少年は買い物鞄から今買って来たのであろうパンを取り出して、少し離れた場所に投げた。カラスたちはそれを追いかけぎゃあぎゃあと取り合いながら、どこかへ飛んで行った。
「よーし、上手くいった。これでちゃんと見れる」
邪魔者がいなくなって、少年は満足気に機械に触れてきた。じろじろ見られるのは今まで足を止めた人間たちにもあったけれど、触れられたのはこれが初めてだった。少年は機械の腕を恐る恐る持ち上げてみたり、目のカメラを覗き込んだりしてきた。彼の青い瞳が、ぼやけた視界の中で輝いていた。
「あ、電源入ってる。てことはオレのこと見えてる?」
機械が起きていることに気づく。さっきからずっと、見えてるし、声も聞いてる。そう答えたかったけれど、スピーカーが壊れているせいで声が出なかった。
「型はいつのだろ……イプシロン?四年前に売り出された奴だなあ。性能いいって評判なのに、何で捨てられてるんだろ」
瞳の中の製造番号を覗き込まれる。どうして捨てられたのかなんて、俺が知りたい。ぼろぼろのこの身体を見るに、ゴミになったからだと思うけれど。いいから早く電源を切るか叩き壊すかしてほしい。こんな身体じゃもう、使ってもらえないだろう。
「うーん、いろんなとこが壊れてるなあ。ちょっと直すのは骨が折れるかも」
機械がこれからの未来を想像して落胆していると、何やらぶつぶつ呟きながら、少年は辺りを見回した。
「誰もいない、よな。うん。明らかに捨てられてるんだし、オレがもらっちゃっても、誰も怒らないだろ……」
そう言うと少年は彼の上に被さったゴミを払い除けたり、散らばった部品を拾い始めた。そしてそれをあらかた拾い終えると、機械の瞳を真っ直ぐに見つめて、言った。
「なあお前、聞こえてるんだろ?もし聞こえてなかったら勝手に連れて帰るけどさ、一応聞いておきたくて。……オレのうちに来ないか?身体直すし、今はなくなってる顔も造るから……直って、もし元の持ち主さんのところに帰りたかったらちゃんと帰すし。オレ機械には自信あるからさ、安心してよ」
そう言って、手を差し出された。どうして。こんな壊れかけのアンドロイドなんか連れて帰ったって、面倒なだけだろうに。それなのに、そう思っているのに、彼はこの手を取らなければと身体を動かそうとした。俺は行かなくてはならない。こんなところで何も覚えていないままスクラップになんて、なりたくない。まだ人間の、役に立ちたい。それが叶うなら。助けてくれるなら。ぎしぎしと、右手が軋んだ。動かないと思っていた腕が、持ち上がる。少年の手を掴まないと。それなのに、差し出された手にようやく届くか、といったところで彼の腕は動かなくなった。壊れかけた腕をそれ以上持ち上げることは出来なくて。なんとか動かそうとしていると、不意に少年の方から手を掴んできた。
「ありがとう……!」
少年は何故か機械に礼を言った。それは機械の台詞のはずなのに。
「じゃあ、オレの家行こ。すぐそこだから」
少年は慎重に機械の身体を抱えると、待ちきれないとでも言いた気に走り出した。この頃の機械は温度を感じることは出来なかったけれど、暖かいというのは、俺を抱える少年の腕のようなことをいうのだろう。などと考えていると、ふと、少年の顔が見えた。
何故だろう彼は、泣きそうな顔をしていた。
「やった、ミド!ちゃんと動いた!」
「さすがだね、すごいよライネくん!」
わいわいと、嬉しそうな声がして、機械は目を開けた。前よりも視界が開けて、少年の青い瞳と目が合った。
「おはよう、イヴ」
優しい声で、少年が呼びかけた。イヴとは、誰だろう。俺のことなのだろうか。機械は辺りを見渡したけれど、自分の他には二人の少年しかいない。先ほど呼び合っていた名前にイヴというのはなかったから、そうなのかもしれない。なんて考えを巡らせていると、それを察したのか黒髪の少年が手を握ってきた。骨みたいだった身体には、ちゃんと人工の肉と皮膚がついている。
「お前の名前だよ。イプシロンじゃ呼びにくいから」
「俺の、名前……」
無意識に反芻して、声が出ることに自分で驚いた。スピーカーも、直してくれたらしい。
「喋った!あーもう嬉しい。子供が初めて喋った時の親ってこんな気分なのかなあ」
「ライネくん、直すの一生懸命だったもんねえ」
