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最初のぼくは、アンドロイドとしては全然駄目な奴だった。何をしてもご主人サマには喜んでもらえなくて。それでもぼくは、彼の身の回りの世話を精一杯がんばった。笑ってもらいたかった。だってそうしないと、ぼくたちはただの鉄くずなんだから。



「おかえりなさ……」
仕事から帰ってきた坊ちゃんを玄関に迎えに行くと、返事をされないまま鞄を押し付けるように渡された。今日もただいまと言ってもらえなかった。ぼくが不甲斐ないからだと、すぐにそう思った。鞄だって、渡される前に自分からもらいにいかなくちゃいけなかったのに。その失態を挽回しようと、坊ちゃんに尋ねた。
「……あの、ご飯と、お風呂も沸いてます。先にどちらにされますか」
「お前いつまでそれ聞くんだよ」
「え……」
次の瞬間、頭が揺れた。鞄が床に落ちる。CPUが殴られたという計算結果を出すのには、少し時間がかかった。
「いい加減どっち先にするかぐらい予想しろよ」
ああ、また失敗した。前にはちゃんとどちらにするか聞けと言われたのに、どこを間違えたんだろう。それがわからないぼくは、やっぱり駄目なアンドロイドなんだろう。
「何だよその顔」
また殴られた。気に障るような表情をしていたんだろうか。拳の勢いが強くて、ぼくは床に倒れ込んだ。胸ぐらを掴まれて、もう一回。これも、いつものこと。
「はは、お前普段役に立たねえけど、サンドバッグの才能はあるな。無駄に人っぽい形してるのがいいぜ。人間相手にはこういうこと出来ないからな!」
坊ちゃんが笑うのは、ぼくを殴る時だけだ。お父様に社会勉強のためだと彼の経営する会社とは別の他社への就職とぼく付きの一人暮らしを強いられたストレスを発散するこの時だけ。この時だけが、ぼくが喜びを感じる瞬間だった。だって、坊ちゃんがぼくを使って笑ってくれているのだから……。


その日の坊ちゃんは、先に夕食を食べてお風呂へ行った。その間に食器を洗う。ぼくはこの水仕事が一番怖かった。何故ならぼくの手は身体を水から守るはずの人工皮膚が裂けて、中の部品が剥き出しになっていたからだ。水が入り込んだりしたら、漏電してどうなってしまうかわからない。それだけは嫌だったから、裂けた部分にはビニールテープを巻いてなるべくその部分が水に触れないように作業をしていた。
「最後にメンテしたの、いつだったっけ……」
ところどころ、部品の劣化が自分でも確認出来た。殴られているせいもあるのかもしれないけれど、頭の辺りが特に。このままだと、動けなくなってしまうかもしれない。確か近所にアンドロイドの修理をしているお店があったはずだから、そこに行ってみようか、そう思ったけれど、勝手に外に出たりなんかしたらきっとまた坊ちゃんが怒ってしまう。だから、行けなかった。



しかしそんなぼくの身体が本当に動かなくなるのに、それほど時間はかからなかった。

「お前何度言ったらわかるんだ!!」
ばちんと、耳の中の集音マイクが破裂するような音を捉えた。また頬を殴られた。身体が床に落ちている。いつものこと、いつものことなんだ……起き上がって、坊ちゃんに笑ってもらわないと。そう思って、いつものように立ち上がろうとした。……が、その日は様子がおかしかった。
(足が、動かない……)
必死で信号を送っているのに、ぼくの両足は立ち上がる気をなくしてしまったみたいにぴくりとも動かなかった。ならせめて上半身だけでも起こそうと腕に力を入れようとしたけれど、それも無理だった。身体がまるでぼくのものじゃないみたいに、動かない。
「おい、いつまで床にへばりついてんだよ」
「……う、ぁ……」
動けないんです、そう言おうとしたのに、声も出なかった。坊ちゃんがうつ伏せのままになっているぼくの脇腹を蹴る。何だろうこれは。ぼくはどうしてしまったんだろう。身体は動かないのに、電源が入ったままなのが怖かった。
「もしかして、動けねえのか?」
ようやく坊ちゃんも気付いたらしく、ぼくはなんとか動かせた首を縦に振って起き上がれないことを伝えた。
「まじかよ……もしかして修理いんのか。めんどくせえ。お前使えねえし、親父に新しいの買ってもらうか」
ぞっとした。捨てられる。スクラップにされる。まだぼくは、何の役にも立てていないのに。嫌だ、修理したらちゃんと動けるようになりますから、どうか捨てないで。そう縋り付きたかったけれど、今のぼくにはそんな力はなかった。坊ちゃんがポケットから携帯電話を取り出して、どこかに電話をかけようとする。やめて。
「……ああ、父さん? あのアンドロイドなんだけど、壊れたみたいでさ」
本当にお父様と話をしているらしい。ぼくは本物の鉄くずにされてしまうのかな。怖い。スクラップになるのって、どんな感じなんだろう。
「え? まだ寿命じゃない? はいはい、わかりました」
ぼんやりと坊ちゃんを見ていると、不意に彼が投げやりに電話を切った。そしてぼくの腕を掴み、玄関まで引きずっていく。
「命拾いしたな。修理しろってよ」
お父様は、坊ちゃんに新しいアンドロイドを買い与えるのを拒んだらしい。ぼくはほっと安堵した。どうやらまだ、スクラップにならずに済むみたいだ。ぼくの身体はガレージまで引きずられ、車に載せられた。

