top of page

「あれ、イヴくんゴミ出しですか?」
ある日の朝。両手に中身の詰まったゴミ袋を持ったイヴが家を出ようとしているところ、ミドが心配そうな顔をして呼び止めてきた。
「ああ、今日は燃えるゴミの日だろう?」
「そう、なんですけど……大丈夫ですか?僕代わりに行きますよ?」
「いや、構わない。あそこは嫌な場所だが、いつまでも引きずってるわけにはいかないからな……気持ちだけ受け取っておく」
そう言って袋を持ったまま手を振ると、イヴは玄関を出て行った。

イヴがこの家に来た経緯は、他のアンドロイドとは少し違っていた。
通常アンドロイドたちは金持ちが道楽や召使いにと購入する、とても高価なものだ。この家ではミドが研究で稼いでいるとはいえ、おいそれと買える物ではない。それにも関わらずイヴは六年ほど前からこの家で暮らしている。それは何故かと言うと。
捨てられていたのだ、彼は。ミドの家の近くのゴミ捨て場に。
人工皮膚はほとんど剥がされ、人の形も保っておらず壊れかけだった彼は拾われ、丁寧に修理されこの家の家事手伝いになった。今ではミドの助手をしたりライネの世話を焼いたりと、立派に他のアンドロイドと同じように生活している。

「…………」
家を出てすぐ、コンクリートで固められた冷たいゴミ捨て場をイヴは見下ろしていた。自分はどこから来たのだろう。ぼんやりとそんなことを考えながら。イヴには捨てられる前の記憶が無かった。メモリが完全に削除されてしまっていたらしく、ライネが何度か復元を試みたけれど思い出すことはついに叶わなかった。どうして自分は捨てられてしまったのだろう。買ったはいいけれど要らなくなってしまったのだろうか。そうだとしたらたまらなく辛い。イヴたちアンドロイドは人間に使われることが存在意義で、生き甲斐なのだから。人間に必要としてもらえないということは、彼らにとっては死ぬも同然のことだった。
「っ……!」
咄嗟に首を振って余計な考えを追い出す。今の自分はミドやライネに必要とされている。大切にしてもらっている自覚もあった。記憶にない過去の持ち主が自分をどう思っていたかなんてどうだっていいことだ。そういい聞かせて両手のゴミ袋を無造作にコンクリートの床へ投げ込んだ。



「おかえりなさい。大丈夫でした?」
「ただいま。……あまりいい気分じゃなかったな」
もやもやした気分を抱えながら家に帰ると、やはり心配そうな顔でミドが迎えに来た。命令でもされない限り嘘を吐くことの出来ない自分のCPUをイヴは恨む。平気だと言いたいのに。
「嫌なことに向き合うのはいいことですけれど、無理はしないでくださいね」
「ああ、そうだな……」
ほとんど生返事に近い言葉を返すと、イヴは逃げるように二階に向かった。今のささくれ立った気持ちでこれ以上ミドの側にいると、お前はもう少し嫌なことと向き合ったらどうなんだと、口を滑らせてしまいそうだったから。



「古めかしい街ですね……隣街はあんなに開発されているのに、少し離れただけでこんなに景色が変わるものなのか」
「いいところでしょ、でもアンドロイドのキミにはちょっと馴染みにくいかな?」
街の片隅で、ヨダと背の高い燕尾服の青年が何やら話し込んでいた。彼らは先ほど出会ったばかりで、見慣れない街の中をふらふら歩いていた青年にヨダが声をかけたのがきっかけだった。
そうしてヨダがアンドロイド、と言うと青年は少し驚いた顔をした。同じ長さに切り揃えられた薄紫の髪が揺れる。
「驚いたな、私がアンドロイドだってすぐ見抜くなんて。結構人に似せて造ってあるんですよ」
「ボクの目に見抜けないアンドロイドはいないのさ。ま、テレビで見るような子たちよりはよく出来てるね、キミ。イヴくんとどっちが精巧かな」
「イヴくん?」
「ボクの友達のアンドロイド。いや彼はボクと友達なんて言ったら怒るねきっと……友達の友達……?ま、なんでもいいや。とにかく、すっごく良く出来たアンドロイドさ」
ヨダの言葉に、青年の表情が変わる。青紫の瞳が、獲物を見つけた獣のような輝きを放った。
「そのアンドロイド、どこに住んでるんですか」
「……結構わかりやすいねキミ。イヴくんみたいにわかりにくいのも問題だけど。彼に何か用があるの?見たところあんまり良くない用件みたいだけど」
「そんな物騒な話ではないですよ。私はあるアンドロイドを連れ戻しにこの街に来たんです。昔うちで勤めていたアンドロイドをね」
青年は慌ててぎらぎらした瞳を引っ込めて人の良さそうな顔をする。
「ふうん、それがイヴくんってわけ?」
「恐らくね。この街にアンドロイドは一人しかいないようですから」
青年の右目に着けられたモノクルが赤く光る。これでアンドロイドを探知しているらしい。さっき場所を聞いてきたので正確な位置は特定出来ないようだが。
「へえ……じゃあボクが教えたらイヴくん、この街から連れて行かれちゃうんだ」
今度はヨダの目が妖しく光る。イヴは彼にとって自分を保つための大切なピースのひとつだ。奪われてしまうわけにはいかない。
「おや、教えてくれないんですか?」
「だって彼はボクにとって必要だし……彼の友達だってすごく悲しむと思う、よっ!」
「!?」
言い終える前に、ヨダは腕を振り上げた。彼の手には、いつの間にかいつもの金槌が握られていた。



「イヴ?ちょっと反応鈍くないか?」
二階の寝室では、ライネがごろごろとベッドに寝転がりながらPC関連の雑誌を読んでいた。イヴが部屋に入ってくると雑誌を閉じて話しかけたのだけれど、どうも返事が遅い。
「……そうだ、な。処理が上手くいってないのかもしれない」
「どうした?なんか考えごとでもしてる?」
「……さっき、ゴミ捨てに行ったんだ」
「あーそれでか。昔のこと考えてたんだな……」
ライネの表情が曇る。彼もイヴの事情をよく知っていた。
「とりあえず、少し寝た方がいいよ。一旦データ整理しないと。ほっとくとそのうちフリーズするぞ」
「そう、だな……」
ライネが隣のベッドに寝るよう促すと、イヴは素直に横になった。こんなときは一度電源を切って休んだ方がいい。ライネは数時間後に目が覚めるようタイマーをセットすると、イヴの鎖骨の辺りにある電源ボタンに手を触れた。
「ごめんな、思い出させてやれなくて」
「お前のせいじゃ、ないだろ……」
ぐ、 とライネが手に力を込めるとイヴはキュイン、という音と共にゆっくりと目を閉じた。そのまま頬に触れると、いつもはほとんど温度のないそこが今は少し熱かった。相当悩んでいるのがわかって、ライネは奥歯を噛む。せめてどうして捨てられてしまったのかさえわかれば、イヴがこんなに思い悩むこともないのに。 いつも助けてもらっている彼の力になれないのが悔しい。彼をあんな目に遭わせた前の持ち主が憎い。イヴたちアンドロイドにだって、心があるのに。