何気なく声を出しただけなのに、少年が手放しで喜ぶものだから、イヴは少し照れ臭くなった。どうして、こんなに喜んでくれるのだろう。
「イヴ、起きれる?」
今度はイヴというのが自分の名前だとはっきり認識して、身体を起こした。この前の動き辛さを思うと信じられないくらい、身体が軽かった。
「おー、いい感じ。ほらこれ見て。顔、勝手に作ったんだけど、どうかなあ」
手鏡を渡してきて、顔を見るよう促される。覗き込んで見ると、青みがかった黒髪と、切れ長の赤い両目。その整った顔は、一見しただけでは人間にしか見えない。
「……すごいな、人間みたいだ」
「だろ?オレの考えるイケメン像です!苦労したんだからなー」
素直に感心すると、得意気に少年は語った。
「ああ、感謝してる……それで、俺はこれから、どうしたらいい?帰ろうにも、元の家を覚えてないんだ」
捨てられたのに元の家に帰る、というのもおかしい話だが、イヴはそうするしかなかった。他に行くところなんてない。なのに、何も思い出せなくて。
「それか……ごめんな、記憶復元しようとしたんだけど、徹底的に消されてたから戻せなくて」
「そう、か……」
これ以上、この少年たちに迷惑をかけたくない。見たところこの家はアンドロイドを維持出来るような資産があるようには見えない。イヴの身体を修理するのだって、たくさんの部品を使ったはずだ。お金を返すことは出来ないけれど、出来るだけ早くここを出て行かないと。それとも、やはりあそこで壊れているべきだったのだろうか。
「だからさ、」
そう、思っていたのに。
「イヴさえよければさ、ここで暮らさないか?」
どうして、そんなことを言うんだろう。
「……そんな、迷惑だ」
咄嗟に、そう答える。駄目に決まってる。こんな子供たちに、そんな負担をかけるわけにはいかない。恩人の手前、本当はどんなことにもイエスと答えたいけれど、助けてくれたからこそ、従えない。
「迷惑なんかじゃないよ。もしかして、お金の心配してる?」
知ってましたと言わんばかりにすぐ考えを見抜かれて、イヴはおずおずと頷く。すると、少年はぱっと笑った。
「心配しなくていいよ、それは。オレたち子供で二人暮らししてるけど、それなりに貯金はあるから。な、ミド」
「うん。この前の研究、上手くいったからまたお給料入るしね」
「「ねー」」
顔を見合わせて、少年たちはにこにこと笑う。研究?何のことだろう。この子供たちは一体何者なんだろう。
「そういうわけだから、全然余裕、とまではいかないけどお金のことなら平気平気。ミドだけじゃなくてオレもちょっと前までバイトしてた分の貯金あるからさ。ここで暮らそうよ」
そう言って、黒髪の少年はイヴの両手をぎゅっと握った。きらきら光る青い目が、まぶしい。
「そういう、ことなら……」
そのまぶしさに目が眩んで、イヴはようやく了承した。わあっ、と歓喜の声が上がる。
「やった!それじゃあ、これからよろしくな、イヴ!」
少年は繋いだ手をぶんぶんと振った。嬉しそう、だけれど何故か、ゴミ捨て場で見せた泣きそうな顔をしながら。
それから少し、少年たちがどういう人間なのかを聞いた。黒髪の少年はライネといって、生粋の機械好きらしい。前々からアンドロイドに興味があって、捨てられていたイヴのことがどうしても放っておけなかったという。彼はいつもイヴの身体の調子を気にかけてくれて、不具合があればすぐに直してくれた。少し前までは機械修理のアルバイトをしていたらしいが、今は控えている。それだけ腕があるのにどうして、とイヴが理由を聞くと、まあいろいろあって、とぼかされた。言いたくないなら無理強いしてはいけないと思って、それ以上は尋ねなかった。
そして、もう一人のミドという少年。彼がまたすごかった。彼は膨大な化学の知識を持っていて、大学などの研究に協力しているらしい。天才少年だと報道され、雑誌の取材などもときどき受けるのだとか。少年たち二人の生活費は主にミドの収入である。あまりにぶっ飛んだ話だったので、イヴはにわかには信じられなかった。それでも家の地下室にはたくさんの薬品や器具が置いてあり、ミドがそれらについてよくわからない言葉を並べていくのを見てからはさすがに信用するしかなかったが。今はとある病気の特効薬を作る研究をしているのだという。
「……どうやら俺は、とんでもない天才児たちに拾われたみたいだな」