そしてぼくは、一生坊ちゃんのお父様に感謝することになる。もしあの時彼が止めてくれなかったら、ぼくがあの人に出会うことはなかっただろうから。



「これは……」
坊ちゃんが運べないからと、わざわざ駐車場まで来てくれた金髪で首に赤いスカーフを巻いた技師さんは、車の中でシートに座らされたぼくを見るなり、怖い顔をした。どうしたんだろう。そんなにぼくの身体は、よくないんだろうか。ちゃんと元通り動けるようになりたいのに。
「どうすか、直せます?」
「……詳しく診ないとわかりませんね。とりあえず店まで運ばさしてもらいますわ」
車の中へ足を入れると、技師さんはぼくの身体を横抱きにした。重いだろうにすごいなあと、どこか他人事のように思った。
「……辛かったやろ」
その時訛りの混じった小さな声で、ぼくにだけ聞こえるように技師さんは言った。でも、何のことだろう。その時のぼくにはわからなかった。


「よっしゃ、ちょっと見してな」
技師さんは坊ちゃんに店で待つように言うと、ぼくだけを休憩室へ連れて行って、作業台の上に置いた。そしてぼくの身体を観察し始めた。
「一目見た時から思ったけど、酷いなあ……何やこの手」
「ぼく、も……だ、め、ですか」
精一杯口を動かして声を出した。スピーカーからはノイズだらけの聞き取りにくい音が出た。
「えらい声やな……大丈夫やで。おれがちゃんと直したる」
技師さんはぼくの汚れた髪を撫でながらそう言った。何故だろう、すごく安心する。
「おね、がい、します……早く、しごと、戻りたい……」
動けるようになって、坊ちゃんの役に立たないと。けれどぼくがそう言うと、技師さんの表情が曇った。
「なあ、普段あの人、きみに何してるん? きみのこの怪我、普通やないよ。まともに生活してたら、こんな傷むことあらへん」
「ぼくが、だめな、だけです。ぶたれるの、ぼくが悪いから」
「……きみは、あの人と一緒におって楽しい?」
「楽しいって、よく、わかりません。でも嬉しいは、わかります。坊ちゃんが、笑ってくれたら、嬉しいです」
「あの人、きみに笑ってくれる?」
「ぼくが、役に立てないから、あんまり……でもぼくをぶつ時は、笑ってくれるから……嬉しいです、ぶたれると頭とかがちょっと、壊れるけど、怖くないです」
ぼくがそう話していると、技師さんの顔がみるみる青くなっていった。ぼく、何か悪いことを言っただろうか。
「きみ、帰ったらあかん」
「え、」
技師さんは青い顔のままそう言い残すと、ぼくの返事も聞かずに休憩室から勢いよく出て行ってしまった。帰っちゃだめ? どうして? ぼくが欠陥品だから? そんな疑問が次々と、湧いて出た。
「あ!? 返さねえってどういうことだよ! 金払うんだからさっさと直して返せよ!!」
そんなことを考えているのも束の間、部屋の外から坊ちゃんの怒号が飛んできて、身体が強張った。何を話しているんだろう。ぼくはかろうじて生き残っていた耳をよく聞こえるように調節して、外の会話を聞いた。
「どうせ直したってあんた、また壊すやろ。修理代がかさむだけですよ」
「っ……」
「もちろんタダでいうわけちゃいます。それなりの代金は払わさしてもらいますし、あの子が抜けた分の家政婦さんも紹介しますよ。あんたには人間のお手伝いの方がええでしょ」
「なんでそんなことわかるんだよ」
「わかるに決まってるやろが、何人アンドロイド診てると思てんねん。あんたがあの子のこと憂さ晴らしに殴っとったことなんか、ぱっと見でわかるわ」
今度は技師さんの方の声に怒りが混じっていた。さっきから彼はどういうわけか怒っているみたいだった。
「アンドロイドは、そういう道具とちゃう……あんたはそれがわかってないみたいやから、あの子はおれが引き取ります」
技師さんの言葉が、引っかかる。引き取る? 何を言っているんだろう。ぼくは、どうなってしまうんだろう。
「……馬鹿みてえ。たかがモノじゃねえか」
坊ちゃんがそう言った直後、何かをひったくるような音がして、それから激しい足音が遠のいていった。坊ちゃんは、行ってしまったんだろうか。本当にぼくを置いて。ぼくは仕えていた人に捨てられたのか、そう思った。けれど不思議と、辛いとか悲しいとか、そんな気持ちは湧いてこなかった。ぼくみたいな鉄くずは、売られたって仕方ないんだと、思っていた。


