「まあ~~~っすっかり直っちゃって!すごいわ~ライネくん。こ~んなに可愛いのに頭もいいのね~。うちの娘もらってくれないかしら」
「は、はは……ありがとうございます」
今日ライネはパソコン修理のバイトのために近所の一軒家に来ていた。修理自体は簡単ですぐに終わったけれど、修理中にしていた世間話がウケたようで、すっかりその家主のおばさんに気に入られてしまい修理が終わってからもおばさんの機関銃のようなトークを浴び続けていた。うう、帰りたい。今日はイヴと約束をしているのに。
「……それでね……娘の友達が……ああ、ごめんなさい!すっかり話しこんじゃって!ライネくん聞き上手だから夢中になっちゃったわ~。はい、これお代金と時間もらったお詫び!」
時計を見て随分時間が経っていたことに気づくと、おばさんはにこにこ笑いながら修理代と、お菓子が両手に余るくらいどっさり入った袋を渡してきた。
「え、いいんですかこんなに」
「いいのよ~!おばさん可愛い子にはお菓子あげたくなっちゃうのよ~。ね、またいらっしゃいね。まさかこんな若い子が来るとは思わなかったから今日はいいもの出せなくて。今度は美味しいケーキとお茶を用意するからまたお話し相手になってほしいわ」
まいったな、とライネは思った。さっきまで帰りたいとばかり思っていたのに、次に来るときもたくさん話を浴びせられることもわかっているのに、そんな言い方をされたらまた来たくなってしまうじゃないか。でもこの人柄のいいおばさんの話を聞くこと自体は嫌ではなかった。今日はイヴを待たせているから、気が立っていただけで。だから、素直に頷く。
「……ええ。オレでよければ、いつでも」
何だかんだで、ライネは人と話をするのが好きなのだ。
…………だからって。
「ん~、ここのアイス美味しいねえ。お金に余裕があったらまた来ようかな。ね、ライネ?」
どうして自分は今巷で話題の殺人鬼と一緒にのんびりお喋りをしているのだろう。ライネは早く帰らせてくれ!と叫んでしまいそうだった。
「ライネの奴、遅いな……」
極めて正確な体内時計で時間を確認すると、イヴは手元の本に栞を挟んでソファにもたれかかった。今日は右手の動きが悪いから、ライネのバイトが終わったらメンテナンスをしてもらう予定なのに。大方依頼主と話し込んでいるのだろうと、予想はつけているけれど。今日は掃除も洗濯も、やるべき家事を全て終わらせてしまったのでイヴは暇なのだ。ミドは相変わらず薬作りに勤しんでいるので邪魔をするわけにはいかない。だから仕方なくリビングで読書をしてライネが帰ってくるのを待っている。アンドロイドが読書をすると必要ない情報にメモリが圧迫されてよくないと聞くが、イヴは読書が好きだった。自分から本を買ったりはしないけれど、ライネやミドが買ってきたものを彼らが読み終わった後読ませてもらうのだが、これがなかなか面白い。大体が機械や化学の専門誌なのでそれらの内容はイヴにはあまりよくわからないけれど、たまに買ってくる物語の本が特に興味深い。人が生身のまま超能力で空を飛んでみたり、居眠りして目覚めたら宇宙を走る列車に乗っていたり、自分よりももっと人間に近く、食事が出来るアンドロイドがいたり。自分自身が科学の錐を集めて作られたものだったから、紙の上で踊るそれらの非現実的なものたちを見ると、不思議な気分になった。本を読んでいる間だけ、イヴの周りを取り囲んでそれらは現実になる。彼はその瞬間が好きで、ときどき圧迫されたメモリをライネに整理してもらいながらこうして読書をする。だけれど今は少し疲れたので寝てしまおうかと思ったところだった。 読書によるデータの処理も出来るしちょうどいいかと、電源ボタンを押そうとしたところ。
「……イヴくん?ライネくんはまだ帰ってないんですか?」
地下室からミドが上って来て、イヴしかいないことに疑問を投げた。どうやら休憩をしに来たらしい。
「ああ。どうせ依頼人とお喋りしてるんだろ……いつものことだ」
「社交性があるのはいいことですよ。僕はそういうのが得意じゃないから、羨ましいくらいです」
「確かに」
話しながら、ミドもソファに腰掛ける。その重みで隣に座るイヴの身体が一瞬浮く。と同時に入れ違いに立ち上がる。
「何か飲むか?休憩するんだろ」
