桐人は、食べるのが好きだ。
「……あそこのカレーパン、美味いんだよな」
教室を移動している最中、通りかかった食堂の前で桐人が呟いた。僕に言ってるんだろうか。それとも食べたい気持ちが言葉になって出てきただけだろうか。と一緒に歩いていたケイは思案した。
「さっき昼食べたばかりだぞ」
「いや、おやつというか」
「食べる気満々だな」
桐人の目線はもはや食堂のパンコーナーに釘付けになっている。普段は大人びた彼が、食事に関してだけは小さな子供みたいに目を輝かせるのだ。こうなったらもうケイには止められない。
「まだ時間あるよな? 買ってくる」
「いってらっしゃい」
特に咎めることもなく、ケイは食堂に走る桐人を眺めた。大学に入ってから、彼はやたらと買い食いすることが多くなった気がする。中学の頃はそんなことはなかった。育ち盛りの思春期たちがこぞって購買に走る中母親の手作りの弁当だけで十分、みたいな雰囲気を醸し出していて。高校の時は違う学校だったからケイはあまり知らないが、たまに会いに行った時もやはり、それほどよく食べるような印象はなかった。本当に、大学に入ってからだ。遅めの成長期でも来たのだろうか、今度聞いてみよう。右手の時計を見ながらケイはそう思った。
「おかえり」
「ただいま。なんかおまけくれたからやる」
少しして桐人が戻ってくると、彼はケイに小さなビニール袋を手渡した。中には食パンの耳を揚げたラスクが入っていた。
「お、美男子は得だねぇ」
「お前が言うか」
ケイはおこぼれに預かったことで待たされたことも忘れて桐人をからかった。元々ケイは桐人のすることなら何でも許すのだけれど。桐人はケイの知らないものを教えてくれるので、彼の食べ歩きに付き合うのも悪くなかった。
「お腹空いた」
午後の実習が終わった頃には、もう日が落ちていた。いつもは下校する学生で溢れかえる通学路も、今は人がまばらに歩いているだけだ。
「こんなに実験遅くなるとは思わなかったな」
「手順に無駄があり過ぎるんだよ……今からご飯作るの面倒だな」
「その辺で食べてくか」
「いいね、どこ行く?」
「寒いしラーメンがいい」
学生を狙って乱立している飲食店の中から、一つを桐人は指差した。数ヶ月前にオープンしたばかりの、小さなラーメン屋だった。
店の中に入ると、店員が人のいい笑顔を向けながらいらっしゃい! と大きな声で言った。店内はカウンター席だけで、入口で食券を買うことで注文をするシステムだった。桐人は会釈をして、何を頼もうかと券売機の前に立つ。初めて来る店だったので、とりあえず店名が頭についたラーメンのボタンを押す。ついでに煮玉子のトッピングも。出てきた食券を握って振り向くと、何故か落ち着きなく周りを見回ししているケイがいた。
「白鳥?」
「ぼ、僕こういうとこ初めてなんだ。カウンター席だすごい……」
「ボンボンめ」
「あんまり外食しないんだよ」
「そこで食券買って。食堂と同じ」
「食券。効率的だ」
まじまじと券売機を見つめるケイが面白くて、桐人は笑いを堪えた。自分も最初はこんな感じだったか。
「君と同じのにした」
「他には何もつけなくていいのか?」
「うん」
食券を店員に渡して、カウンターに座る。ここでもケイはきょろきょろしていた。
「おお……高崎が横にいる」
「普通は向かいだわな」
「店員さんが近い」
「ラーメン直接渡されるだろうからちゃんと受け取るんだぞ」
「直接」
桐人の言葉をオウム返しにするケイに、桐人は小さい子供を相手にしているような気分になった。普段も似たようなものだが、なんだかんだでしっかりしているケイがこんな身近なラーメン屋で挙動不審になっているのが面白かった。
「はいお待ち、こっち煮玉子ね」