「……聞いとった?」
部屋の扉が開いて、技師さんが入ってきた。やっぱり出て行ったのは坊ちゃんだったらしい。技師さんはばつの悪い顔をしていたけれど、しっかりと聞いていたので首を縦に振る。
「ごめんなぁ、ご主人取るような真似して」
「いいん、です。いつかこうなる気、してました……でもぼく、これから、どうなるんですか」
「んー……ま、それはあとで考えよ。今は修理修理」
技師さんはごそごそと道具を用意すると、ぼくのぼろぼろの手に触れた。
「ほんまに、酷いなぁ……これ自分で巻いたん」
防水のために巻いたビニールテープを指して、尋ねられる。こくりと頷くと、技師さんはため息を吐いた。
「ひとりでがんばってたんやな、ほんまに」
「いけなかったですか」
「いや、悪いのはあのボンボンやから……よし、とにかくやらな進まんな。電源切るでー」
技師さんの手が、ぼくの首に伸びる。本当に、直るのかな。一抹の不安がよぎる。でも、直らなくたっていいのかもしれない。ぼくにはもう、使ってくれる人はいないのだから。
「おやすみ」
そんな不安を、拭うような声がした。まるで人間の子供を寝かしつけるみたいな、落ち着く声。ぼくは、機械相手にそんなことをする技師さんが、不思議でならなかった。
「おやすみ、なさい……」
意識が消える。次に目を開けた時のぼくは一体、どうなっているのだろう。少しだけ、楽しみになった。



