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私の唯一の親友は私の発言に苛立つといつも、過去の自分は死んだ、あれは自分じゃないと言う。だったら、彼の過去を追いかけてきた私は一体、何と話をしているのだろう。イヴというアンドロイドは、私が憎くて憎くてたまらなかったレイの幽霊、いや、置き土産だとでも言うのだろうか。



「休暇?」
「ああ。もうすぐ年末だから使用人たちは実家に帰る。彼らがいない間は働いてもらわないといけないが、君にだけ休みがないのは不公平だとセレンに叱られてね。今のうちにたまにはゆっくり休むといい」
まだ雪が指で数えるほども降っていない冬のある日、ユウは突然主人であるセレンの父から休暇を言い渡された。彼は造られてからそれまでセレンがエスラに遊びに行く時以外はほとんど年中無休で働いてきたため、降って湧いてきたそれに困惑する。休みの日って、一体何をすればいいのだろう。
「急に言われても困るかね。そうだな……今は押し花に凝っているそうじゃないか。それをやってもいいし、隣街のレイとは友人なんだろう? そこへ遊びに行ったって構わない」
まるで心を読んだみたいに、セレンの父はそう告げる。穏やかな口調に、本当に丸くなられたな、とユウは思った。今目の前にいる男がレイをスクラップ同然にした人だとはとても思えない。実際彼は、ユウが屋敷を飛び出しエスラからレイもといイヴを攫おうとしたあの事件まではアンドロイドのことを嫌っているような素振りさえ見せていた。今のようにユウに対して寛容になったのは、彼がレイを見つけ出したことによりそれまで塞ぎ込んでいたセレンが元気になったからだった。あの後セレンにもうこれ以上わたしの大事な付き人に手を出さないで! と全力でぶつかられ、凹みに凹んだ後ユウや隣街で生きていくことを決めたレイについて理解を示すに至ったのだ。父親というものは、どうにも娘というものに弱いらしい。元々レイにあんなことをしたのも、セレンに対する愛が空回りしたせいだったわけなので合点もいく。
「それじゃあ、ありがたく暇をいただきます」
何をするかはすぐには決められなかったが、せっかく主人たちが自分に気をやってくれているので無下にすることもないだろうとユウは丸三日の休暇を素直に受け取った。



「さてまずはどうするか……」
休暇初日、ユウは結局当日までやることを決められず棚とテーブルしかない簡素な自室で首を捻った。浮かんだのはやはり主人に言われた通り押し花と隣街のことだけで、娯楽等には無縁だったユウには他のことが思いつかない。やはりこの二つのどちらかにしよう、そう決めて今から隣街に押しかけるのはさすがに迷惑だろうと思い、棚からプラスチックの箱と紙を引っ張り出す。箱の中にはピンセットとトレーが何枚か入っており、その一枚一枚に乾いた花びらがいくつも入れられていた。それはユウが仕事の合間合間に本に挟んで綺麗に作った押し花たちである。偶然庭師が木の見栄えを整えるために花を間引いているのを目撃し、勿体ないと言ったらならこうすればいい、と教えてもらったのが押し花だった。しっとりとした花びらたちが美しさを保ったまま乾いてぺらぺらになるのが最初は面白くていくつも押していたのだが、それを綺麗に並べてみるともっと楽しい、と教えてくれたのはセレンだった。そうしてユウが並べた拙い押し花たちは、いつの間にか額に入れられてこの部屋やセレンの部屋に飾られている。そうして押し花は彼の趣味と言えるものになり、いつしかそれに使う道具もセレンの手によって揃えられていた。少し申し訳なくて、私の趣味なんかにお嬢様がお小遣いを叩くことなんてないんですよ、と言うと、ユウくんがわたしの趣味だからいいの。と言われた。彼女はユウが熱中出来るものを得たことが相当嬉しかったらしい。そんなこんなで、押し花はユウにとって文字通り暇になりかねない休暇を埋める選択肢となったのである。
(普通に並べただけじゃつまらないな……)
薄い黄色の紙の上にとりあえずは適当に花びらを並べてみてそう思う。はじめはただ並べているだけでも楽しかったのに、今日は何故かそう感じた。贅沢だと思ったが、やはり自分なりに納得のいくものを作った方がいい。少しだけ芸術家気取りになりながら、ユウは頭を捻った。
『本を読むのが好きなんだ』