近年のアンドロイドたちには感情というプログラムが搭載されている。彼らがまだ心のないただの機械でしかなかった頃、金持ちたちはアンドロイドたちを大量に購入し、不要になったら捨てた。その廃棄されたアンドロイドの身体の処分には存外手間がかかり、一時期社会問題になった。そこで国や企業は考えた。アンドロイドにも人間のような感情があれば容易に捨てることが出来ないのではと。人々の良心に訴えかける作戦だった。そしてそれ以降発売されたアンドロイドには 皆感情が搭載され、彼らは見た目だけでなく中身も人に近くなった。それ以前の感情のないアンドロイドたちも、持ち主が望めばネットから簡単に感情をインス トールすることが出来た。イヴもその内の一人だ。そうすることによって人々は彼らに親近感が湧いて、世に溢れていた金持ちによるアンドロイドの廃棄は激減した。作戦は一応成功したとニュースなどでは報じられているけれど、ライネは思う。これは感情を持ったアンドロイドが捨てられる可能性を無視した安直な考えでしかないと。もしも捨てられてしまっては、人間に尽くすことを最上の喜びと考える彼らは深い傷を負うことになる。人間そっくりの機械たちと生活するのは楽しいけれど、現にイヴがこうして苦しむ姿を見るとやはりこの作戦は間違っていたのではないかと思うのだ。

「……はあ」
今こんなことを考えたってどうしようもないなと、ライネはため息を吐く。どうすればイヴの悩みを解決出来るのだろう。
「わたしがすてましたーとか言って、名乗り出てくんないかなあ、前の持ち主」
そしたら一発殴って、どうしてイヴを捨てたのか聞いて。それで少しはイヴを楽に出来るのに。
「ありえないな……馬鹿なこと考えてないで今日の買い物済ませよ」
そういえば今度のイヴのメンテナンスのときのために買わなければならない部品があったことを思い出し、ライネは買い物鞄を手に取りそのついでに充電コードを持って来てイヴに繫いでやると、静かに部屋を出た。



「さてと……ん?」
玄関を開けて外に出ると、何か大きくて紫に光る目立つものが道路の隅に落ちているのを見つけ、ライネは駆け寄った。近づいて見るとそれは人の形をしている。
「行き倒れ?」
かと思ったけれど、身につけている服や装飾品は見たところ高価なものばかりだ。そもそも燕尾服を着た行き倒れなんて聞いたことがない。もっとよく観察しようと身体をひっくり返すと、彼が倒れていた理由はすぐにわかった。
「アンドロイドだったのかこの人……うわー酷い怪我だ」
そのアンドロイドは、額に大きな傷を負っていた。何か硬いものにぶつかったのか皮膚が抉れ、中の銅線や部品が剥き出しになっている。倒れていたのもきっとこの傷が原因だ。
「買い物は後でいいか……うちにある部品で直せるかなあ」
彼が何処から来たのか誰のものなのかはわからないけれど、どうしても放っておけなくてライネは彼を慎重に担ぐと、今出てきたばかりの家に戻った。

「ただいま〜」
「あれ、ライネくん?何か忘れ物でも……その方、どなたですか?」
ライネが出て行ってすぐ帰ってきたものだから、リビングからミドが怪訝そうな顔をして出てきた。ライネが担いでいるものを見て目を丸くする。
「外で倒れてた。アンドロイドみたいなんだけど……修理してやりたいから上に運ぶの手伝ってくれないか?イヴは今寝てるからさ」
「いいですよ。にしても珍しいですね……イヴくん以外のアンドロイドを見るのは初めてです」
「そうだなあ。オレこの街では見たことなかったな、この人には悪いけど、なんか嬉しい」

二階の作業場にアンドロイドの青年を運び込んで、作業台に載せる。改めて顔を見ると、人間とほとんど変わらない造りに感心する。
「きっとお金持ちの中でもすごい家のアンドロイドだろうなあ。服もいいのだし、市販のやつよりすっごく丁寧に造られてる」
「特注品、みたいなものですか?」
「そんなとこだなあ……うあー興奮してきた。いい感じの構造とかあったら参考にさせてもらお」
「中身見る気満々ですね、ライネくん……」
珍しいアンドロイドを前にきらきらと目を輝かせるライネに、ミドは困ったように笑う。
「いや、ちゃんと傷も直すから大丈夫……そんなに酷い傷じゃないみたいだし。でもなんかこれ、殴られたみたいな傷だな。……あ」
青年の傷を見て、ライネはかの殺人鬼を連想する。彼の頭の中では最早殴られるといえばあいつだと、刷り込みみたいに関連付けられてしまっていた。
「いやまさかな……いくらあいつでもそこまで見境ないことはないだろ」
嫌でも思い浮かぶオレンジ色を頭の隅に追いやって、ライネは工具を手に取った。



「ほんっとうにありがとうございました!!」
数十分後、作業台の上でぺたんと土下座をする青年がいた。彼の傷はすっかり直り、今では元気に動いている。
「い、いいってそんな。顔上げてくれよ」
「うう、なんとお礼を申し上げればいいのか……」
青年は顔を上げると、正座をしたままもう一度お辞儀をした。やはり名家のアンドロイドなのだろうか、とても礼儀正しい。
「いや、気にしなくていいよ。オレが好きでやったことだし。それよりきみ、なんであんなところで怪我してたんだ?」
「殴られたんです。15歳くらいの男の子に。道に迷っていた私に声をかけてくれたんですけど、話していたら突然。それで必死で逃げて来たんですがあそこで倒れてしまって……」
「あー……やっぱりあいつか……」
15歳くらいで突然人を殴る、というともうヨダしか考えられない。
「ご存じなんですか?」
「んーまあそれなりに……ある意味有名人だしあいつ。まあ、仮に次会ったら相手せずに逃げてくれ」
「はあ……」
完全にヨダの扱いに慣れているライネの言い草に、青年はおずおずと頷く。
「それで、きみ……ああごめん、自己紹介がまだだった。オレはライネ、こっちはミド。ここで機械工やったり薬作ったりして細々と暮らしてる」
青年の名前を呼ぼうとして、そういえばまだ名前を聞いていなかったとライネはまず自分から名乗った。一緒に紹介されて、隣に座っていたミドがぺこりとお辞儀をする。
「私こそ、申し遅れました。隣街から来ました、ユウと申します。今日は探し人がいてここに来たのですが、こんなことになってしまって……」
「探し人?」
ライネが尋ねると、ユウは姿勢を正して話し始めた。
「実は私、あるアンドロイドを探しに来たんです。昔うちで勤めていた者なんですが、いろいろあって行方不明になってまして……信号を調べたところ同じ型のものがこの街で見つかって、それで」
「アンドロイドを、探しに……?」
ライネには、ユウが誰を探しに来たのかすぐにわかってしまった。それなりの年月をこの街で過ごしてきた彼でも、イヴ以外のアンドロイドを見たことがなかったから。
「私は最近主人に仕え始めたので彼のことはよく知らないのですが……主人の大切なものだったらしいので、今でもまだ壊れずに動いているなら連れ戻したくて」
「……連れ戻す?イヴを?」
何を言っているんだと、大声を上げてしまいそうだった。勝手にイヴを捨てた癖に今更現れて何を。そう叫びたかったけれど、目の前のアンドロイドは詳しい事情を知らないようだったので、ライネはなんとか声を飲み込んだ。
「その名前!私を殴った男の子も言ってました。よく出来たアンドロイドだって。この街では一体しかレーダーに映らなかったので、とりあえずそのイヴというアンドロイドを探してたんです」
「うん、きっときみが探してるのはうちのイヴだよ。運がいいね。でも、どうして今更探しに?あいつがここに来てもう六年も経つんだぞ」
抑えていても、どうしても冷たい口調になってしまう。ライネはまずいなと思ったけれどユウは気づいていないようで、少し改まって話し始めた。
「……実は、私の主人の話なんですけれど……」