「おはよーさん、具合どう?」
ふわふわと、周りが明るくなっていくような感覚。目を開けると、前よりも鮮明に天井が見えた。技師さんの声も、はっきりと聞こえる。
「おはようございます……壊れる前よりも、大分気分がいいです」
「それはよかった。起き上がれる?」
手をついて上半身を起こすと、まるで身体が別物になったみたいに軽くて驚いた。ぼろぼろだった手も、新しい人工皮膚が貼られていて綺麗になっている。
「すごい……」
「せやろー。他も綺麗に直しといたで」
得意気な顔をしている技師さんが、手鏡を渡してきた。それを覗き込むと、ほとんど人間みたいになったぼくがいた。くすんでいた髪は透けるような金髪になっていたし、ひびの入っていた眼球も新しいものに換えられていて。前のぼくとは、まるで別人だった。
「ぼくじゃないみたいだ……」
「どうせなら徹底的にやろうと思って。どう? 嫌やない?」
「嫌じゃないです。こんなに、十分過ぎるくらい直してもらえて、嬉しいです」
「よかった。そう言うてもらえたらおれも直し甲斐あるわ」
技師さんはにこにこ笑いながら、ぼくの頭を撫でた。笑ってる。ぼくは何もしてないのに。
「でも、こんなに綺麗にしてもらっても、ぼくにはもう……」
もう坊ちゃんはいない。動けるようになったって、尽くす人がいないんじゃ意味がない。これから本当に、どうすればいいんだろう。そう考え込んでいると、技師さんは呆気に取られたような声を上げた。
「え? おれと一緒に生活してくれへんの?」
「えっ」
今度はぼくが間の抜けた声を出す番だった。ぼくが彼と一緒に? 確かに引き取るとは言っていたけれど、商品を中古で買い取るみたいな意味だと思っていた。てっきり、これからすぐ売りにでも出されるのかと。
「さすがにあかんかな。おれもうきみのこと息子みたいに思ってるんやけど。ここ何週間かずっと見てきたし……あ、きみからしたらまだほとんど初対面か」
そう言われてようやく日付けを確認すると、修理のために眠ってからもう三週間ほど経っていることに気付いた。驚いたけれど、確かにこんな大きな修理、一日や二日で出来るものじゃない。
「ぼく、あなたのこと、何も知らないです」
「みんな最初はそういうもんやろ。例のお坊ちゃんもそうやったはずや。これから知ってけばええやん」
「そういうものでしょうか」
「そういうもんやで。あー、独身にして一児の父かあ」
「あなたの見た目にしては大きい子供だと思いませんか。それにぼく人間じゃないです」
「ええやん固いこと気にせんと。あ、おれのことは父さんって呼んでええよ」
「そんな、馴れ馴れしいですよ」
「パパでもええよ」
ぐいぐいと迫られ逃げ道を奪われる。どうやらこの人はどうしてもぼくに父と呼んでほしいみたいで。呼んでもいいけれど、叩かれたりしないかな。坊ちゃんはぼくにそうしろと言ったのに、いざそれをすると怒り出す、ということが何度もあった。怒られたくない。でも言う通りにしないと。ぼくは必死で、声を絞り出した。
「……とう、さん」
「ああ~……ええな、なんかええな……」
いざ口に出してみると、ぼくのそんな不安をよそに技師さんは何故かにやにやしていた。よくわからないけれど怒られなくてよかったと、少しほっとする。
「そういや、きみの名前は? まだ教えてもらってへんかったな」
「名前……えっと、……タミ、タミっていいます」
不意に名前を聞かれて、記憶を掘り返して答えた。古い記憶だったので少し時間がかかってしまった。
「なんかめっちゃ間あったけど」
「ほとんど呼ばれてなかったので思い出すのに時間がかかりました」
「ほんまきみ見てると泣けてくるわ……」
「?」
どういうわけかショックを受けたような技師さんはぼくを見て泣き真似をする。また何か悪いことをしてしまったのかな。
「まあええわタミ、これから父さんがいっぱい呼んだるからな~」
かと思えば、彼はぱっと笑顔になってぼくの頭をくしゃりと撫でた。本当に何なんだろう、この人は。
「ありがとう、ございます……?」
「そや、その敬語! それもやめよ」
「どうしてですか」
「なんか堅苦しいし……もう使用人ちゃうねんから気楽に喋ってええよ」
「はぁ……」
敬語を、やめる。ぼくは人に尽くす立場なのに、人を敬う言葉をやめてしまっていいのだろうか。いくら技師さんが言ってもこれはさすがに、アンドロイドのぼくには許されないことなんじゃないのか。彼はぼくに何をさせたいのだろう。でもこれはきっと命令なんだ、話さないと。敬語じゃない言葉で。あれ、話すって、どうやって?
「…………っ、」
今度こそ、声が出なかった。丁寧語以外、どう話せばいいかわからなくて。どうしよう、話せないときっと、怒らせてしまう。喜んでもらえない。怖い。何も出来ないのが、怖い。
「き、気楽にって、どんな感じですか……? ずっとこうだったから……わからない、です。ごめん、なさ……」
声が震える。視界がぼやける。手元に、何かが落ちた。水? 何だろうこれは。ぼくの身体は、どうなってしまったんだろう。突然起きた不思議な出来事に、ぼくはますます混乱した。
「ご、ごご、ごめん、泣かんといて。ええから、そんな無理矢理喋らんでええから」
「何ですか、これ……っ」
「いやー……ちょっと出来心で、きみも人間とおんなじように泣けるようにしたんやけど……まさかこんな早くに拝むとは思わんかったな……」
技師さんは申し訳なさそうにぼくの涙を拭いながら言った。泣く、これが。本当に、人間になったみたいだった。でも理屈を知ったからといって、すぐには泣き止めなくて。早くなんとかしないとと思いながらもどうしようも出来ずにいると、不意に視界が狭くなった。
「ごめんな、一辺に言い過ぎたなぁ……おれも焦っとった」
技師さんがぼくを抱き締めて、背中を撫でていた。驚いたけれど、ぼくはそれ以上に彼に謝られたことに困惑した。人に謝られるなんて、初めてで。技師さんが敬語しか話せないぼくを、言うことを聞けなかったぼくを叱らないことが、不思議だった。
「……どうして、怒らないんですか。悪いのはぼくなのに……」
そう尋ねると、技師さんはぼくの肩に乗せていた顔を上げた。とても、悲しそうな顔。
「悪くないよ、タミは何も悪ない。あー……あのドアホ一発どついとけばよかったな」
「どあほ?」
「あ、その単語は覚えんでええよこっちの話やから……なあタミ」
「?」
技師さんはぼくの手を握って、真剣な目つきでぼくを見た。何か真面目なお話なんだろう。ぼくも彼の話を聞こうと、じっと身構える。数秒考え込むそうな素振りを見せた後、彼は口を開いた。
「これからおれ、タミにいろいろ頼んだりすると思うけど……嫌なことは嫌やって言うてええし、わからんことはわからんって言ってええねんで。そんなんでおれ、怒ったりせえへんから」
技師さんの言葉を、頭の中で反芻する。いいのかなと、やはり思う。そんなぼくを見て、技師さんは困ったように笑った。
「タミはなんかとにかく従順にならなあかんと思てるみたいやけど、我慢したらあかん。普通の機械やったらそれでええかもしれんけど、タミには心があるんやから」
「心……」
「そ。楽しいとか、悲しいとか思えるんやから、いろいろ経験しとかな損やで」
「いいんですか、ぼくなんかがそんなことして」
「ええよ、なんなら人とおんなじように生きたって」
「どうやって?」
「んー……口で言うのは難しいなぁ。ま、それはおれがちょっとずつ教えるわ。とにかく今は、我慢せえへんこと!」
「我慢、しない……まだよくわからないんですけど、がんばってみます」
散々考えてとりあえずここは、坊ちゃんの家とはルールが違うのだと認識した。
「うん。あーでもやっぱり……敬語は堅苦しいな……」
「嫌ですか」
「嫌っていうか、息子に敬語で話されると辛いというか」
「ぼくが普通に話せるようになったら父さん、嬉しいですか?」
「嬉しい。っていうか今さらっと父さんって呼んだな。嬉しい~」
言われて気付く。そういえば無意識に、さっきはあんなに抵抗していた呼び方をしてしまっていた。技師さんがまた、笑っている。ぼくは何とも言えない気分になった。
「だったら、がんばります。ちゃんと話せるように」
「別にそんな気負わんでもええよ。せや、最初はおれの真似から初めてみたらええやん。ああでも訛ってるから後々不便か……? まあ、練習する分にはええか」
「はぁ」
「さて、喋り方云々はこの辺にして、いろいろ案内せなあかんな」
そう言って技師さんはこの話を終わらせようとした。どっから話そうかな、と思案する彼の背中をぼくは見つめる。この人に、喜んでもらいたいな。そう思った。同じことを坊ちゃんにも思っていたはずなのに、何故かそれとは別の感情のようだった。前にいた場所では、いつ怒られるのか、いつぼくは叩かれるのか、そんなことばかり考えていた。喜んでもらえないと、壊されてしまうんじゃないか。ずっと怖くて。ぼくはそんな恐怖心からではなく、本心から技師さんの、父さんの笑顔が見たかったんだろう。気付くと、勝手に口が開いていた。
「……と、とう、さん」
さっきは自然と声に出せたのに、意識すると少し恥ずかしい。だけどそんなぼくの蚊の鳴くような声を父さんはしっかりと聞き取って、振り向いてくれた。
「? 何?」
言わなくちゃ、ちゃんと言わなくちゃ。父さんは、どんな風に話していたっけ。彼の会話パターンを思い出して、自分の声に乗せる。
「こ、こんなぼくやけど」
「うん」
「……置いてもらって、ええの?」
手探りで、父さんの言う通りに話してみた。どさくさに紛れて、不安に思っていたことも聞いてみる。本当にぼくは、ここにいてもいいのかと。
「…………」
すると父さんは相槌を打つこともなく黙り込んでしまった。どうしたのかな、やっぱりだめなのかなと、ぼくは不安になる。でもその数秒後。
「わ」
狭くなる視界と、圧迫感。ぼくはまた、父さんに抱き締められていた。それもさっきより強く。
「ええに決まってるやろー!! なんやめっちゃ喋るの上手いやん天才!? おれの息子やもんなぁそら賢いわなぁ」
ぼくに抱きつきながら彼はそう言った。まるで赤ん坊が初めて立ち上がった姿を見る親みたいにとびきり嬉しそうに。
(ああ、この人は、ぼくで喜んでくれるんだ)
胸の辺りがじんわりと、暖かくなるような感覚がした。坊ちゃんと暮らしていた時には、感じなかったもの。嬉しい、本当に嬉しいんだぼくは。ぼろぼろと、悲しくもないのにまた目から水が出た。