するとふと、いつだったか何を考えているのかよくわからない平坦な声がそう言っていたのを思い出した。ユウの気難しくて面倒臭い、それでいて大事な友人は彼のそのまた大事な人からもらった文庫本をゆっくりじっくり噛み締めるように読む。その幸せそうな姿を思い出して、そうだ栞を作ろう、と思い立った。上手く出来たらあいつに渡そう。家にお邪魔するんだからたまには礼くらい。明日隣街に行ってやる、と連絡もまだ入れていないのに勝手に決意して、ユウはピンセットで赤い花びらを摘まんだ。



「…………」
ユウが押し花と格闘している頃、彼の友人イヴは寝室のロッキングチェアで文庫本を読んでいた。今日はライネは修理の仕事で出かけているし、ミドは明日から泊まり込みで学会があるとかでその準備のために大学に行っている。やらなければいけない家事は午前中に終わってしまったし、この間新しい本をライネにもらったばかりなのでそれを消化していた。イヴはあまり文字を認識するのが得意ではないので、一冊を読むのに時間がかかる。この本も三日前に読み始めたのに、まだ三分の一ほどしか進んでいなかった。あまり夢中になって読むと頭がパンクしそうになるので、ほどほどのところでやめている。今日もそこまで読めなかった。スピンを最初のページから引っぱってきて、今読んでいたページに挟むと本を閉じた。立ち上がって、自分のベッドへと向かう。その下を覗き込むと、家財を整理するためのカラーボックスが二つ置いてあった。少し前にライネたちが断捨離がどうこうと言って買ってきたものだったが、クローゼットの中に置くには少し量が多かった。余った二箱をイヴがもらって、ベッドの下に置いたのだ。そのうちの一つを開ける。中には今まで読んだ本たちが詰まっていて、今読んでいたものを隙間に入れる。まだ何冊か入るスペースがあって、イヴは心を踊らせた。この箱がだんだん本で埋まっていくのが楽しいのだ。だけど完全に埋まった時のことを考えるのも少し怖い。新しい本を入れる場所がないからだ。もう一つの箱に入れる手もあったが、それは少し嫌だった。もう一つの箱は、本以外のものを入れているから。
「――――!」
悶々と未来のことを考えていると、頭の中にメッセージが届いた。ライネからの連絡だ。イヴは思考するのを中断して、そのメッセージを開く。内容は、今から帰るよ、と一言。ライネが今日向かった家からここまではそんなに遠くない。帰ってきたら一緒に夕食の買い出しにでも行くかと、イヴは箱を閉めて立ち上がった。



「いらっしゃい! 僕今これから出かけなきゃなんですけど、ゆっくりしていってください。あ、イヴくんは二階でメンテしてるのでちょっと待ってあげてくださいね」
「は、はい……お邪魔します」
翌日、決意通りにエスラにやって来たユウは、青い屋根の可愛らしい家のインターホンを押すとすぐに扉が開き中からスーツケースを持ったミドが出て来て驚かされた。とんとんと靴を履きかけのつま先を地面に押し付けながら中へ入るよう促され、少し萎縮する。それにユウが来るなりイヴの名前を出すというのは、どういうことなんだろう。
「リビングでも、二階に行ってくれてもいいので楽にしててください。ライネくん作業場に入ると何も聞こえなくなるから……せっかく来て頂いたのにすいません」
「いえ、無理を言って来たのは私の方なので……お構いなく」
急いでいるのか、手土産の菓子を受け取る暇もなくミドはユウを置いてすぐに出て行ってしまった。それを見送って、とりあえずリビングに向かう。もはや勝手知ったる家とはいえ、家主たちが見えないのはどうも居心地が悪い。というか不用心なのでは? とも思ったが、それだけ信頼されているということなのだろう。仮にもユウは、初対面の際強盗まがいのことをやらかしたというのに。なんともおかしな関係になったものだ。
「…………」
迷った結果ソファに腰かけたものの、その落ち着きは数分と持たなかった。メンテナンスというのは、どれくらいかかるんだろう。私の場合だと問題なければ三十分くらいだから、そんなには待たなくてもいいだろうか。そもそも何時から始めたんだろう。もしかして、何かよくないものでも見つかったんだろうか。こういう時に何故か悪い方向へ考えてしまうのは、ユウの悪い癖だ。まだ自分の思うメンテナンス時間の三十分まで待たされたわけでもないのに、そわそわと立ち上がる。結局は、暇なのだ。アンドロイドに暇は天敵である。耐え切れなくなってユウは、リビングを出て階段を上った。