「あ、ありがとうございます。そうですね……今日は紅茶が飲みたいです」
「わかった」
イヴは台所に向かうと、電気ケトルの電源を入れて、右手のせいでいつもほど手際良くは出来ないが、てきぱきとティーポットなりカップなりの準備をした。朝焼いて、ライネが少し食べてそのままだったスコーンも引っ張り出しておく。
「本読んでたんですか?」
ソファの前のテーブルに置いてあった、さっきまでイヴが読んでいた文庫本をミドが手に取る。
「暇だったからな」
「これまだ読んでないですね……ライネくんが買ってきたのかな。どんな話でした?」
「読む楽しみがなくなるぞ」
「僕そういうのは平気なタイプなんです。むしろ内容を聞いてから読むかどうか決めるくらいで」
「へえ、ライネとは逆だな。……そうだな、俺もまだ途中までしか読んでいないからはっきりとは言えないが……まあ、面白い話だ」
何かあらすじを話そうと思ったけれど、特に思いつかなくてそう答えた。イヴのCPUにはそういった感想などを考える語彙力があまりない。
「それだけじゃわかんないですよぉ。はっきり言わなさすぎです」
「いいじゃないか。読んでみればわかるんだから」
いじわるだなあと呟きながら、ミドは本をパラパラとめくってみた。宇宙がどうとか、ロボットが戦っているとか書いてある。
「それはそうですけど……あ、SFなんですね。ロボットが出てる……こういうのイヴくんはどう思うんですか?おんなじアンドロイドがフィクションに登場するというのは。アンドロイドはこんなこと出来ない!とか思ったりします?」
「まあ、フィクションだからな。非現実の世界でわざわざ現実との齟齬に目くじらを立てたりはしないさ。こういうことが実際出来ればいい、とは思うが」
ポットに湯を注ぎながら、イヴは答えた。ぐらぐらと煮立った湯の中で、茶葉が揺蕩うのを眺める。
「うーん……じゃあ、食事とかしたいと思います?いつも思ってたんですよ。イヴくんはご飯を食べられないのに、作ってもらうのは申し訳ないなって」
「いや……食事はそもそも食欲が存在しないから、したいとは思わないな……ほら、お前たちも俺が充電してるところを見て自分も充電したいな、なんて思わないだろ?それと同じだ」
「的確な例えですねぇ……そういうものなんでしょうか」
「それに、家事をするのは俺の仕事だしな。見返りがないわけでもないし、別に不満なんてないさ……紅茶、入ったぞ」
「あ、ありがとうございます」
美味しい、いつもそう言ってもらえるだけで満足だった。別に特別何か欲しいわけではない。ミドはライネのために、ライネはイヴのために行動してくれている。だから、イヴは二人のために。それだけでいい。カップとスコーンの入った皿を持って、ミドの隣に座った。そこで、思い出したように口を開く。
「そうだ、食事がしたいとは思ったことがないが……」
「?」
「人間になりたいとは、何度か思ったことがある」
「それじゃあお邪魔しました〜」
「さみしいわ〜。今日はありがとうねライネくん」
名残惜しそうに玄関まで見送りに来たおばさんにぺこりとお辞儀をして、ライネは扉を開けた。さあやっと帰れるぞ、と伸びをして門扉をくぐったその時。
「ライネ!」
不意に名前を呼ばれ、声のした方に視線をやった瞬間、ライネは反射的に頭を庇った。門扉のすぐ傍、そこにはいつもライネを殴る殺人鬼がいたからだ。
「も〜、いきなり頭押さえなくていいじゃん。失礼しちゃうなあ」
その様子を見て、殺人鬼ヨダは不満気に言ってみせた。
「そりゃお前、いつも出会い頭に殴られてちゃそうなるだろ……」
「安心してよ。今日は気分じゃないのさ。金槌だって持ってないよ」
銃を突き付けられたみたいに両手を上げて、今は武器を持っていないと示す。それを見てライネはようやく頭の上の手を下ろした。
「……で、なんでこんなとこにいるんだよ」
「いやあ、散歩してたらキミがこの家に入ってくのが見えたから」
「え、まさかオレが入ってから今までずっと待ってたのか!?」
「うん。お利口さんでしょ」
何でもないようにヨダは笑う。三時間はおばさんに捕まっていたのによくやるなとライネは思った。
「いや約束とかしてないから別に待たなくても……」
「いいじゃん、今日は少しキミとお喋りしたい気分だったんだ」