「…………」
それから数日後。ぼくは小さな機械の箱を父さんの見よう見まねで弄っていた。彼が部品を売ったり、何かの修理をしているのを見ているうちに、同じことがしてみたくなって。そのことを話すと、彼はまた嬉しそうにまずは簡単なものからやるといいと、この箱を渡してくれた。なんでも小さなパソコンらしく、今はただの箱でもコードを正しく挿してコマンドを入力するとぼくと同じようにものを考えたり出来るようになるらしい。なんだか信じられないけれど、箱にいくつかある端子に繋がるプラグを引き出しの中から探すだけでも面白かった。ぼくはアンドロイドなので知識をダウンロードさえすればこういう試行錯誤なんて必要とせずに何でも出来るようになるのだけれど、父さんがぼくの学習する様子を見てみたいと言うのでそれはしなかった。おかげで作業効率が悪いような気がするけれど、ぼくが何かをクリアする度に父さんが喜んでくれたので構わなかった。
「……出来、た?」
ひたすら端子にコードを繋いでいると、どこにも繋がっていない場所がなくなった。これで大丈夫なのかな。自信がなくて意味もなくくるくると箱を回して観察していると、別の机で店の品物を発注していた父さんが来てくれた。
「おお~出来てるやん。偉いぞ~」
父さんはくしゃくしゃとぼくの頭を撫でると、箱を手にとって繋いだコードの先をモニターやキーボードに挿し込んだ。
「キーボードの使い方はわかるっけ?」
「それは、一応……」
「んじゃこれ起動してみよか。スイッチ入れたら画面にいろいろ出てくるから、今からおれが言う文字入力してみて」
「う、うん」
箱の電源を入れると、画面いっぱいに文字が表示されて少し萎縮する。これっていわゆるプログラムというやつでは? ぼくの頭の中もこうなっているのかな。そんなことを思いながら、父さんの言葉を頼りに文字を打ち込んだ。すると。