ユウの主人は名家のお嬢様で、彼女にはレイと名付けられたアンドロイドが世話役として与えられていた。当時のアンドロイドにはまだ感情がなく、ただ決められ たことをこなすだけの機械だったけれど彼女はレイを一人の人間のように大切にしていた。しかしある日突然、いつものようにレイを父親の部下たちへメンテナ ンスに出した後、彼は忽然といなくなってしまったのだという。何故と彼女が父親に問い詰めると重大な欠陥が見つかったから廃棄したと、そう告げられたらし い。それから彼女は塞ぎ込んでしまい、数年たってもそれが良くならないために彼女の父親がレイの代わりに買い与えたのがユウだった。ユウは懸命に彼女に尽くしたけれど、尽くせば尽くすほど彼女は悲しそうな顔をする。ユウの向こうに誰かの影を見ているというように。だから彼は過去に屋敷にいたレイのこと知り、行方を探した。例えスクラップになっていてももしかしたら部品くらいは見つかるかも、と考えて。レイの一部だけでも、ユウは主人に返してやりたかった。

「それでまさか、本人が未だに動いているとは思いませんでしたけどね……お嬢様、きっと喜びます」
そう話すユウ自身もどこか嬉しそうだった。レイと面識がないのにそんな表情が出来るユウは主人のことを本当に大切に思っているのだろう。
「……ごめん!」
「へ?」
突然ライネが手を合わせてユウに謝った。
「いや、そんな理由とは知らず勝手にきみたちのことを想像してて……管理めんどくさくて捨てたはいいけどアンドロイドがいなくなって不便になったからやっぱり返して!みたいな理由だったらきみを叩き出してるところだった」
はははと笑いながら話しているけれど、ライネの目は本気だ。普段は温厚そうだけれどこの人を怒らせたら解体されてしまいそうだと、ユウは寒気を感じた。
「は、はは……って、捨てられていたんですか?彼。廃棄されたとは聞いてましたが、こうして動いているなら旦那様が何かの理由で嘘を吐いているものだと思ってました。本当はこの家に預けられていただけかと……」
「いや、そっちの家のことはオレたち全く知らないしそれはないよ。オレがここに来る三年前のことだから詳しくはわからないけど、あいつはそこのゴミ捨て場に捨てられてたらしいし……なあミド。それをミドが拾って来たんだもんな」
「ええ。ボロボロの彼を僕が見つけて、でも僕には機械の知識がないからそれで……どうしたんだったかな」
「業者さんに頼んで修理してもらったんだっけ?」
言葉に詰まるミドに、ライネがフォローを入れる。
「ああ、そうでした。どうもその辺りは忘れっぽくて……」
「まあ、結構前だもんなあ。で、そういうわけでイヴはうちに住んでます」
「なるほど……」
「それで、イヴがきみの探してるレイくんだったとして……あいつはどうなるんだ?実はあいつ、ここに来る前のこと、全然覚えてないんだ。捨てられる前に記憶を全部消されてたみたいで」
「! そんな……お嬢様のことも、覚えていないんですか」
「うん……覚えてたら、きみたちを探して連絡するなりしてたさ。捨てられた理由がわからなくて、あいつも随分苦しんでた」
「そうだったんですか……でも、もしかしたらうちで記憶を戻すことも出来るかもしれないですよ。うちのラボになら、データが残っているかも……」
「それ、は」
イヴの記憶が戻る。それは喜ばしいことだとライネは思った。今までイヴが苦しんできたことからきっと解放される。だけど。記憶が戻ったイヴはこの家に帰って来てくれるのだろうか。前の持ち主さんのことを思い出したら、彼女がいかに大事な人だったか思い出したら、帰って来られなくなるんじゃないのか。ここでの記憶を消され、完璧にレイに戻される可能性だってある。一度でもあちらに渡してしまったら、イヴがいなくなる。ライネはそれがとても恐ろしかった。

瞬間、ライネの頭の中に映像が浮かぶ。ベッドの上で、点滴の針が刺さった自分の腕を眺める少年の姿。真っ白な誰かの手が、力無いその指に触れる。だけど指はびりびりと痺れるだけで、触れられたというはっきりした感覚はない。
『……すまない』
白い手の持ち主が口を開いた。顔を見ようとするけれど、視界がぼやけてはっきりと見えなかった。だけどきっと悲しそうな顔をしている。それだけはわかった。
『何も、出来なくて……俺は、お前に何も返してやれない』
とても悔しそうな声だった。手を握る力が強くなる。そんなことないよ、と少年は言う。今まであいつが忙しくて、誰も傍にいてくれなかったのが辛かった。さみしかった。薬なんていらないから、ついていてほしかった。だから今、お前がここにいてくれるだけで、オレは幸せなんだよ。そう伝えると、指先に何かが落ちた。暖かい水のような。
『……と……ずっと傍にいる……それが俺に出来る恩返しなら、いくらでも一緒にいてやる。だから……』
その後に何か続けようとしたけれど、ついに言わないまま彼は口を噤んだ。少年はごめんな、と返すことしか出来なかった。