「…………」
また沈黙。階段を上ってすぐの作業場の前で、ユウはノックをする姿勢のまま固まっていた。集中してるんだよな、ライネさん。邪魔したらどうしよう。ノックするべきかどうか、悶々と迷う。入るならするべきだろうが、入っていいものか。ここまで来て何を迷っているのだと自分を鼓舞したが、ユウはライネのことが少しばかり怖かった。何しろ初対面であんなことをしてしまったのだから。あの時のライネの剣幕はよく覚えている。穏やかにしている時も、イヴに何かしたらスクラップにしてやるからな。そんな目をしていた。今はユウがイヴと話しているのを微笑ましく見守ってくれていたりして、そんな恐ろしい視線を向けてくることもないけれど。とにかくユウは、ライネが怖い。しかしリビングにいた時間よりも長く迷った末、ようやくノックをすることに決めた。ええい、ままよ。コンコンと、硬い音が廊下に響く。すると直後に椅子を引くような音がして、次にのしのしとこちらへ向かう足音が聞こえた。
「おーユウ、よく来たな」
がちゃりと扉が開き、真っ白い髪の少年がユウを見上げて笑った。どうやらユウの心配事は杞憂に終わったらしい。ほっと胸を撫で下ろす。
「散らかってるけど、まあ入って。踏んでも大丈夫だから」
ライネは慣れた足取りで、床に散らばったコードをよけて真ん中の作業台へと向かう。ユウも大丈夫とは言われたものの慎重に歩いた。窓の近くの椅子に座るよう促される。座りながら作業台の上を見ると、たくさんのコードが繋がれたイヴが横たわっていた。
「きみだけで来るのは久しぶりだな。初めて会った時以来か」
パソコンの画面を見つめながら、ライネがぽつりと言った。先ほども思い出していただけに、ユウはどきりと目を泳がせる。やっぱりこの人、怖い。
「そんな顔するなよ、もう怒ってないから」
顔に出ていたのだろうか、ライネが困ったように笑う。戻ってきた緊張が、少しだけ和らいだ。
「まあ、あれが正しかったかって言われたら、そうじゃないけど。オレもあの時は冷静じゃなかった」
「ほんとに、あれは怖かったです……」
「はは、そんなつもりじゃなかったんだけどな。……よ、っと。はい、これで終わり」
かたん、とライネの指がエンターキーを叩く。床を蹴って回転式の椅子をくるりと回すと、横たわるイヴに繋がったコードを抜き始めた。その様子を眺めていたユウは眠るイヴの顔をまじまじと見つめて、思わず呟いた。
「レイの奴、黙ってれば普通に格好いいのになぁ……」
それを聞いて、ライネがふっと吹き出した。あ、しまった。とユウは焦る。
「あはは、許してやってくれ。こいつ周りに人間しかいないから、きみにしかわがまま言えないんだ」
イヴの普段のユウに対する毒舌振りを、ライネは特定の相手にしか言わないわがままだと言う。そんな可愛らしいものかな。たまに急所を突いてくることがあるのに。だからと言って、ユウだってそう思っていなかったわけでもないが。悩みがひとつ解決したと聞いてからここに来るのは初めてだったので今はどうかわからないが時々イヴは、辛そうな顔をする。胸の奥の鈍痛を、誰にもひた隠しにするような。きっと家族の前では特に見せないようにしているのだろう、ユウに対する皮肉や毒は、きっとその痛みが湧いて出てきているのだ。ユウはそれを受け止めることでイヴの痛みが少しでも減るのなら、そう思って今の関係を続けている。それに、イヴと一緒にいるのが苦痛というわけでもない。ユウだって屋敷での苦労とか、愚痴なんかをイヴに聞いてもらっている。結局はお互いさまだし、人間のいない対等な関係は心地よかった。でなければわざわざ貴重な休暇を使ってここに来たりはしないのだ。
「まあ、いいんですけどね」
「よろしく頼む。あ、起こしていい?」
「ええ」
なんで私に聞く。そう思ったのも束の間、すぐにライネが電源ボタンを押して、イヴ身じろぎしたものだから少し動揺する。起きていきなり普段いないはずのユウが目の前にいたら、どういう反応をするのだろう、そう気になって。しかしイヴは作業台の反対側にいるライネの方を向いていたので、真っ先にユウと目が合うことはなかった。
「おはよー。今日も異常なしだぞ」
「おはよう……」
舌足らずな声を上げて、のそのそと起き上がる。朝に弱い人間みたいだ。
「ほら、ユウ来てるぞ」
「……? ……ああ、」