そんな話を聞いて、イヴは早速オーバーヒートを起こしてしまいそうだった。なんだってこんな子供たちが、こんな辺鄙な場所で細々と暮らしているんだ。
「天才だなんてそんな。好きでやってるうちにこうなってただけですよ」
「そうそう。オレなんか機械のこと以外はからきしだからな」
「僕もだよ」
ミドは人付き合いが苦手なのか、ライネ以外には敬語で話す傾向があった。二人は元々孤児で、施設で知り合った幼馴染なのだという。
「こ、混乱してきた……少し寝てもいいか」
イヴは頭が発熱してきたのを感じて、そう尋ねた。情報の処理が追いつかない。
「そんな深く考えなくてもいいのに。あ、ベッドどうしよう」
「別に俺はソファでもどこでも……」
「だめだよ。パーツ安物だから傷むかもしれないし、そこらで寝てたら死体が転がってるみたいで怖いから」
「死体」
後半の理由はいらなかったのに。イヴは内心ショックを受ける。
「僕のベッド使ってくださいよ。これから研究が立て込むんで、僕地下で寝ますから」
ベッドは二階に二つと、地下室に仮眠用のものが一つあった。ミドはこれからそちらの仮眠用ベッドで寝ると言い出した。イヴに気を遣っているのかそれとも、それほど集中しなければならない研究なのだろうか。
「いいのか?」
「ええ。ライネくんも、それでいいよね?」
「そうだなあ……でもミド、オレが見てないからって、徹夜とかするなよ」
「大丈夫だよ。ちゃんと寝るから」
ほんとかよ、と疑いの眼差しを向けるも、ライネはそれで納得したらしい。
「じゃあそういうことで。イヴ、ベッド隣の部屋だから、遠慮なく寝ていいよ。ほらほら」
「お、おい……」
ぐいぐいと背中を押され、隣の部屋に放り込まれる。
「手前の使って。奥はオレのベッドだから。起きたらまた、これからの話しような」
てきぱきと使っていいベッドを示すと、ライネはまた作業場に戻って行った。
「……扱いが良すぎて怖いくらいだな」
普通機械相手にここまでするだろうかと、疑問に思う。ライネは機械の知識が豊富だから、細心の注意を払っているのだろうか。なんて思いながら、とりあえず疲れたし寝ようとベッドの上に座って、電源ボタンを押そうとする。きちんと詰襟の服を着せられていて、首の左側にあるボタンは隠されていた。横になって、首に手を触れる。そのとき、ふと隣のベッドの傍に置かれたものが目に入った。
「……点滴?」
支柱と、液体の入ったパック。どう見てもそれは点滴をするための道具だった。どうして、医療施設でもないこの家にこんなものが。イヴはまた頭が熱くなるのを感じた。これ以上考え事をするのは無理だ。今は考えるのをやめて、眠ってしまおう。詰襟の留め金を外して、ボタンを押した。
「外、出てみよっか」
あれから目覚めて家事のほとんどを任されることになり、家の中に慣れてきた頃、ライネがそう提案した。まずはスーパーにでも行くか、と行き先を考えながら買い物鞄を準備している。
「目立たないか?」
この街、人間しかいないんだろ。イヴがそう不安をこぼすと、ライネは大丈夫だよ、と笑った。
「お前ぱっと見人間にしか見えないもん。オレがそういう風に作ったんだから、バレないよ」
自信満々に言うものだから、本当に大丈夫だという気分にさせられる。
「……じゃあ、行くか」
「うん。……あ、しまった。イヴの靴がないな」
服のことばっかり考えてて靴買うの忘れてたなあと、頭を抱える。これじゃ外に出られない。今日は諦めるかとイヴが言おうとすると、あ、とライネは何かを思いついた顔をした。
「ミドー、あれどこやったっけ?昔先生にもらった靴」
ソファでのんびりとこちらの様子を眺めていたミドに話しかける。彼は少し考え込んで、ああ、と声を上げた。
「確か、二階のクローゼットに置いてなかったかな」
「あー、そっかあそこか。悪いイヴ、先に玄関で待ってて」
「わかった」
ライネがぱたぱたとリビングを出て行ったので、イヴも言われた通り玄関まで出て行こうとしたが、その前にミドに声をかけた。
「ミドも、一緒に来ないか?」
何気なくそう誘うと、ミドは一瞬目を丸くして、その後すぐにふわふわした笑顔を浮かべた。
「ありがとうございます。僕も行きたいんですが……お仕事でやらないといけない作業があるので。お気持ちだけいただきますね」
「そうか。仕事か……なら今度暇な時行こう。たまには気分転換も必要だぞ」