『Hello!』

文字だらけの画面から、白い背景にハローと、それだけ書かれた画面に切り替わった。そしてその数秒後に今度は見慣れたデスクトップ画面になった。これって、成功? 心臓なんてないのに、胸がどきどきする。思わず隣にいる父さんの顔を見た。嬉しいのか悲しいのか、よくわからない顔をしている。
「さすがおれの息子……」
父さんは何故か頭を抱えてぶつぶつと呟いていた。喜んでくれているのかはわからないけれど、とにかく成功したらしい。そう確信すると、ぼくはなんだか興奮した。胸のどきどきが強くなる。
「父さん、なあ父さん」
「ん?」
「なんかぼく、今すごいわくわくしてる。楽しいって、こういうこと?」
「そやな。これが動いて面白いとか、嬉しいとか思うんやったら楽しいいうことやな。そーかそーか、タミは機械弄り楽しいか」
「うん」
首を縦に振って頷くと、父さんはにこにこ笑ってまたぼくの頭をくしゃくしゃにした。そこでぼくはもう一つ、やりたかったことを打ち明けてみようと思った。機械に興味を持ったのは、純粋に気になったのもそうだけれど多分これのため、というのが当時のぼくには大きかったと思う。
「……あの、ぼく、もっとこういうの上手になって、父さんの仕事とか手伝えたらええなって、思うねん。……あかんかな」
発注やら取り引きやら、一人でいつもがんばっている父さんを少しでも楽にしてあげたくて。でも父さんはぼくの話を聞くと、嬉しいようなそうでもないような、複雑そうな顔をした。
「ん~……手伝ってくれるのはええねんけど、っていうかめっちゃ助かるんやけど前が前なだけに社会の荒波に出したない……死ぬほど甘やかしたりたい……」
「あはは、もう十分甘いで」
「そうかな……そら前の家に比べたらぬくぬくかもしれんけど」
「だって、ご飯作ったり洗濯する以外に出来ることあるんならやりたいやん……」
「ほんまワーカホリックやな~。そうかのんびりしてる方がストレス溜まるか……じゃあ来週からちょっとずつ手伝ってもらおかな」
ぼくは内心でガッツポーズをした。父さんが店にいる間はリビングの掃除や洗濯をしていたものの、それが終わってからは時間が余って不安だったから。父さんが働いているのにぼくがぼんやりしていていいのだろうかと、毎日考えていた。やっと、彼の隣に立てるのかと思うと嬉しい。
「あ、そうや。人前出るんやったら……」
「?」
父さんは何かを思い出したようにおもむろに自分の首に巻いていた赤いスカーフを外すと、それをぼくの首に巻いた。
「電源ボタンはアンドロイドの命、やから隠しとかんとな~」
「そうなんや」
「うん。ふざけて押されたりしたらかなわんやろ? まあわかる人にはわかる位置やから気休めみたいなもんやけど」
確かに、ぼくらは事前に設定でもしておかない限り自力で目覚めることは出来ないから、何かの拍子に押されてしまうのはとても怖い。
「でもええの? 父さんの……」
「ええのええの。でもお下がりってあれやな。今度何か買おか」
「……ううん。これがええ」
首元に巻き付いたスカーフに、ぎゅっと触れる。鮮やかな赤色は、ぼくの中にはない色で好きだった。動物が流す血みたいな、生きてる色。涙しか流せないような自分が少し人間に近付けたような、そんな気がした。