ライネに言われてようやく、イヴはユウの方を振り向いた。けれどもいつもみたいに開口一番また来たのか、みたいな不満げな声が聞こえることはなかった。
「そうか、来てたのか……」
ちらりと赤い目でユウを一瞥し、もにゃもにゃとそう呟くと、イヴはまたライネの方を見る。
「寝てるところを見せるなよ」
今度こそ、不機嫌そうな声。しかしその矛先はユウではなく、珍しくライネの方に向いた。
「まあまあ、お客さんを一人にしとくわけにはいかないだろ」
「…………」
慣れた様子のライネがそう宥めると、反論出来ないのかそれとも単に寝起きで思考が鈍っているのか、イヴは黙っていた。
「まあ、いい。それで、今日はどうすればいいんだ」
「そうだな……どっか行ってもいいんだけど、オレやらなきゃいけない作業あるんだよな」
ライネの青い瞳が、きらりと光る。ああこれは、何かを企んでる目だ。イヴはため息を吐いた。大方ユウと親睦を深めてほしい、みたいなことだろう。この世話焼きなイヴの兄は二度目にセレンとユウがこの街に来た時、イヴに友達が出来たと浮かれたものだ。当初は不服だったものの、今となってはそれも認めざるを得ないし、何よりライネの喜ぶ顔を見たいので素直に乗せられてやることにした。
「ユウ」
「はっ、な、何だ」
少しの間蚊帳の外だったユウは突然名前を呼ばれて慌てる。そもそもイヴがユウの名前を呼ぶことだって滅多にないのだ。
「買い物付き合え」
それだけ言って、イヴはとん、と軽やかに作業台から降りるとユウの返事も待たずに部屋を出ていった。困惑してライネの方を見ると、悪い、と言いたげに手を合わせている。思わずユウは苦笑いをして、仕方ないなと後を追った。



連れて来られたのは、近所にあるスーパーだった。小洒落た店内は古びた街にしては意外に広く、あまり見かけないような食材まで売っていた。まだ夕方には早いため人気はそこまでない店の中を慣れた様子で歩くイヴに、ユウはせっせとついていく。
「スーパーなんて初めて来る」
「そうなのか」
「食材の調達は他の人の仕事だから……外に出るといえばお嬢様や旦那様の送り迎えぐらいだし」
くりくりとした丸い目を輝かせながら野菜コーナーを見回すユウに、イヴは本人には悟られない程度にくすりと笑う。昔ライネに連れられてここへ来た時の自分も、こんな感じだったのだろうか。
「ここに来ると初めてのことばかりだ」
「リンドはいろいろと便利な街だしな」
前にライネと隣街に行った時、自分たちの街とははるかに異なる、まるで別世界のような場所にイヴは驚いた。なんせ街の境界線を越えるとすぐにビルやら高速道路の高架が見えてくるのだ。リンドがこの国の中でも大都市であるとはいえどちらかというとその景色の方が一般的なのだが、そういうものを建てるのが許されていないエスラに住んでいると、そちらの方がおかしく見えてくる。
「俺もそっちに行くと知らないものばかり見る」
段ボールに目一杯盛られたトマトを吟味しながらそう言うと、ユウは何か複雑そうな顔をした。それから数秒、喉の奥の言葉を飲み込むか吐き出すかどうしようか迷った。ただならぬ雰囲気を読み取ったのか、イヴは選んだトマトを買い物かごに確保すると、ユウの方を見た。結局言葉は、吐き出すことにした。
「……なあレイ、今度はうちに来ないか」
「断る」
意を決して発せられたユウの言葉は、あっけなく即答され突っぱねられた。本当に、即答だった。
「だよな」
そう言われるのは予想していた。が、思った以上に素早く切り捨てられて肩を竦める。もう少し考えてくれたっていいのに。今度は玉ねぎを眺めるイヴに心の中で不平を唱えた。しかし、その不平は玉ねぎに伸びたイヴの手が、わずかに震えていたのを見つけた瞬間、どこかへ飛んでいってしまった。
「悪い。それだけはどうしても、怖いんだ……」
色の綺麗な玉ねぎを掴みながら、イヴはユウの方を見ずにいつもの堂々とした声はどこへ行ったのか、うんと小さく言った。ああそうか、悪いことをした、とユウは思った。彼は純粋に、前からイヴに遊びに来てほしくて言ったのだ。使用人の中でレイに会いたがっている人もたくさんいる。忘れているとはいえその人たちに、顔を見せてやってほしくて。だけれどイヴにとっては知らない人しかいない家だし、何より自分を捨てた家なのだ。どんな理由があろうとそんな簡単に信用出来るはずがないし、捨てられた恐怖を忘れられるはずもない。今こうしてユウと買い物をしていること自体、奇跡みたいなものなのだ。それ以上贅沢は言うまいと、ユウは無理に誘うのをやめた。