カウンターの向こうから、店員が両手に器を持って渡してきた。二人は少し緊張しながらそれを受け取った。ケイはともかく、桐人はケイが器をひっくり返さないかが心配で。
「なんか、すごいな」
「すごいか」
無事に器を受け取って、何故か感動しているケイを微笑ましく思いながら、手を合わせる。
「いただきます」
「いただき、ます」
割り箸を割って、麺を口に運ぶ。
「美味しい」
「美味い」
「なんだろう、鰹? すごい鰹節の味がする。ラーメンにしちゃ食べたことない感じ」
「確かに」
食べ慣れない味だったが、美味しかった。ここは当たりだったな。桐人はそう思って、食べながら隣のケイを盗み見た。白い髪を耳に引っ掛けながら蓮華を使ってせっせと食べる姿はなんだか女子みたいだった。楽しそうなので食べ方なんてなんでもよかったが。
「僕も卵入れてもらえばよかったな」
「一個食べるか?」
「いいのかい」
「元々ついでだったし」
二つあった煮玉子の片方を蓮華で掬って、ケイの器に入れてやる。ありがとう、と笑うと、また黙々と食べ始めた。
「なんか、幸せだな……」
しばらくして、煮玉子の黄身をつつきながらケイが呟いた。無意識に出たようなその言葉に、桐人は連れてきてよかったな、と思った。
「高崎、葡萄は好きか」
夕食の後ケイと別れて、帰宅した桐人が朝片付けが間に合わなかった食器を洗っていると、突然自室に帰ったはずのケイが合鍵を使って部屋の中へ入ってきた。手には小さな段ボール箱を持っている。
「好きだ」
「ならいいんだ。おすそわけ」
「これはまた高そうな……」
箱の中には、大きな粒が綺麗に並んだ葡萄がすっぽりと収まっていた。桐人はいつだったかテレビで葡萄の農家を取材した場面を見たことがあったが、葡萄はいろいろと厳しい選別を経て様々なランクに分けられるらしい。そして目の前にあるこれは間違いなく一番上のランクの葡萄だ。一体いくらするのか、彼には預かり知れない。
「最近仕送りにお金だけじゃなく食べ物が来るようになったんだ。お金に手つけてないの、父さん気にしてるのかな」
「手つけてないのかよ」
「内緒で高校の時までお年玉とか貯めててさ、それとバイトの給料でやりくりしてるんだ。あんまり父さんのお金は使いたくないし」
「それ逆に心配かける奴だぞ。バイト入れ過ぎてちゃんと食べてないんじゃないかとか……今は仕送り使って卒業したら貯金で返せばいいじゃないか」
「そんなもんかなあ」
「そんなもんだ。特にお前の場合もっと甘えろよ」
桐人がそう言うと、ケイははにかむような申し訳ないような、複雑な表情をした。父親との関係は悪くないようで、桐人は胸を撫で下ろす。
「食事は高崎といたら抜く方が難しいけどな」
「親父さんから頼まれてる手前、お前に不健康な生活はさせられません」
「ラーメンは健康的なのかな」
「たまにはいいんだ」
ケイの軽い皮肉に、桐人は痛いところを突かれたような顔をして、誤魔化すように葡萄を箱から出して食器と一緒に洗い始めた。
「ほらあっち座れ」
いつまでも台所で桐人のそばから離れようとしないケイに、リビングへ行くように促す。
「君に渡すだけのつもりで来たんだけど」
「いいから。俺が食ってるところでも見てろ」
「君やっぱり変態だよなぁ」
「見られたくて言ってる訳じゃないんだよ! あとお前にだけは言われたくない」
「はは、悪い」
ようやくケイが笑ったのを見て、桐人は安堵した。ここに来てからケイは、少し強張った表情をしていて緊張しているようだった。家族の話をすると、いつもこうだ。桐人はこういう時のケイは絶対に一人にしないと自分の中で決めている。洗った葡萄と皿を一枚持って、リビングの小さな机の前に座った。
「こう綺麗だと、千切るのが憚られるというか……」
「ひと思いにやってくれよ」