そうして数年。ぼくは新しい生活にも仕事にもすっかり慣れて、父さんと毎日を過ごしていた。修理業と部品販売の他にアンドロイドの中古買い取りなんかも始めて、商売の方も順風満帆といったところだった。
「なあタミ! なあ!」
そんなある日、父さんが何やら騒がしくリビングのソファで寝ていたぼくを起こした。興奮した様子だったけれど、寝起きだったこととここ数日あるものに悩まされていたぼくは不機嫌だった。
「何やの父さんやかましいな」
「そっけないな反抗期か~? まあそれはええとしてタミ、弟とかほしない?」
「あー……やっとお見合い上手くいったん?」
「ちゃうわどこでそんな言い方覚えてん」
ぼくの投げやりな言葉をひらりとかわして、父さんは台車でシーツの被さった何かを運んできた。
「ほらこの子! 買い取り第一号」
覆っていたシーツを取ると、そこから水色の髪の少年が姿を現した。常連の客に新しい型を買うので処分したいと言われ数日前に買い取ったアンドロイドだ。売るなら綺麗にしなければと彼もぼくと同様、父さんの手で買い取った当時とは別人のようになっていた。
「うわ、めっちゃ綺麗になったやん」
「せやろ~。あとは新しい買い手の人見つけるだけやねんけど……直してるうちに愛着が」
「あかんで。ぼく弟なんかいらん」
ぼくの時のことを考えると、また自分で引き取りたいと言うだろうなと予想していたので言葉を遮って咎める。
「えー、なんで?」
「赤字なるやろ。ただでさえぼくの維持費なんかも馬鹿にならんのに」
「別に息子には金と手がかかって当然やし」
ああもう、どうしてそういうことをさらっと言うんだか。はきはきと反論してやるつもりだったのに、思わず言葉に詰まる。
「……とにかく駄目。一回やったら絶対やめれんくなるから」
「しゃーないなあ……まあ、おれにはタミがおってくれるだけで十分やもんなぁ」
どうやら納得してくれたみたいで、父さんはふわりと微笑むとぼくの髪に触れた。頭を撫でられるのはこれで何度目かわからない。ぼくはその度に、胸が弾むような、ちくちく痛むような、よくわからない気持ちになる。その気持ちをどうにかしたくて、ぼくは彼にある疑問をぶつけた。
「……なあ父さん」
「ん?」
「なんでぼくと、親子になろうとしたん。あんなんやったぼくに、大金払ってまで」
長年の疑問だった。どうして父さんはぼくをそばに置いてくれたのだろう。引き取るにしても、この水色の髪のアンドロイドと同じように、売ってしまったってよかったのに。父さんが最近始めたお見合いを失敗して帰ってくる時、いつもそう思った。ぼくを息子だなんて言わなければ、ぼくがいなければきっと、彼は結婚して本当の家族を作ることが出来るのに。どういうわけか他の家族も親戚もいなくて天涯孤独だという父さんには、独りでいてほしくなかった。
「あんなんやったからやで。あのまま帰したりなんかしたら、タミが死ぬのなんか時間の問題やった。ほっとかれへんかった」
「それでも、坊ちゃんから取り上げた後売ったらよかったやん」
「なんでそんなこと言うんや~パパ悲しいわぁ」
むに、と頬を摘ままれる。うん、今の発言はちょっと卑屈だったかもしれない。昔のぼくが出てきている。それもこれもみんな、あの悩みのせいだ。
「タミは知らんかったかもしれんけどさ、おれあんな大きい修理したん、あの時が初めてやってん。やから修理の後タミがちゃんと動いてくれて、ほんまに嬉しかった。自分の手がかかったもんが動いてくれるんやから、父親になった気分やった。だからまぁ、手放したくなかったわけ。売ればよかったとか酷なこと言わんの」
「そうなん……やからあんなにめっちゃ無理矢理やってんな」
「無理矢理やったなあ……だってあの時のタミ、めっちゃマゾかったもん。これは親子とか言うていろいろと教える立場にならんとあかんなって思ったから」
「マゾちゃうわ! あの頃は……何が良くて何が悪いんかとか、ようわからんかってんもん……」
父さんに引き取られた直後の、何も知らなかった頃の自分を思い出すと、どこかへ消えてしまいたくなる。それだけ今が楽しいのだと実感出来るけれど。
「ほんまになぁ。ちゃんとわかるようになってくれてよかったわ」
「うん……なあ父さん」
「ん?」
今がチャンスだと、ぼくは口を開いた。ここに来てからの数年、ずっと言いたかったこと。
「ぼくのこと引き取ってくれて、息子にしてくれて、……普通の幸せとか、教えてくれて、ありがとう」
普段は恥ずかしくて言えないから、一気に言ってしまう。伝えても伝え切れないほど、本当に感謝しているんだと。とにかく言いたかった。すると父さんはわなわなと、泣きそうな顔をした。
「どしたん、反抗期かと思たらめっちゃ嬉しいこと言うてくれるやん……」
「たまにはぼくもセンチになることがあんの」
「あー、さてはお前……」
「何やの」
父さんがにやりと口角を上げる。まずい。バレた、多分バレた。ぼくがこう不機嫌になったり、昔の自分を思い出している理由が。女心はわからない癖に、こういうところは鋭くて困る。目が泳ぐ。だって、知られたいわけない。父さんが水色の子を修理していた間、あまり相手してもらえなくて苛立っていたなんて。お金の都合がどうとかじゃなく、単純にぼくが嫌だったから弟なんていらないと言ったなんて。
「ええわ、そういうことにしといたろ。よっと」
「うわ」
父さんはとっくに気付いただろうにそんなぼくをからかうこともせず、抱きかかえて持ち上げた。ぼくを見上げる彼は、やっぱりにこにこと笑っている。
「父さんも感謝してるで。おれの子になってくれてありがとうな、タミ」
「うん……っていうかあかんて腰いわすで」
「こないだ肉抜きしたから軽い軽い」
「ダイエットや言うて」