「気にするな。その代わりお嬢様とはこれからも仲良くしてくれよ」
詫びる意味を込めて、少し重くなった買い物かごをイヴの手から静かに奪うと、彼が断ったことで落ち込まないようにそう言った。するとイヴは小さく頷いて、玉ねぎをかごに放り込んだ。


「あら〜イヴくん! 今日はライネくんとは一緒じゃないの?」
買い物かごをいっぱいにしてレジに向かうと、年配の女性がにこやかに話しかけてきた。彼女はイヴが初めてここに来た時からの知り合いである。
「こんにちは。ライネはちょっと用事があって」
「そうなの〜。あれ? お友達?」
女性はイヴの後ろでかごを台に載せている会釈するユウを見つけると物珍しそうに尋ねた。イヴは先ほどの寝起きの時のように一瞬だけユウを見て言う。
「そうです」
ああ、なんか、感慨深いな、とユウは思う。例え今そう答えるしかなかったからだとしても、イヴに友人扱いされるのはなんだか嬉しかった。顔がにやつくのをなんとか抑える。
「まあ〜イヴくんちゃんとお友達いたのね! いつもライネくんといるから心配してたのよ」
しかし次に続けられた女性の言葉に、ユウはにやつくどころか思い切り吹き出してしまう。ふくらはぎに軽い蹴りが飛んできた。
「ス、スーパーにそんなに家族以外と来るのも変な話でしょう」
イヴは極力平然と返事したつもりだろうが、声ががたがたに震えている。友達がいなさそうだと思われていたことにショックが隠し切れていなくて、ユウはひっ、と一瞬出た引き笑いを誤魔化すのに必死だった。
「まあそうなんだけどね。それにしても背が高くてかっこいいお友達ね〜。大事にしなさいよ」
「はい……」
そんなイヴの狼狽も意に介さず、女性はてきぱきとレジを打った。さすがは六年以上ここで働くベテランである。いつの間にか笑いも引いて、その素早い動きを感心しながら見つめていたユウを、イヴはしっかりと睨みつけていた。



それから家に帰って、しばらくいつも通りテレビの前でだらだらと話をした。旦那様とお嬢様は相変わらず喧嘩ばかりしているということ、年末が近付いていてこの休みが終わればしばらくはエスラに来られなくなること、休みをもらったのは初めてだということ。イヴがスーパーでの出来事からしばらく不機嫌で相槌を打つばかりだったので、ほとんど話していたのはユウの方だったが。それでも二つ目の内容を話した時にはテレビに向いていた目がユウの方へ向けられて、たったそれだけで彼はもう満足だった。

そうしてあっと言う間に時間は過ぎ、ライネの夕食が近くなったので二人で台所へ向かった。今日はミドが大学の方に泊まると聞いたし、セレンもいないのでそんなにたくさん作ることもないな、とユウは思っていたのだが、イヴが一人で食べるには明らかに多い量、少なくとも三人分くらいの食材を引っぱり出してきたのでぎょっとする。
「あの、レイ」
「何だ」
「それ、全部使うのか?」
「ああ、今日はライネの他に誰もいないからな」
「普通逆じゃないか」
「あいつは本当はこれぐらい食べるんだ。いつもはミドやセレンに気を遣ってるのか、普通の量しか食べないんだがな。だからこういう時は好きなだけ作ってやるって決めてる」
「へぇ……意外だな」
ライネの見た目はまるで普通の少年なので、そんなにも入る場所があるとは思えなかった。育ち盛りってやつだろうか。なら自分ももっと手伝わないといけないと思い、ユウは水の張ったボウルに浮かぶ玉ねぎに手を伸ばした。


「ふい〜疲れた……。! おお、今日すごいな」
一時間ほど経って、実は本当に作業をしていたライネがくたびれた様子で階段を降りてきた。そしてリビングに来るなりすぐ、テーブルにずらりと並べられた料理に目を輝かせる。ハンバーグが三つと、トマトのサラダと、野菜いっぱいのポトフと、その他のおかずが諸々。しかも基本的にみんな、サイズが大きい。
「ちょっと作り過ぎじゃないか? あれ」
「平気だあれくらい。見てろ」
席に着くライネを見守りながら、台所でひそひそと話をする。いつもセレンと来る時とは違い過ぎる量にユウは心配になった。
「二人とも、なんでそんなとこで見てるんだよ。なんか恥ずかしい」