「だめ、だよ。あいつをそっちに預けたくない。一度あいつを捨てた家なんかに、帰したくない……!」
ライネは小さな悲鳴のような声を上げた。動揺し、普段とはかけ離れたライネの様子に、ミドが目を見開く。
「ライネくん……?」
「帰ってくれ。イヴはレイなんてアンドロイドじゃない。他を探してくれよ」
「そんな、さっきそうだと仰ったじゃないですか。そのアンドロイドに会わせてください。信号を調べれば、すぐに……」
「いいから!!」
突然豹変したライネにユウは食い下がるが、ライネはそれを遮って叫ぶ。その勢いに萎縮したユウは押し黙ってしまう。
「……帰って、くれ」
ライネは両手で顔を覆って、か細い声でもう一度そう懇願した。とにかくユウに、この場を離れてほしかった。
「わかりました。今回は出直します。でも、諦めたわけではありませんから、考えておいてくださいね……」
そう言うと、ユウは作業台から降りた。慌ててミドも立ち上がる。
「あ、お送りしま……」
ミドが言い終える前にごとん、と床が派手な音を立てた。何事かとライネは足元を見た。すると。
「ミド……?」
ミドがそこに、糸の切れた人形みたいに力無く倒れていた。
「ミド!?ミド!!なんで……」
ミドの身体を抱えようとしたその時、ライネは首の後ろに衝撃を感じた。身体が弛緩し、彼も床に音を立てて倒れる。遠のく意識の中、必死に上を見ると、申し訳なさそうに倒れた二人を見下ろすユウがいた。彼に当身を食らわされたのだと気づいたときには遅かった。
「ごめんなさい。私はどうしても、お嬢様をレイに会わせてあげたいんです……こうでもしないと、だめでしょう?」
ちくしょう、と声を上げ、ライネは意識を手放した。



思ったより簡単にイヴというアンドロイドは見つかった。ユウは隣の部屋のドアを開け、ベッドの上で眠るその身体を肩に抱えた。虱潰しにこの家の中を探すつもりだったが、まさか隣の部屋で電源を切って寝ているとは。簡単過ぎて拍子抜けする。それにしても、何処でも眠ることの出来るアンドロイドをわざわざベッドの上に寝かせているなんて、イヴはよほど大事にされていたらしい。悪いことをしたなと思いながらも、ユウはベランダへ続く窓を開けて、外へ逃げ出した。欄干から飛び降り、人目のつかない路地へ駆け込む。早く駅へ行って、隣街へ帰ろう。お嬢様、どんな顔をするだろう。そんなことを考え、ユウは胸を躍らせる。
「ん……?」
タイマーをセットされたイヴが、目を覚ますなんて思いもしないまま。



「くそ!あの恩知らず!!」
意識を取り戻したライネは口を悪くしながらパソコンを起動させた。イヴにセットしたタイマーの時間まではあとわずかだ。起動したら、その信号をキャッチして 居場所を見つけなくては。ちらりと床を見ると、未だにミドが眠ったままだった。起きる気配はない。ライネの体質は当身にもそれなりの耐性があるらしく、悔しいけれどこの身体はやっぱり便利だな、と複雑な気分になる。
「やっぱり、我儘なのかな……」
イヴの幸せはどっちなのだろう。パソコンの画面を見ながらふと考える。お金持ちの家でお嬢様と一緒に暮らすことか、今まで通りこの家で暮らすことか。もちろんライネはイヴにこの家にいてほしいと思っているが、今まで散々迷惑をかけてきた覚えしかない。そもそも元の持ち主は向こうなのだから、本当は返すべきなのもわかっている。
「……でも無理やり連れてくってのもおかしいだろ!イヴの話も聞かずに」
とにかく話し合わないと。そのためにはまず連れ去られたイヴを取り戻さなくては。余計な考えを捨てて、ライネはパソコンに向き合った。