ぷちん、と房の中からひとつ、粒を千切ると丁寧に並んだ列にぽっかりと穴が開いた。これだけで厳しく選別された美しさが損なわれていくのだと思うとやはりもったいない。
「葡萄の皮を合理的に剥く方法はいつ確立されるんだろうな……」
「道具なかったっけ専用の」
「別のものに使えない時点で合理的じゃなくないか」
「確かに」
ぶつぶつと文句を言いながら、皮を剥く。出来るだけ紫の部分がなくなるように剥いて、口に入れた。
「どう」
「あー……これは、駄目だろ。俺の舌には耐え難き高級感」
「美味い?」
「美味い」
なんだかんだで桐人は嬉しそうだ。よっぽど美味しいらしい。自分があげたもので桐人が喜ぶのを見るのは、何故だか自分も嬉しいなとケイは思った。
「ん」
桐人が葡萄をもう一つ剥いて、ケイに差し出す。
「いいよ僕は。もう一つ送られてきたし」
「俺の剥いた葡萄が食えんのか」
「わあパワハラだ」
「……は置いといて、割と一人で食べ切れる自信がないから手伝ってくれ」
桐人がそう言うと、ケイはむず痒そうな顔をした。彼は桐人に頼られたら、断れない。桐人もそれをわかっているからたちが悪い。
「……なら仕方ないなー」
桐人の手から葡萄を受け取って、半ば投げやりに口に入れた。甘い。
「美味しい」
あれだけ渋っていたのに、ケイは房に手を伸ばすと、新しい葡萄を剥き始めた。気に入ったらしい。
「親父さんに礼言っとけよ」
「うん……せっかくだし週末、会いに行こうかなあ」
「そうしろ。ついでに仕送りのこともな」
「そうだな。僕は大丈夫だってちゃんと言わない、と……」
一瞬、ケイが苦しそうに顔を顰めた。そして額の端を左手で押さえる。何か、痛みに耐えるように。
「……傷、痛むのか」
「思い出すとちょっと違和感あるだけだよ。今は跡も残ってない」
「そうか……」
桐人の手が、ケイの額に伸びる。さらりとした前髪を掻き分けてみたが、ケイの言った通りそこには何もなかった。
「……ごめん」
「何が」
「重いだろ、僕。君も無理しなくていいんだぞ」
珍しく後ろ向きなケイの発言に、桐人はため息を吐く。そして、彼はさぞ当たり前のように呆れた表情で言った。
「別に。お前が重くて面倒臭いのなんか初めて会った時からだし、九年近く付き合ってるんだからもう慣れた」
「……そうかい」
ケイは少しの間きょとんと放心して、その後そう言って嬉しそうにふわりと笑んだ。
「そういえばさ、」
「ん?」
「君、大学入ってからよく食べるようになったよな。なんで?」
数分後、せっせと剥いていた葡萄も大分少なくなってきた頃、ケイは昼に桐人に聞こうと思っていたことを思い出し、口にした。すると桐人は少し考え込んでから話した。
「……間食する金が自分で稼げるようになったから?」
「ほう」
「うち、お前の知っての通りそんなに裕福な生活は出来ないだろ。こうして下宿して大学行けてるのも母さんががんばってくれたからだし……だから高校までは必要最低限の食事で済ませてた」
桐人は、幼い頃に父親を病気で亡くしている。それ以来母親に女手一つで育てられてきた。彼が常に成績一番でいるのは、半分以上がその影響である。出来るだけ母に楽をさせてやりたい、その気持ちが、桐人に大学に授業料を免除してもらえる特待生として入学出来るほどの努力をさせた。そのために自分の欲は極力抑えてきた。
「で、バイト出来る今はそれを取り戻すみたいに食べてるってわけだ」
「この辺なんでも美味いし……」
「それはわかる。でも食べ過ぎはよくないぞ」
「お前も俺の健康管理してくれよ」
「君食べ物に関しては言っても聞かないじゃないか」
「それは……まあ……」
また痛いところを突かれた。普段は冷静なはずの桐人の目がきょろきょろ泳ぐ。それを見てケイは得意気ににやにやと笑った。
「ちゃんと摂生してもらわないと。君は僕の命綱なんだから」
「やっぱ重いなお前な」