二人の視線に気付いたライネが、照れ臭そうに笑う。確かに三人もいるのに食べるのは一人だけとなると、なんだか気まずいかもしれない。
「気にするな。空気だと思え」
「なんだそれ。まあいいや、いただきまーす」
結局ライネが照れていたのは最初だけで、すぐにナイフとフォークに手を伸ばした。イヴと二人きりでいる日も多いため、見られながら食べるのにも慣れているらしい。皿にごろんと転がるハンバーグにナイフを入れ、口に運ぶ。
「おいし……」
ふにゃりと心底幸せそうな顔。毎度美味しそうに食べるなあと、ユウは見ていて胸の辺りが暖かくなる気がした。そしてちらりと隣のイヴを覗いてみると、彼もまた嬉しそうに普段の仏頂面を綻ばせていてそんな優しい表情も出来るんだな、とひっそり感心した。彼は家族をとても大切にしているけれど、ライネに対しては特にそれが顕著だとも思った。ミドさんに拾われたと聞いたのに、不思議だな。


「ごちそうさま! 美味しかった!」
「お見事……」
それから三十分足らずで大量に並んでいた料理は全て消え、ユウは戦慄した。まさか本当に、あんなにたくさんあったハンバーグやらポトフやらをぺろりと平らげるとは思わなかった。しかもご丁寧にデザートのプリンまで。
「こんなに食べるんなら、普段我慢されるのって大変なんじゃないですか?」
「まあなー。でもいつもこうだと食費かさむし、我慢しても死ぬわけじゃないから平気平気」
食べ過ぎてもいけないしな、とからから笑いながら言うライネに、ユウは珍しい生き物でも見るような気分になった。食べるという行動とは無縁なユウには、無理もないことかもしれないが。
「ほんとに不思議だなぁ……あれ?」
首を捻っていると不意に窓の外からざあっと、雨の降る音がした。外を見てみると、その勢いは思いのほか激しかった。
「雨だ……予報見るの忘れてました」
「明日の朝まで続くみたいだぞ」
「面倒だな」
天気予報を検索したらしいイヴの言葉に、帰り道を予想してうんざりする。ユウの身体は別に濡れても動けなくなったりはしないが、傘という荷物が増えるのは人間でも嫌な気分になるものだ。するとそんなユウを眺めていたライネがあっけらかんと言った。
「泊まってけばいいじゃん」
「へ」
「は?」
ユウもイヴも一斉にライネの方を見る。
「明日も休みなんだろ? きみの用事がなければオレは別に構わないぜ」
「明日も暇といえば暇ですけど……」
「んじゃ決まりだ! 夜はオレミドのベッドで寝るから二階使っていいよ」
「えっそんな……適当な場所でいいですよ、普段椅子で寝てますし」
「お客さんをそこらに転がしちゃだめだろー」
「はぁ」
そんなこんなな勢いで、ユウはライネたちの家に泊まることになった。しかも寝るのはイヴと一緒の部屋で。また青い目を光らせているライネを、イヴは呆れた目つきで見ていた。



「そういえば目、直したんだな」
それからまたリビングでだらだらと過ごした後、寝室で寝る準備をするために充電コードを引き出しから引っぱり出していたイヴにふと尋ねた。彼の右の目を覆っていた眼帯がいつの間にかなくなっていたことが、ユウは来た時から気になっていた。
「いい部品が手に入ったから替えたんだ。いつまでも左右違う目を使うのもよくないしな」
「それだけか? 気に入ってるみたいだったのに、あの青い目」
束ねたコードを解くイヴの手が止まる。
「ライネが替えろと言うんだから、仕方ないだろ」
「ライネさんの言うことには素直に従うんだな……」
私の助言は何も聞いてくれなかった癖に。ユウは一瞬そう思って、何を馬鹿なことを、と自嘲した。人間とアンドロイドの言うことだったら、そりゃあ人間の言うことを聞くだろうと。しかしその拗ねたような言葉には、思いがけない返事がきた。
「ライネは俺の恩人なんだから、当然だろ」
「恩人? ミドさんじゃなくてか?」
夕食の間の疑問と、イヴの言葉が重なった。不思議に思って尋ねると、イヴはしまった、というような顔をしたが、言ってしまったものは仕方ないと思ったのかすぐに口を開いた。
「俺がミドに拾われたっていうのは、嘘だ。本当はライネが拾ってくれたんだ」
「なんでそんな嘘を」
「あの時はそう言わなくちゃいけない理由があった。今はないから本当のことを言っていい」
「なんだそりゃ」
この家は本当によくわからない。一緒にいればいるほど疑問が湧いてきて困惑する。しかし今の会話もこの間解決したというイヴの悩み同様、こんな風に曖昧な返事をする時は聞いても話してくれないんだろうなと、しつこく聞き出そうとは思わなかった。