「何だ?この状況……」
イヴは目を覚ました瞬間、見慣れない景色どころか景色が移動していることに気づき困惑した。目の前では燕尾が揺れている。誰かに後ろ向きに抱えられているらしい。ライネかミドに運ばれているのだろうかとも思ったが、二人はこんな立派な服を着ないし、それなりに重量のあるイヴを抱えて走るなんてこと出来ない。 そんなことをするなら起こすはずだ。だとすれば、自分は強盗か何かに抱えられているのだ。イヴはそう直感し、逃げなければと自分を抱える背中に思い切り肘をぶつけてやった。
「うぐっ!!?」
衝撃に驚いたのか、カエルが潰れたような声を上げて、イヴを抱えたユウが大きくバランスを崩した。その隙にイヴはユウの肩を押して腕の力だけで飛ぶと、空中で一回転して見事に着地をした。振り向くと、苦虫を噛み潰したような顔をしたユウが立っていた。
「まさか、起きるなんて……完全に油断していたな」
「何者だ、お前。人間じゃないみたいだが……俺なんか盗んでも大した金にならないぞ」
安物のパーツで出来てるからな、と完全に盗人扱いでイヴは話す。彼の感覚はどこかずれている。
「盗んだわけじゃないさ……レイ、うちに帰ってこい」
「レイ?」
ユウのモノクルが赤く光っている。イヴが目を覚ましたことによって発せられている信号に反応しているらしい。
「間違いない。お前はセレンお嬢様のアンドロイドだ。お嬢様はお前のことを心配している。私と一緒に来い」
イヴがレイ本人だと確信したユウはそう告げる。イヴも状況が掴めないのは相変わらずだが、ユウが何者なのかは理解して、彼を睨みつけた。
「お前、俺を捨てた家の回し者か……道理でご立派な格好をしているわけだ」
「そうだ。正確には私の独断だから、家の回し者というわけではないがな。とにかくレイ、お嬢様の元に帰れ。記憶だって返してやる」
「断る。俺はこの街を離れる気はない。そっちの記憶なんかいらない」
即答だった。イヴが知りたいのは自分が前の家でどう過ごしていたかという記憶よりも、何故捨てられたかという理由だ。それに何より、今は自分を拾ってくれたあの小さな家の方が大切だった。
「どうして。失くしたものを取り戻せるかもしれないのに。屋敷にも帰れる。待遇だって悪いようにはしない」
「忘れていた方が、幸せなことだってある」
そう言い切るイヴは、まるで経験があるような口振りだった。夕暮れみたいに真っ赤な瞳は、遠い過去を懐かしむようで。
「それに俺は苦労するのが好きなんだ。お前もアンドロイドならわかるだろう」
「それとこれとはまた、違うだろう!」
「……わからん奴だな。俺は帰りたくないと言ってるんだ。帰れない理由がある」
はっきりとそう言うと、ユウの目がぎらりと鈍く光った。ヨダに見せた、獣のような瞳。
「私だって、せっかくレイを見つけたのに手ぶらでは帰れない」
「!」
懐に手を入れたかと思うと、次の瞬間イヴの左手がナイフで壁に縫い付けられていた。同時に、右手もユウの左手によって壁に押し付けられて動かせない。無理に引き剥がそうとするとみしみしと手首が軋んだ。性能の差には勝てないらしい。
「お前にはもう一度眠ってもらった方が良さそうだ。悪く思うなよ」
ユウの右手がイヴの電源ボタンに伸びる。眠らせて、また運ぶつもりらしい。
「はあ、もう少し俺の意思を尊重したらどうなんだ……」
「主人のためには手段を選べないんだ。わかるだろ?」
ち、と舌打ちをするイヴの電源ボタンをユウは数秒押さえた。これでレイは再び眠る。そうしたら計画通り隣街へ帰る。今度こそ帰れる。そう内心勝ち誇っていたユウはイヴの右手を拘束していた手を解いた。その時。
「――――ぐっ!?」
腹を、思い切り強く蹴られた。衝撃でユウは後ろに倒れる。
「……油断の多い奴だな、お前は」
眠ったはずのイヴが、ユウの目の前に立っていた。仕返しと言わんばかりにユウの左手に抜き取ったナイフを突き刺して、右手を足で踏みつける。
「どうして、起きて……!」
「俺の身体は安物だが、家に優秀なメカニックがいてな……色々と工夫してるのさ。例えば俺自身と設定された人間にしか電源のオンオフが出来ないように造られていたり、な」
「そん、な……」
自慢気に自分が何故眠らなかったか語ると、イヴはユウの首元に結ばれたスカーフをさらりと解いた。ユウの首の左側には彼の電源ボタンがあった。大抵のアンドロイドはこの位置にボタンがあって、弱点になるので隠していることが多く、イヴのように露出させているものは滅多にいない。イヴは第三者に押されても眠ってしまわないという自信があるので露わにしているのだが。
「じゃあな、俺は家に帰る」
「ま、待て、レイ……!」
ユウの静止を無視して、イヴはユウの電源ボタンを押した。ゆっくりと、青紫の瞳が閉じていく。ユウが動かなくなったのを確認すると、ほうと息を吐いてその場に座り込んだ。
「俺の、前の持ち主、か……」
会いたくない、と言えば嘘になる。会って、自分を捨てた理由を聞き出したい。要らなくなったから捨てたのかそうでないのか、大切にされていたのかそうでなかったのか。それだけは知りたい。だけれど、この街から出て行くつもりは毛頭無い。
「いくらでも一緒にいてやるって、約束したんだ……」
誰に宛てるでもなく、そう呟いた。その声が空気に溶けた頃、イヴの耳の奥でコール音が響いた。誰かから、電話がかかってきている。イヴは右手の親指と小指を立てて受話器の形にすると、それを耳にあてた。それがアンドロイドの電話のとり方だったが、端から見ると電話の真似事をする変人にしか見えないため世のアンドロイドたちの間では不評のポーズだ。イヴ自身もあまり好きではないので外で電話をするのは嫌だったが、今回の場合は致し方ない。
「……もしもし」
『イ、イヴ!?無事か、何かされたりしてないか!?今どこに、うぇ、げほげほっ!!』
声の持ち主はライネだった。酷く混乱した様子で、あまりに慌てすぎてむせ返っている。
「落ち着け、俺は無事だ。そっちこそ無事か?俺が家から持ち出されていたということは、そっちで何かあったんだろ」
『けほっ……はあ、うんまあ、ちょっと痛い目には遭ったけど大丈夫だよ。ミドも気絶してたけど今は元気そう』
「大丈夫じゃなさそうなんだが」
痛い目とか気絶とか不吉なワードが聞こえてきて、イヴは疑いの声を上げる。
『いや、ほんとに大丈夫だから……詳しいことは帰ってきてから話すから、戻って来てくれよ。あ、お前をさらってった奴ってどうなった?』
「今電源を切って動けなくしたところだ」
『さすがだなあ』
「少し手こずったけどな。左手に穴が開いた」
その場にライネはいないのに、彼に見せるみたいにイヴは左手をひらひらと動かす。ナイフで刺された跡がくっきりと残っていて、指は動かせなくなっていた。
『えっ』
「すまん」
イヴの部品は普段ライネがバイト代を切り詰めて買っているものだから、無駄に新しいものを買わせてしまう罪悪感からイヴは詫びる。
『いや気にするなよ。それだけで済んだならよかった……直すから早く帰って来いよ』
「悪いな……ところで、このおかっぱ頭はどうする」
すっかり抜け殻のようになってしまったユウを見下ろす。イヴにとって好ましくない奴だけれど、このまま置いていくわけにもいかない。
『うーん……電源切れてたら無茶苦茶しないと思うし……とりあえず連れて来てくれないか』
「わかった」
短く返事をするとイヴは電話を切った。動かない左手を煩わしく思いながらユウを肩に担ぐ。さっきとは逆の立場だ。イヴは身長が高い方だけれど、ユウはそれよりも高いので担ぎづらい。ますます彼へのイライラを募らせながら、イヴは帰りを急いだ。



数分後、イヴは見慣れた青い屋根を見つけて、胸を撫で下ろした。大丈夫。ここが俺の家だと、自分に言い聞かせる。ここまで歩いてくるまでに、前の家のことばかり考えていた。今日は無事に帰ってこられたけれど、また誰かがこうして迎えに来るかもしれない。イヴの意思に関係なく。自分はどうなっても構わないが、 もしも一緒に暮らす二人に何かあったら。それだけが恐ろしい。だけどこの家を離れたくない。恐る恐る、ドアノブを握り、捻る。
「イヴ!」
「イヴくん!」
ドアに付けられたベルがちりん、と音を立て、それを聞きつけたライネとミドが駆け寄って来た。二人とも眠る前と同じ、元気そうな姿で。
「ただいま」
「おかえりなさい!」
「おかえり!心配したんだぞほんと……うわほんとだ穴開いてる」
ユウを担ぐ腕とは逆の手を取ると、違和感を感じたのかぱっと手のひらを見てライネが声を上げた。明るく装っているが彼の手は震えていて。余程不安にさせたらしく、イヴは申し訳ない気持ちになった。
「とりあえず、上行こ。これくらいならすぐ直せるだろうから」
「ああ、頼む」
「あの、この人どうします?」
イヴからユウの身体を受け取って、なんとか支えていたミドが尋ねた。
「うーん……リビングに寝かせとこうか。持ち主さんに連絡して引き取ってもらいたいけど、どこから来たのかはっきりとはわからないしなあ。そいつをどうするかは後で考えよう」
「そうですね。動き出したりしないか、一応見張っておきますからゆっくり修理してきてください」
「ありがと」
ミドに礼を言うと、二人は階段を上って行った。ミドは半ば引きずるようにして、ユウをソファに寝かせる。
「あ、この人も左手に怪我を……でも君、今度はきっと直してもらえませんよぉ。ライネくん、とっても怒ってましたから」
ユウの左手に残る刺し傷を見つけて、ミドは眠る彼にいたずらっぽく話しかけた。



「……で、そんなこんなでお前が攫われちゃって、もう焦ったっての」
「なるほどな……」
イヴの手を直しながら、事の一部始終を話す。
「それで、どうする?もしお前が捨てられた理由が何か仕方のない理由で、例のお嬢様がとってもいい人だったら」
平然と言ったつもりなのだろうが、ライネの目は泳いでいた。元の家に帰る。イヴがそう答えることを恐れている。怖いなら何故わざわざ自分から尋ねたりするのだろうと、イヴは疑問に思った。
「あのな、ライネ。俺は――――」

――――ピンポーン

「ん……?」
イヴが口を開いたその時、チャイムが鳴った。誰か訪ねて来たらしい。僕出てきますねー、と、ミドの声が下から響く。
「誰だろ」
「なんとなく予想はつくけどな……」
穏便に済めばいいが、とイヴは遠い目をして言った。