「オレと?」
「うん、立ち話もなんだしあそこの喫茶店行こうよ。何か奢って」
ぐい、とライネの腕を引くと彼の返事も待たずにヨダは向かい側にある喫茶店へと歩き出した。
「お、おいオレ今から約束が……っていうかオレが奢るのかよ!」
二人は人気の少ないその喫茶店に入ると、窓際の席に座った。夕暮れ時のオレンジの日差しが射し込んできて少し眩しいが、暖かくて気持ちいい。
「何注文する?ボク、クリームソーダ」
机の端に立て掛けられたメニューをぱっと手に取ると、始めから決めていたのか一瞬ドリンクのコーナーを見てクリームソーダの項目を確認すると、すぐにライネにメニューを渡した。
「奢られる気満々だな……それくらいならいいけど。……うーん何だかんだで腹減ったな。何か食べるか」
「夕方なのに?晩ご飯食べられなくなるよ」
「結構燃費悪くてさ……わりとすぐお腹減るんだよ。食費かさむから普段は我慢してるけどさ。まあオレの場合食べなくても死なないんだけど……」
「食欲には勝てないって?」
「うん。イヴが作るご飯美味しいしさ」
そうやって食事事情を話していると、ウェイターが注文を取りにやってきた。
「クリームソーダくださーい」
「あ、アイスティーとホットサンドで」
かしこまりました、とウェイターが去っていくとまた話を再開する。
「イヴくんがご飯作るんだ。なんか意外」
「あいつ結構ああいうの好きみたいなんだよ。オレたちがてんで料理出来ないってのもあるけど……」
「キミご飯作れないの?ボクでも出来るのに」
へえ、とヨダは勝ち誇ったような顔をする。やはり彼も子供だ。見た目歳の近いライネとは競いたい年頃らしい。
「やってみれば出来ると思うんだけどさ……火が怖くて台所近寄れないんだよ」
「火?トラウマでもあるの?」
「ん……ちょっとな」
「火使わないコンロ作ればいいのに」
ライネのトラウマというのは少し気になったが、彼の浮かない顔を見るとそれまで和やかだった雰囲気を壊したくなくて、ヨダは興味のない振りをした。
「そうなんだよ……なんで家建てる時そうしなかったのかな……うっかりしてた」
「今からでも変えればいいじゃん」
「お金が……それにイヴがせっかく作ってくれてるから今更いいかなって」
「そんなこと言ってていいの?最近は料理の出来る男の子が人気なんだよ。ボクの方が先に彼女ゲットしちゃうよ」
また勝ち誇った顔。ライネは自分が成人済みだなんて言えないなと思った。ヨダは見たところ十五、六歳だから、そんなに年上だとバレたら余計に呆れられそうだ。
「彼女なー……こんな身体じゃなかったら積極的にアピールしに行くのに。でも今は機械弄りしてる方が楽しいな」
「ボクもいらない。一人の方が楽だよ」
どうせ顔も見えないし。と小声で呟く。ライネには聞こえていないようだった。
再びウェイターがやってきて、クリームソーダとアイスティーがテーブルの上に置かれた。
「わーっ、ほんとにアイスがのってる。ボクこれ食べるの初めてなんだ」
緑の液体の上に浮かんだバニラアイスにはしゃぐヨダは年相応、どころかそれよりも幼い子供のように見える。ライネはそれが微笑ましくて、薄く笑った。
「すごい甘いから、それだけで晩ご飯食べられなくなるかもな」
「甘いもの好きだからへーき。それに無理だったら今日のご飯は軽くするからいいよ」
さっきのヨダの台詞を借りて言うと、特に気にしていないような声が返ってきた。他にご飯を食べる家族がいたなら言わないであろう言葉に、ライネは疑問を浮かべた。
「そういや、一人暮らしなのか?」
「うん。昔は家族がいたけど今はひとり。気楽でいいよ」
アイスをスプーンでつつきながら平然とヨダは答える。頭の中でもう一度母と弟を殺しながら。
「そんなもんかなあ。オレ、もしイヴとミドがいなくなったらやってけないよ」
「それはイヴくんたちがいい人だからだよ。大事にされてたらそんなこと思わないさ」
ヨダはスプーンをグラスの中に突っ込んだ。ガシャ、と氷が音を立て、バニラの白が緑の水に溶けていく。大事にされてなかったのかなあ、とライネは思う。殺人なんて犯すのも、家庭環境が複雑だったせいなのだろうかと。口に出すのはどうかと思ったので、聞かなかったけれど。
「あ、ありがとうございます」