「まあでもなんとなくわかった。お前、ライネさんには特別優しいもんな」
「そうか?」
「そうだぞ」
「……あんな記憶も名前もない鉄くずに近かった俺を拾って、身体と新しい名前をくれたんだ。そうもなるだろ」
「そんなに酷かったのか」
「写真あるぞ。見るか」
「いや、いい……」
人間からするとそうでもないだろうが、私たちにとってはとてもグロテスクな映像なのだろう。想像しただけで寒気がした。今の旦那様ならともかく、お嬢様の元気がない頃に私も何かを間違えていたらそうなっていたのだろうか、と思うと余計に。
「まあ、お前も気をつけろ」
「はぁ……」
イヴはもういつもの調子で充電コードをコンセントに挿しながら言った。何か話をすり替えられた気がする。けれど彼がライネに優しい理由は知れたのでよしとした。最初の頃はみなぎっていたユウの好奇心は、もはやこの家の秘密の多さやイヴの頑なさを前にして萎びつつある。ライネに譲ってもらったベッドにごろりと寝転がると、椅子とは比べ物にならない心地よさに何もかもどうでもよくなってしまいそうだった。
「……だったら、私の話でもするか」
ふと思い立った。押してだめなら引いてみろ、ではないがなんとなく、ユウは自分の話がしたくなった。雨の匂いを纏った夜の気配、いつもと違う場所にあてられたのかもしれない。
「いきなり何だ」
イヴがパーカーを脱ぎながら面倒そうな声を上げる。
「夜に友達といるなら寝る前にだらだら会話するものだって聞いた」
「誰に」
「お嬢様に」
「いけないお嬢様だな……で、何を話すつもりだ」
呆れながらも付き合ってくれるらしい。パーカーをハンガーにかけてクローゼットに仕舞うと、イヴは自分のベッドに腰かけた。
「私がここに来る前のこと、というか来た理由というか……これ言っていいのか」
「寝てもいいか」
「待て、待て。言うから」
ここへ来て言い淀むユウに焦れたイヴが首元へ手をやるものだから、慌てて起き上がる。さてどうしたものか、何から話そうか。そうこう考えているうちに、脳裏にセレンの姿と、その隣にいる黒髪の姿が浮かんだ。
「……私はな、レイのことが嫌いだったんだ」
本人に言うべきか迷ったが、覚えていないなら構わないだろう。そう思って、目でシーツの皺を追いながらぽつりと呟いた。昔、ユウはここに来る前まではレイのことが好きではなかった。
「……そりゃあ、好きになる要素がないもんな」
しかしユウの渾身の告白に、イヴは少し、ほんの少しだけ声を震わせてそう言った。その瞬間ユウは違和感を覚え、しまった、と思った。何か間違って伝わっている。咄嗟にベッドから降りて、イヴの肩を掴んだ。びく、と震える。
「ちが、違う! 前から思ってたんだがお前なんでそんなに後ろ向きなんだ、もっと自分に自信を持て!! というか私に悪いことをしてる自覚があったんだな!?」
「何なんだお前が嫌いだって言ったんだろうが!」
弁解しようと必死になって叫ぶと、イヴも苛立ち半分困惑半分、みたいな声で叫び返した。時間帯にそぐわぬ音量だったので、ユウは自分のことを棚に上げて慌ててイヴの口に手をやる。そうするとお前の方がうるさい、と言わんばかりに頬をつねられた。そのおかげか、お互い急激に冷静になる。
「そうじゃなくて、私が言ったのはお前じゃなくて、ああややこしいな、昔の、屋敷にいた頃のお前のことだよ」
「昔の? お前、昔の俺のことは知らないんじゃないのか」
首を傾げて訝しげにイヴは聞いた。ちゃんと話そう。そう思ってユウは彼の隣に腰かける。
「そうなんだが……正しくはお前の影に嫉妬してたというか……」
「?」
「お前に会う前、お嬢様がすごく滅入ってたっていうのは知ってるだろ」
「ああ」
「私は最初、レイというアンドロイドが屋敷にいたことなんて知らなかったんだ。だからお嬢様がどうして落ち込んでいるのかなんて、わからなかった」
「ほう」
「どうすれば喜んでくれるんだろう、そればかり考えていた。そんな時、他の使用人たちが話していたのを聞いたんだ。レイがいてくれればお嬢様も元気になるのにって」
「…………」
いつの間にか漂っていたユウの真剣な雰囲気を感じ取ったのか、イヴの短い返事が消える。真面目に聞き取ろうとしているようだった。