「はーい」
ミドがドアの覗き穴から訪ね人の姿を確認すると、そこには長い桃色の髪の少女が立っていた。もじもじと狼狽えた様子だ。
「あ、あの、突然すみません。お尋ねしたいことがあるんですが……」
「何でしょう?」
ミドはドアを開けた。その少女以外には誰もいないようだし、少女が何者なのかも大体見当がついていたからだ。
「この辺りで、アンドロイドを見かけませんでしたか?すごく人に似てるからわかりにくいんですけど、これくらいのおかっぱ頭で……」
その言葉で、ミドは彼女が例のお嬢様だと確信した。女の子が、おかっぱ頭のアンドロイドを探している。間違いない。柔和な笑顔を向けて、口を開く。
「ユウさんの、ご主人さんですね。彼ならこの家にいますよ。僕らも貴方を探してたんです」
「! ユウくんが、ここに……?」
ぱっと、少女の顔が驚きと喜びに染まる。やはり彼女が探していたのはユウだったようだ。
「ええ。いろいろあって今はお休みですけど……どうぞ上がってください」
「ありがとうございます……!それじゃあ、お邪魔します」
靴を丁寧に脱いで、リビングへと続く廊下を歩く。少女の膝より少し長めのスカートがふわふわと揺れ、可憐な印象を受ける。可愛らしくて上品な人だなあ、とミドは思った。途中、階段に向かって呼びかける。
「ちょっと失礼……ライネくーん、降りて来てくださーい!」
わかったー、とライネの返事が返ってきて、ミドは少女にリビングへ入るよう促す。
「そこのソファで眠ってます。起こしてあげてください」
「ユウくん!」
少女はユウの姿を見つけるとすぐに駆け寄って、彼の電源ボタンを押した。ウィーンと、機械音がしてユウは目を開いた。そして見慣れない場所で目覚めたためかきょろきょろと辺りを見回し、少女の姿を見つけてぎょっとした。
「お、お嬢様!?どうして……」
「あなたがわたしに黙って飛び出して行ったから、探しに来たのよ!心配したんだから、急にいなくなって……レイくんだけでなくあなたまでいなくなったら、わたし……!」
泣きそうな顔をしてユウに縋り付く。ユウ自身はこんなにも心配されるとは思っていなかったらしく、丸くて大きな目が泳ぐ。
「ご、ごめんなさいお嬢様……勝手に行動したことは申し訳なく思っています。でも、どうしてもお嬢様に会わせたい人がいて」
「わたしに……?」
ぱたぱたと、二人分の足音が聞こえてリビングの入り口を見ると、ライネがひょっこりと顔を出した。
「わ、可愛い女の子だ……!きみがユウのご主人さん?」
「え、ええ。あ、申し遅れました。わたし、セレンといいます。ごめんなさい。ユウくんがご迷惑をおかけしたみたいで……」
そうして、ぺこりとお辞儀をする。その仕草も様になっていて、さすがお嬢様、といった風だった。
「いや、全然平気……とは言えないくらいいろいろあったけど、きみが謝ることじゃないよ」
「ご、ごめんなさい……」
しゅん、とすっかり小さくなっているユウ。それなりに反省はしているらしい。
「それでユウくん、わたしに会わせたい人って、この方?」
「いえ、彼ではなくて……その、」
気まずそうに、ユウはライネを見た。お願いします、と言いたげである。
「はあ、仕方ないなあ……」
片手で頭を抱えながら息を吐くと、ライネは隣に立つイヴの手を引いた。その手は未だに震えている。イヴの姿は入り口の壁に遮られて、セレンたちからは見えなくなっていた。
「いいのか、俺が会っても」
「うん……嫌だけど、けじめはつけないと。せっかく向こうから来てくれてるんだしな」
「そうか」
そう短く返すと、ほんの少しの間だけ目を閉じて、イヴは入り口に立った。彼だって不安だ。記憶がないのに、彼女に何を話せばいいのか。この優しげな少女にどうやって、帰る気がないことを伝えればいいのか。もやもやした気持ちを抱えたまま、赤い左目はセレンを捉えた。
「…………レイ、くん……?」
泣きそうだった顔が一瞬驚きに満ちて、それから薄緑の瞳が揺らぐ。泣きそうではなくついに泣き出したセレンは、ゆっくりとイヴに歩み寄った。
「レイくん、よね」
存在を確かめるみたいに、手を取る。じわりと、イヴの冷たい肌にセレンの熱が伝わった。
「わかるの?」
「わかるわ。姿が違っても……レイくんのことは。嬉しい。まだ、元気にしてたのね。もう二度と、会えないと思ってた……!」
「!!」
感 極まったのか、セレンはイヴをひしと抱き締めた。男所帯であるためにこういうことに慣れていないイヴは、言おうと思っていたことも忘れ、がっちりと固まってしまった。それを見ていたユウもソファから立ち上がろうとして、ミドに引きとめられている。ライネは普段見られないイヴの様子に、手の震えは収まったが 今度は肩を震わせている。
「酷いのよ、お父様ったら。あなたが心を手に入れたから、わたしと懇意になってしまうんじゃないかって怖がって、それで……レイくん?」
返事をしないイヴを訝しく思ったのか、セレンが顔を上げた。
「その、非常に、言いづらいんだが……」
「わたしのこと、覚えてない……?」
イヴが意を決して告げる前に、セレン自身がイヴの言おうとしていたことを先回りして言ってきた。イヴは驚き、肯定するのには抵抗があったが、やがてゆっくりと頷いた。セレンがやっぱり、と言うように目を伏せる。
「そうよね。お父様が身元をばらすようなこと、するはずないわね……ごめんなさい。一方的に話してしまって」
「いや、いいんだ……忘れた俺にも、責任はある……今の話、詳しく聞かせてくれないか。知りたいんだ。俺がどうして捨てられたのか」
「ええ、言い訳みたいだけれど……わたしも聞いてほしいわ」
予想していたのか、イヴの記憶がないと知ってもセレンは冷静で。ゆっくり息を吸い込むと、話し始めた。
「…… レイくんはね、今から……もう十年も前になるのかしら。わたしのお世話役に買われたの。その頃はまだ感情の配布なんて行われていなかったから、わたしが設 定した通りにしか動けないお人形さんみたいなものだったけれど。それでもあなたと過ごすのは楽しかったわ。身分のせいか、それまでお友達がいなかったから。それからアンドロイドの投棄が問題になって、心を持ったアンドロイドがたくさん造られた。もともと心のなかったレイくんにも、感情のプログラムがインストール出来るようになった……それに飛びついたわ、わたし。レイくんが人間と同じように笑って、怒って、お喋り出来るようになってくれたら。夢みたいだって、思った。すぐにあなたに心をインストールしたわ。そうしたら、あなたはちょっとぶっきらぼうだけど優しい人になってくれた。設定されたこと以外のお話も、出来るようになった。楽しかった。でもね、それがお父様に気づかれたの。跡取りのわたしが、機械と仲良くなっていくのを怖がったのね。それである日、いつもみたいにメンテナンスをするって言って、あなたを処分したの。誰なのかわからない見た目にして、この街に捨てた。お父様は話してくれなかったけど、お父様の命令であなたの廃棄をした部下の人たちに問い詰めたら話してくれたの。本当は、その場でスクラップにするように命じられていたけれどその人たち、一緒にお仕事をしてたレイくんにそこまでは出来なかったんだって。だからせめてこの街に置いて行った。でも、本当に壊れる寸前にして捨てたから、彼らも誰かが拾ってくれてるなんて、思わなかったみたい。わたしだってそう思ってた……」
ぽろぽろと、再びセレンの瞳から涙が落ちた。
「本当に、よかった……生きててくれて」
それは元々生き物ではないイヴに言える言葉ではないけれど、きっと今の彼にはそれ以外になくて。イヴも彼女の言葉を咀嚼して、要らなくなったから捨てられたのではなかったのかと、ほっと息を吐いた。
「俺には、拾ってくれた人がいたから。じゃないとあのまま、ゴミ捨て場で死んでいた……」
ぼろぼろの手を掴んでくれた、暖かい手を思い出す。今でも大切な、レイではなくイヴの一番初めの記憶。
「そう、そうよね。レイくんを助けてくれて、ありがとうございました……!」
セレンははっとして、ミドとライネに向き合って礼をした。こう面と向かって言われると、気恥ずかしい。
「いえ、僕たちも彼には助けてもらってばかりいるので、そんな……」
「そうそう。逆に世話になってる」
うんうんと頷きながら、いかにイヴがこの家に尽くしてきてくれたかを説く。
「おいお前たち……俺が恥ずかしいからやめてくれ」
「うふふ、大事にされてきたのね。レイくんは」
にこにこと笑うと、セレンは今度はユウの元に近づいた。彼の手を取って、目を見つめる。
「ユウくんも、ありがとう。わたしのためにレイくんを探してくれたんでしょう?」
「え、あ、ええ、そ、そんな勿体無いお言葉……!」
言われ慣れていないらしく、ユウはやたらと挙動不審になる。
「あら?この手、どうしたの?」
「あ、これは……」
ふと、セレンがユウの左手の傷に気づいた。イヴがナイフでやり返した傷だ。
「あー、ユウがイヴを連れて帰るって言うから、ちょっと揉めちゃって。イヴお前、やり返したな」
「正当防衛だ」
ふん、と鼻を鳴らす。確かにあの時はこうでもしないと危なかったかもしれないので、ライネも特に咎めはしなかった。
「連れて帰る?」
「だってお嬢様、レイに戻ってきてほしそうだったじゃないですか。だから私、あいつを連れて帰ろうと思って……」
「ありがとう。でも無理矢理はだめよ。彼にだって、今の生活があるんだから」
「そう、ですね……」
そうしてまたユウは小さくなる。お嬢様と執事、というより母子のようでなんだかおかしな光景だ。
「イヴは、ここにいていいの?」
セレンの話を聞いていたライネが尋ねる。さすがに元持ち主の彼女にイヴを連れて帰る、と言われたら我儘は言えないなと、彼は考えていた。
「ええ、彼が望むなら。今の私は、彼の主人じゃないもの」
無理強いはしない、そう言った。ライネは咄嗟に、イヴの方を見る。
「そうだな……俺はここに残る。ここが好きだし、何よりまだ拾ってもらった恩が返せてないからな」
「そう……もうわたしと暮らしていた時間よりも長いし、その方がきっといいわ」
セレンはどこか寂しそうに、それでも子供の自立を見守る母のようにイヴを見ていた。彼女の中でも、意思が固まったらしい。
「それじゃあ、そろそろお暇しましょう。ユウくんと、レイくんがお世話になりました」
そう挨拶をして、もう一度お辞儀をした。
「ああ待って、ユウの怪我、直さないと」
帰ろうとする二人を、ライネが引き止めた。
「え、ライネさん、どうして……」
彼に嫌われたと思ったユウは、その言葉に目を丸くした。
「そんな手じゃ帰り道その子のこと守れないだろ。ただでさえ物騒なんだから、この街」
「あ、ありがとうございます……」
そういえばと、オレンジの髪の金槌を持った少年のことを思い出して、ユウは寒気を感じた。確かに、手負いの状態であんな人間に襲われたら上手く対処出来る気がしない。
「じゃあもう日も暮れちゃいましたし、ご飯食べて行きませんか?せっかく隣街からいらしたんですから、ゆっくりしていってくださいよ」
「作るのは俺だけどな」
「僕も手伝いますよ?」
「いや、俺だけで大丈夫だ……」
イヴはミドの提案をやんわりと却下した。ミドは料理が壊滅的に下手なのだ。
「それじゃあ、お言葉に甘えましょうか。ね、ユウくん?」
「ええ。お願いします」