「そう、ですね。時間が作れるようにがんばります」
少しだけ寂しそうな顔で、ミドはイヴに手を振った。イヴも、じゃあいってくる、と言うとリビングを出て行った。
靴脱ぎのところで待っていると、階段を降りる足音が聞こえた。ライネが白い箱を持ってやってくる。
「あったあった。今の服だと浮いて見えるかもしれないけど、とりあえずこれで我慢してくれ」
箱を開けると、上等な黒いローファーが中に収まっていた。
「ほらそこ座って」
靴脱ぎの段差に腰掛けるよう促すが、イヴは遠慮がちに言った。
「いいのか?相当いい靴じゃないか」
「いいのいいの。施設の先生が卒業のときくれたんだけどさ、オレじゃサイズ大きくて履けないし。靴はいいもの履いた方がいいんだぞー」
と、イヴを段差に座らせると、半ば無理矢理彼の足をローファーに押し込んだ。サイズはぴったりだった。
「おー、さすが。オレ天才だなあ」
「お前も大概、世話好きだよな……」
甲斐甲斐しく相手をしてくるライネに、足にくっついたローファーを眺めながらイヴは呟いた。
「うーん、オレ妹いたから、兄心が騒ぐというか。お前が来てから、弟が出来たみたいで、嬉しいんだ」
ライネも隣に座って、足をブーツにねじ込みながらイヴに心底楽しそうな笑顔を向けた。照れ臭くなって、イヴは目を背ける。
「それはまた……世話の焼ける兄貴だな」
「なんだとこのっ」
わしわしと髪を乱される。それまでイヴには家族というものがよくわからなかったけれど、悪い気はしなかった。
「じゃ、行くか」
「ああ」
イヴはそこら中に跳ねた髪を整えながら、ライネが開けてくれたドアをくぐった。
「ライネくん!今日もおつかいご苦労様~。あら、その子初めて見る子ねえ」
スーパーに着いて、その日の食事に必要なものを買い物かごに放り込んでレジに並ぶと、店員のおばさんが話しかけてきた。ライネとは顔見知りらしい。
「うん、弟なんだ。いろいろあって遠くの街に住んでたんだけど、こないだから一緒に住むことになってさ。仲良くしてやって」
「は」
イヴはぎょっとしてライネを見た。まさか本当に弟扱いされるなんて。別に構わないけれど、もしアンドロイドだってばれたら完全に痛い子だぞ、お前。
「あら~そうなの!弟くんの方が大きいのね。ライネくんちゃんとカルシウムとらなきゃダメよ~」
髪色が同じなせいかライネの言った通り案外気づかれないようで、疑う素振りもなくおばさんは朗らかな笑顔のまま話す。
「もー、身長のことは言わないでってば」
「あははは、ごめんなさいねえ。弟くん、この子の面倒見るの大変かもしれないけど、がんばってね~」
「は、はあ」
「なんでオレが面倒見られる側なのさ……」
一通り買い物を終えると、二人は帰路に着いた。イヴが荷物を持つと言ったけれど、まだその身体に慣れていないだろうと、ライネはそれを断った。だけどイヴがアンドロイドとしてそれはまずいと譲らないので、袋を二つに分けて軽い方をライネが、重い方をイヴが持った。
別に荷物なんて構わないのに、と笑っていたライネの様子がおかしくなったのは、家までの道を半分くらい歩いた頃だった。
「あつい、なあ……」
不意に、ライネがそう呟いた。その言葉に、イヴは少し疑問を浮かべる。今は9月で、確かに最近まで残暑が厳しくて、イヴも何度か熱暴走を起こしかけたものの、今日は湿気も少なくなってきて、かなり涼しくなった方だった。それなのに、ライネは尋常でない量の汗をかいている。
「……ライネ?どうした」
足取りも、スーパーを出た時より遥かに重くなっている。具合が悪そうなのは、人間の身体のことに疎いイヴでもわかった。
「ああ、なんで、外に出た時に限ってくるかな……イヴ、ごめ……」
震える声を零して、ライネはイヴに手を伸ばした。が、それが彼の腕に届く前に、足から力が抜ける。
「ライネ!!」
軽い方の買い物袋が、音を立てて地面に落ちた。ライネの身体は糸が切れた人形のように崩れ落ちて。咄嗟にイヴはその身体を受け止める。
「ライネ、どうした、しっかりしろ!」
「…………っ」
呼びかけても、苦しそうに荒い息を吐くだけで返事はない。一体どうしたというんだ。突然倒れたライネに、イヴは激しく動揺する。こんなとき、どうすれば。救急車を呼ぶべきだろうか、と逡巡して、ライネが先程呟いた言葉を思い出す。彼は確か、こういう出来事に慣れている、というような態度を取っていた。素早く、手を耳にあて、電話をかけた。