そんな他愛のないやりとりが、毎日のように続いていた。坊ちゃんと過ごしていたあの家が、牢獄だったと思い返すくらいに、父さんとの生活は幸せ過ぎて。大好きだった。ずっと一緒にいたいと、いつも思っていた。



「やのに、こーんな早よに逝ってまうんやもんなぁ。あんたはいつまでぼくを振り回したら気ぃ済むんやろか」
郊外の小高い丘の上、小さな白い墓石の前にぼくは立っていた。この下で、父さんは眠っている。本当は辛くなるから気が引けるのだけれど、寂しがりやだった彼のため、命日の他に月に一度はここを訪れるのがぼくのこの二年での習慣になった。
「ほんまに、頑なに天涯孤独貫いてくれたおかげでぼくはあんたのこと忘れられへんしさ。人間のふりまでして毎日ストレスとの戦いやで」
屈んで、Landと名前の刻まれた石に触れる。冷たい。こうしてぼくはいつも、彼がいなくなってしまったことを実感する。
「……でももうぼく、大丈夫やから。仕事も上手くいってるし、心配せんといて。あんたの大事なもんは、全部守ったるから」
大丈夫、ぼくは大丈夫。時々崩れそうになるけれど、ここに来る度そう念じる。彼には、安心して眠っていてほしいから。
「……さて、もう行かんと。長々おったら辛いからな……お、」
持ってきた花を置いて立ち上がると、ポケットに入れていた携帯電話が震えた。画面には、この間ぼくがひとりで過ごしていくための秘密を唯一打ち明けた、少年の名前が表示されていて。暗くも明るくもなかった気持ちが少し弾み、ぼくは思わずその画面を墓石に見せるように向けた。
「そうそう、ぼく、友達出来たんやで! ぼくのことわかってくれる、ええ友達」
父さんと同じようにアンドロイドのことを大事に扱ってくれるあの白髪の少年は、ぼくの大切なもののひとつだ。ぼくは父さんの他に、彼にも感謝しないといけない。彼がいないとぼくとあの店は、今頃どうなっていたかわからないのだから。つくづく恵まれているなと思う。
「今度、連れて来るから。待っといて」
そう言ってぼくは、墓石に背を向けた。帰らないと。帰って、またあの店を続ける準備をしないと。ぼくは父さんがいたことを、彼がしたことを伝えていかなくてはならないのだから。彼が死んだ時、いっそのこと一緒に鉄くずに戻ろうかとも思ったけれど、ぼくがいなくなったら彼のことを覚えている人がいなくなると気付いてからそんな考えはどこかへ行ってしまった。だからぼくはまだ、こうして生きている。そしてまた、あの少年と出会ったりして。生きていればどんどん、大切なものが増えていく。父さんはいなくなってからも、ぼくにいろんなことを教えてくれた。彼は未だに、ぼくを生かし続けている。

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