それから皆で晩ご飯を食べて、いろいろと話をした。イヴがこの家に来る前のこと、来てからのこと。大体自分を中心に話が進むので、イヴは気恥ずかしそうにしていたけれど。
「……ライネさん、すごいな。刺される前より手の動きがよくなった」
イヴとユウは台所で食器の片付けをしていた。その合間に、ユウがライネに直してもらった自分の左手を見ながら言った。
「言っただろ、優秀だって」
「頭も直してもらったけど、全く不具合無いし……あの人なんでこんなところでくすぶってるんだ」
「好きなんだろ、この家が。あいつも俺と同じだ。それよりお前、頭も直してもらったってなんだ」
初耳だと、ユウに詰め寄る。事のあらましは聞いていたけれど、そんな傷を直した、とまでは話されていなかった。
「ここに来たばっかりのとき、子供に金槌で殴られたんだ。で、倒れてたところをライネさんに助けてもらった」
「恩知らず」
「う、悪かったと思ってるさ……!」
「お前に使った部品だってタダじゃないんだぞ」
「べ、弁償しますよもう……!」

「楽しそうね、あの二人」
台所で言い合うイヴとユウを眺めながら、セレンが面白そうに話した。
「ユウはなんか困ってるみたいだけど……でもイヴの奴、アンドロイドと知り合うの初めてだから嬉しいだろうな」
「そうね……この街にはレイくんしかいないんだっけ」
「うん。イヴを捨てた人たちも、ここなら誰かが珍しがって拾ってくれるかもって思って、置いて行ったんじゃないかな」
「で、まんまと成功したってことね。わたし今まであの人たちのこと憎んでいたけれど、感謝しなくちゃいけないかも」
「そうかもね。でも整備するからって騙して捨てちゃうなんて、許せないよなあ」
「そう!本当に酷いの。わたしが自分でメンテナンスとか、出来たらいいのに……」
「よかったらオレが教えようか?」
「ほんと?」
「うん。ちょっとした異常チェックくらいなら、教えられるよ」
「教えて!わたしもユウくんのお世話が出来るようになりたいの。もうレイくんのように傷付くアンドロイドは、生まれてほしくないから……」
「そうだね、オレも嫌だ。じゃあ、また今度うちにおいでよ。イヴがそっちにいた頃の話も、もっと聞かせてほしいし」
「いいの?またここへ来ても」
「いいよ。イヴもきっと喜ぶ。な、ミド」
「ええ。ぜひまたいらしてください」
「ふふ、ありがとう。レイくんに会えただけでなく、お友達が二人も出来て嬉しい!」
ぱあっ、と笑う彼女は花が咲いたようで、とても綺麗だった。