またウェイターがやってきて、ライネが注文したホットサンドを置いて行った。
「そういえば、学校とか行ってたりしないの」
「高校行ってたけど、すぐに辞めちゃった。人多い場所行くの辛くてさあ」
顔が真っ黒な人間たちに囲まれながら勉強をするなんて、まっぴらごめんだった。
「あー、オレも人混み嫌い。白髪めっちゃくちゃ見られるわ、万が一転んで怪我なんかして、傷が治るとこ見られたらまずいし」
「お互い体質には悩まされるねえ」
「そうだなあ……」
ヨダの言う体質が人酔いするとかそういうものだと思ったのか、ライネは特に違和感を感じることなく頷いて、ベーコンとレタスの挟まったホットサンドを頬張った。
「おいしい」
「ほんとにおいしそうに食べるねえ」
ふにゃりと幸せそうに破顔するライネを見て、ヨダは言った。カウンターの向こうにいる店主の顔を盗み見ると、彼も嬉しそうである。きっとライネにご飯を作るイヴくんも、喜んでるんだろうなあ、なんて考える。
「一個食べる?」
「食べるー」
まだ皿に乗っているもう一つを指差すので、遠慮なく返事をすると、ライネは皿を真ん中に寄せてきた。ヨダはそこからホットサンドを受け取ると口に運んだ。
「んー、おいしい」
「だろ」
ライネはまるで自分が作ったみたいににこにこ笑っている。ご飯作ればいいのになあ、とヨダは思った。優しいライネが作るご飯はきっとおいしいだろう。
「……ボク、ライネみたいなお兄ちゃんがほしかったなあ」
「ん?」
「なんでもない」
こんなどうしようもない自分と話をしてくれて、自分の食べ物を分けてくれて。こんな人が家族にいたら、もしかしたらボクは、道を間違えずに済んだかもしれないのに。今までの自分の行動を後悔したことはないし、これからもするつもりはないけれど、やはり気の狂った行動をしていると自覚しているだけにもしも普通に暮らせたら、と思うことは多々ある。
「……ヨダ?」
「え?あ、ごめん。ぼーっとしてた」
ライネが訝しげに顔を覗き込んできて、はっとする。
「お前、やっぱ今日変だよ。殴ってこないし、急にオレなんかとお喋りしようだなんて。何かあったのか?」
じくりと、左肩が痛むのをヨダは感じた。普段ライネは他人の感情の機微に敏感で、いろいろと配慮してくれるけれど察しが良すぎるのも嫌だなあ、とヨダは思う。彼の言う通り、誰かと話すことによって気を紛らわせて、忘れてしまいたくなるような嫌な出来事があった。思わず肩に触れる。オーバーオールの下のTシャツのそのまた下、ヨダの左肩には大きな青黒い痣があった。昨日殺した男に傍にあったシャベルで反撃されて出来た傷だった。殴られるのは随分と久しぶりだったが、ヨダに昔の出来事を思い出させるには十分過ぎる傷と痛み。殴られるのって、こんなに痛かったっけ。この間までは、こんな傷が身体中にあったっけ。そう思うと吐き気がした。母親の影が脳裏にちらついて離れない。最近は忘れかけていたのに。気持ち悪い、どうしよう。また誰か殺す?何かしていないとおかしくなってしまいそうだ……そんな時、ヨダの大好きな、綺麗な白髪が民家に入って行くのが見えた。
「……別に。言ったじゃん、そういう気分なんだって。あーもしかして、金槌のないボクなんてボクじゃないって言いたいの?傷つくなあ。ボクたまには誰かとお茶したい、いたって普通の十六歳だよ」
「んなこと言ってないだろ……はあ、人が心配してるのにお前は……」
お人好しめと、ヨダは内心でべーっ、と舌を出す。昨日の出来事をライネに話してしまいたかったけれど、話すと自分の今までの境遇まで芋づる式に口走ってしまいそうだったのでやめた。誰にも話すつもりはない、ヨダの暗い過去。話したところで何かが解決するわけでもなければ、同情されたいわけでもない。人殺しをする理由をわかってもらえるとも思わない。ライネがいくら優しくて、ヨダの話を当たり障りない程度に聞いてくれても、結局ライネはヨダではないのだから。
「ま、いいじゃん。さーて、そろそろ行こっかな」
クリームソーダを一気にストローで吸い込んで、ヨダは立ち上がった。
「あ、おい待てよ」
ライネも慌ててアイスティーを飲み干すと、伝票を掴んでヨダの後を追った。
「じゃあねライネ。今日は楽しかったよ。次会った時はちゃんと殴りに行くから安心してね」