「もしもし、ミドか!?ライネがーーーー!!」
「……近頃は調子が良かったので、僕も油断してました。もう少し、安静にさせておかないといけなかったのに」
後悔している、という口調でミドは呟いた。急いで家に帰って、ライネは二階のベッドの上に寝かされた。イヴが前に疑問に思っていた点滴が、今は彼の左腕に突き刺さって、ぽたぽたと液体を注ぎ込んでいる。
「なあ、ライネは、何かの病気なのか?あんなに元気だったのに……」
「ええ。ここに来て早々君に心配をかけたくないからと彼が言うので、黙ってましたが」
「どういう、病気なんだ」
「とっても、酷い病ですよ。初期は今みたいにときどき熱を出したりする程度なんですが、余命一年ほどの末期になると、少しずつ五感が奪われていくんです。一年で聴覚以外の四つの感覚が失われるので、四季病なんて呼ばれてます。そんな美しいものじゃないっていうのに」
そう話すミドはとても忌々しげな表情で。病に対する憎しみや絶望が、ないまぜになったような瞳をしていた。
「……そうして四つの感覚が全て喪失していくと同時に、体力が徐々に尽きていきゆっくりと死に至ります。治療法はまだ発見されていません」
「そんな」
だったら、ライネはいずれ近いうちに、死んでしまうというのか。イヴの心にも、暗い影が差す。
「だからね、僕はこの病気の研究をしているんです」
特効薬の研究というのは、ライネのためにしていたことだったのかと、イヴは思った。これから立て込む研究だというのも、納得がいった。ライネの病状はこれから、悪化していくのだろうから。
「僕は絶対に、彼を死なせない」
ぎらりと、ミドの目に強い意志の光が見える。幼馴染を必ず救う。そんな強固な意志。それに協力しなければと、イヴは使命のように感じた。自分はこの少年を助けたい。彼は自分を拾って救ってくれたのだから。
「…………ん、」
それからしばらくして、ベッドの上で眠っていたライネが目を覚ました。ミドは地下に降りていたので、その時彼のそばにいたのはイヴだけだった。
「起きたか……」
「イヴ……?そっか、オレ……ごめん、驚いただろ」
心配そうなイヴの顔を見て、先程の出来事を思い出したライネは申し訳なさそうに言った。
「まあ、な。いきなり倒れた時はどうしようかと……だが事情はミドから聞いたから、そんなに思い詰めるな」
「……うん、ありがと」
「それと、ミドはこれから薬を作るのに集中したいらしいから……出来る限り俺がお前の世話をする」
「そう、か。わかった。ごめんな」
これからのことを告げると、ライネは納得しているようだけれどやはり気分が滅入るようで。ミドと話す回数が減るのはきっと寂しいことだろう。
「お前が謝ることじゃないだろう」
「いや、病気のことじゃなくて……お前を、拾ったことだよ」
「俺を?」
「うん。オレ、自分が病気なのわかってて、お前を拾った。苦労させるの、目に見えてたのに……死ぬ前にアンドロイドに触ってみたいって、そう思ってた、から」
ごめん。もう一度謝罪の言葉を口にする。あの時見せた泣きそうな顔は、そういうことだったのかとイヴは納得する。そんなこと、気にしなくて構わないのに。
「謝らなくていい……俺は、お前に拾われなければあのまま壊れていたんだ、むしろ感謝してもしきれないくらいだ。それに、アンドロイドは苦労するのが仕事だ。必要ならいくらでも使ってくれて構わない」
「道具みたいなこと言うなよ」
「違うのか」
イヴが首を傾げると、ライネは悲しそうな顔をした。
「違うよ……言っただろ、弟みたいだって。お前はオレの家族なんだから」
「だったら尚更、謝ったり遠慮したりするな。家族というのはそういうものなんだろう?」
自分の持っている家族というものの知識を駆使して、イヴは釘を刺した。今日みたいに、突然倒れてほしくないから。
「ん、参ったな……お前にそういうこと言われると、言い返せない」
「じゃあ決まりだ。苦しい時はすぐに言え。何か必要なことがあれば教えてくれ。もしも感覚が消えた時も同じだ」
「わ、わかったよ。ちゃんと言う」
オレ、いい弟をもったなあ。と呟く。ライネは幸せそうに、それでも少し寂しげに微笑んだ。
彼が感覚を失い始めたのは、それから二年後の夏のことだった。