「送ってくれて、ありがとう。今日はとっても楽しかったわ」
隣街へと続く駅まで、ライネとイヴは二人を案内した。セレンの父親が車を出そうかと提案したけれど、ユウがいるから平気だと断ったらしい。
「こっちこそ、いろいろ面白い話が聞けて、楽しかったよ」
「いろいろとご迷惑をおかけして申し訳なかったです……」
「本当にな」
「ま、大事にならなくてよかったけどさ。今度来るときは穏便に頼むぜ」
ライネがそう笑って言うと、ユウは驚いて彼の方を見た。
「いいんですか、私が来ても」
「いいよ。きみも必死だったんだろうし……もう気にしてない」
アンドロイドというのは、主人のためなら手段を選ばないものだから。今日はそれをよく理解出来た。それが彼らの性質なら、きっと仕方のなかったことなのだと。
「あ、ありがとうございます!」
ユウが深くお辞儀をすると、駅の隣にある遮断機がカンカンという音と共に道を塞いだ。もうすぐ電車がやってくる。
「もう行かなくちゃね。ライネくん、約束、覚えててね」
「うん。セッちゃんもね。オレ、待ってるから」
「じゃあなレイ。今度は私が勝つからな!」
「穏便にって、言われたばかりだろうが……」
改札をくぐって行く二人に、ライネとイヴは手を振って、一時的な別れを惜しんだ。



「ユウくん、今までごめんね」
ごとごとと揺れる電車の中、ボックス席に座ったセレンは、向かい側にいるユウに呟くように告げた。
「え?」
「嫌だったでしょ?わたしがユウくんのこと、レイくんの代わりみたいに思ってたの」
「それはまあ……平気だったと言えば嘘になりますね。主人が他のアンドロイドのことを考えてるというのは、私が彼以上の働きを出来ていないということですから。ちょっと悔しかったです」
正直にそう言って、ユウは困ったように笑う。レイに執着していたのはセレンだけでなく、彼も今までセレンを取り巻くレイの影に少し嫉妬していた。
「本当にごめんね。でももう大丈夫よ。わたしもう、彼を諦める決心がついたもの」
「諦める……?」
「うん、レイくんの記憶はきっと戻らないわ。お父様がデータを残すなんて甘い真似するはずないもの。それにもう、レイくんはイヴって名前であの人たちに大事にされてるから。彼が幸せなら、それだけで十分よ。彼があんな目にあったのはそもそも私のせいなんだし、今更とやかく言う資格はないわ」
「本当に、それでよろしいのですか……?」
「ええ。昔みたいには戻れなくても、今からでもお友達になることは出来るもの。それに今のわたしには、誰かの代わりじゃないユウくんがついていてくれるから」
そう微笑むセレンはもう吹っ切れたようで。今までユウが見てきた彼女とは別人のようだった。
「! お、お嬢様ぁ……!!」



「さて、帰るかー」
セレンとユウの乗った電車が離れていくのを見送って、ライネとイヴは元来た道を歩き出した。
「ちょっと大変だったけど、いい人たち、だったな」
「そうだな」
「やな人たちだったら一発殴って帰すところだったけど」
「物騒なことはやめろ……」
「ほんとに……お前のこと、大事にしてくれてたのに……」
「ライネ?」
突然、ライネの声が震え、その場に立ち止まった。何事かとイヴも歩くのをやめて振り返ると、さっきまでの明るい表情はどこへいってしまったのか、ライネは俯いて手を握りしめていた。
「ごめん」
きらりと、ライネの顔の下で何かが光って落ちていった。
「元の家に、返してやれなくて、ごめん」
はらはらと、青い瞳から大粒の涙が溢れ出して、ライネの頬を濡らす。
「返してやりたかったよ、お前のこと。でも、でも、オレ、お前がいなくなったら、ひ、ひとりに。そうなりたくなくて、あの子にお前を連れて帰ってもいいよって、言えなかった」
「ライネ」
「ごめん、お前を何度もオレの我儘に付き合わせて。六年も縛り付けて」
そうめそめそと泣きじゃくるライネの姿を見て、イヴは思わず右目の眼帯を押さえた。痛覚のない身体なのに、そこだけ何故かじくじくと痛むような。ああ、そんな顔をしないでくれ。震えるライネの肩に手を置いて、イヴはこつん、と額をくっつけた。
「馬鹿、俺は返してもらいたいなんて思ってない。記憶も戻らなくて構わないし、お前に動ける身体と名前をもらったあの時から、俺はお前のものだ。他に帰る場所なんてない」
「でもイヴ、それは」
お前がアンドロイドだから、意思に関係なくオレに従ってるだけだ。おそらくそう続けようとしたのだろうけれど、イヴがもう一度額をぶつけて遮った。さっきより少し強かったのでいたた、とライネは小さく声を上げた。
「機械の言うことだからって、疑ってくれるな……俺はお前が死ねるまで傍にいる。三年前に自分でそう決めたんだ」
「……いいのか?」
まだ不安そうにイヴを見上げる。白い睫毛に乗った涙が、街灯を反射して光っていた。イヴはため息を吐きながらも、それをそっと拭ってやる。
「前からそう言ってるだろ。それに俺は、手のかかる子供の世話の方が楽しい。セレンはしっかりしてるからな。俺が世話を焼く必要はないだろ」
「なんだよ、それ!オレより十年も遅く生まれたくせに」
「はは、まあそういうわけだ。だからこれからもよろしく頼む」
ライネがいつもの調子で文句を言うとイヴは珍しく、本当に珍しく笑って、ライネの頭をぽんぽんと叩いた。
「イ、イヴ……?今笑って……」
「ほら早く帰るぞ。またミドが心配する」
照れくさいのかライネが言い終わる前にまた歩きだす。それでも足取りは軽くイヴが何だかご機嫌なのは手に取るようにわかって。ああ、あの人たちに会えて、捨てられた理由がわかってよかったなあとライネは思った。
「ま、待ってくれよイヴ」
そんなことを考えているとイヴとの距離が離れていくので、あわててライネは隣に並んだ。
「……なあライネ」
ライネが追いつくのを確認すると、おもむろにイヴは口を開いた。照れくさそうなのは変わらずに。
「ん?」
「ありがとう、拾ってくれて」
小さな声で伝えられた感謝の言葉。さっきまで涙に濡れていたライネの顔がぱあっと明るくなる。
「……ふふ、どういたしまして!」

bottom of page