「それ全然安心できねーから……ほら、真っ直ぐ帰れよ」
「うん、またね〜」
ぶんぶんと手を振って歩き出すと、ライネが控えめにだけれど手を振り返してくれて、ヨダの気分は高揚した。こんな風に友達(ヨダが一方的に思っているだけだけれど)と話をして飲み食いして、またねとお別れするのはいつぶりだろうか。こうも普通の十六歳のように過ごしていると、自分はまだまともなのだろうかと 錯覚してしまう。ライネの顔だけははっきりと見えるので尚更だ。今でも周りを見渡すと、黒いもやがたくさん見えるというのに。
「……ん?」
大通りに出ると、道路の端に人だかりが出来ていた。黒い顔が何かを取り囲んで騒いでいる。そのすぐ側で前面が大きく凹んだ自動車が止まっていたので、ヨダは交通事故があったのだとすぐに察した。こんな場面に遭遇するのは初めてのことで、不謹慎だとは思ったが興味を惹かれた。だから近づいて人だかりの中心にあるものを覗き込んだ。そうして。
「おい、救急車呼んだか!?」
「呼んだけど、もう間に合わないよこれ……」
ヨダは戦慄した。周りの人たちが口々に話している。そこには、女性が頭から血を流してぐったりと倒れていた。真っ白な顔からは、生気が感じられなくて。彼女がすでに死んでしまっているのは明白だった。
しかしヨダが驚いたのは女性が死んでいることではなくて、その女性の顔がはっきりと見えたことだった。彼女の顔にはいつもの黒いもやが見当たらない。
「死体の顔は、見えるんだ……」
今まで自分が殴り殺して顔の潰れた死体しか見てこなかったため、気づかなかった。死んだ人間の顔は見えるということに。だからヨダが殴る度、死に近づいていく人の顔からはもやが晴れていくのだと。そのときやっと知ることが出来た。つまりヨダは、生きている人間の顔を見ることは出来ないのだ。
「あれ、じゃあ何で……」
さっき別れた少年の顔を思い出す。彼はちゃんと、生きた人間なのに。どうして顔が見えるのだろう。
「ライネ、キミは一体、何なの……?」
「んー、いい感じの図鑑があったんですけどね……どこにしまったんだろ」
物語もいいけれど、実際に存在する美しいものを見るのも楽しいですよと、ミドがイヴに提案したのは紅茶を飲んですぐのこと。おすすめの本があると探しに行ったはいいものの、なかなか見つからないようで地下室の本棚をごそごそと掻き回すミドの後ろで、イヴはたくさんの本を眺めていた。ミドの本棚は化学の本ばかりだと思っていたけれど、生き物の写真集や図解なども置いてあって、少し興味を惹かれた。ミドのおすすめの図鑑が見つかって、それを読み終わったら読んでもいいか頼んでみようとイヴは思った。彼は結構知識欲がある方らしい。
「あ、すいませんイヴくん、何か落ちたので拾ってもらえませんか。写真かな……」
ミドが高いところにある本を抜き取った拍子に、ひらりと小さな紙が落ちた。裏向きに落ちたそれを拾ってみると、やはり写真だった。イヴは表を確認すると、慌ててそれをパーカーのポケットに突っ込んだ。
「何でした?」
ミドが振り向いて、何を拾ったのか尋ねてくる。
「お、俺がここに来たときの写真だ。恥ずかしいから見ないでくれ」
「え?そう言われると見たくなるんですが……」
興味津々、といった様子で詰め寄ってくるミドに、イヴは後ずさりした。じりじりと距離が縮まり、ミドの視線がポケットへと向かう。
「そんなことより、図鑑を探してくれ。掃除中に面白いものを見つけて作業が進まなくなる法則にはまるぞ」
「えー……何か堕落した人間みたいなことを言いますね……まあいいです。今は図鑑探しが先決ですしね」
「ああ。……そうだ悪い、用事を思い出したから先にリビングに戻る。見つかったら教えてくれ」
「はーい。がんばります」
そうしてイヴは逃げるように階段を上ると、ポケットから写真を取り出して眺めた。咄嗟に隠したそれには少年が二人写っていて、一人は幼い頃のミド、もう一人はイヴと同じ黒髪をしているけれど、決してイヴではない少年だった。首に黄緑のマフラーを巻いている。二人とも、幸せそうに笑っていた。
「こんな時も、あったんだな……」
そう懐かしむように呟くと、写真を裏返した。そこには写真の詳細を示す文字が書かれていた。
『今日から二人暮らし。ライネくんと』