「その他にもたくさん聞いた。私はレイと比べられていた。私の知らないところで。屈辱だった。顔も知らないアンドロイドが、私よりも求められていたことが」
レイに比べれば少し抜けてるわね、ユウよりも、レイの方が。お嬢様だって、ずっと彼のこと。よく出来たユウの耳には、心ない言葉がたくさん届いた。どうして。私はこんなにも努力しているのに。レイって誰だ。そんな名前、お嬢様も旦那様も、教えてくれなかった。どうしてここにはいない。そんなものがいながら、どうして私は買われた。疑問と疑念が湧いて、だけど見て見ぬ振りをして。陰口を言われていることなんて知らない素振りをしながら、レイを越えられるように努力した。だけどセレンは落ち込んだままで、陰口も止まなくて。どうしようもない苦しみの矛先は、何も知らないレイへと向いた。
「憎くなった。名前しか知らないレイのことが。大嫌いだった。情けない逆恨みだったけれど、そうしないと駄目になりそうで」
ユウが屋敷での生活を続けるには、やり切れない思いをレイにぶつける他なかった。嫌いだ、お前のことが。屋敷にいない癖に、皆に求められているお前が。どこにもいないくせに、私を苦しめるお前が。けれどその仮初めの生活は、突然終わりを告げた。
「そんな時に私は、お嬢様の部屋に置いてあったレイの写真を見たんだ」
記憶の中からその写真を引っぱり出し、目の前のイヴと比べた。手を伸ばし、ごわついた髪を梳いて、頬に触れる。親指で目蓋をそっとなぞる。切れ長の目。長い睫毛がさりさりと指の腹をくすぐった。
「……似てないな」
「何が」
「お前がレイに。私とそっくりだったんだぞ写真のお前。おい、露骨に嫌そうな顔をするな」
眉間に皺を寄せるイヴの頬を、先ほど自分がされたようにむに、と摘まむ。振り払われたりはされなかった。珍しくされるがままになる彼に少し緊張しながら、ユウはイヴと出会う以前のことを思い出していった。今はもう、どこにも見つからないレイの面影を。
「今はこうして、茶化したりも出来るけど……当時は脚に力が入らなくなるくらいショックだったな……私は本当にレイの代わりでしかなかったんだなと、思い知らされて」
弾けるような笑顔のセレンの隣で微笑む、黒髪を切り揃えた自分にそっくりの姿。セレンのベッドのサイドボードに置いてあったその写真を見つけた時、私では駄目なんだ、とユウは悟った。自分は所詮、レイを模して造られた代用品なのだと。レイと全く同じものにも、全く別のものにもなれない劣化品なのだと。そんな自分が、オリジナルであるレイに、勝てるはずがないのだと、気付いてしまった。
「だから、ほとんど自棄だった。この街にレイを探しに来たのは。お嬢様に笑っていただくには、もうそれしかないと思って。レイがもし帰ってきたら私は捨てられるかもしれないと思ったけれど、その時はこんなに惨めな思いをするくらいならその方がましだと、思っていた」
何も知らない存在に嫉妬をするのも、比較され貶められる自分を見ているのも、もう嫌だった。そんな感情が、ユウにレイを捜させた。自殺のようなものだった。それでもまだ、彼は生きている。いろんな偶然が重なって、憎かったはずの相手と友達にまでなって。
「まあ、お前が生きてたことに浮かれてて、記憶がない可能性なんて考えもしなかったけどな! お嬢様は元気になってくれたから、結果的にはそれでよかったけれど……」
セレンに聞いたような友達同士の明るい会話をするつもりが、どういうわけか暗い話をしてしまった。慌てていつもの調子に戻ろうとしたのだが、隣で俯くイヴは、それをさせなかった。
「……ない」
「ん?」
ユウの耳でも聞き取れないような声がして、思わず聞き返す。イヴが顔を上げる。いつも向けられる無感情なはずの赤い目が、その時は真剣にユウを見上げていて。少しの沈黙の間でキュイン、と何かが高い音を立てた。イヴの中から聞こえてくる。彼は必死で何かを言おうしているんだと、ユウはじっと待った。血の気のない唇がじりじりと動く。
「……もう、いない。レイなんて、お前にそっくりな奴なんて。俺は、お前しか知らない」
いつもの毒とは違う、ひとつひとつ慎重に選ぶような言葉。イヴは一度そこで瞬きをすると、変わらない真っ直ぐな目で続けた。
「……ユウ、お前は代わりなんかじゃない」
「っ、」
溺れていたところを引っぱり上げられたような感覚がして、ユウは息を飲んだ。喉の奥が震えて、何か言おうとしても何も出ない。ああどうして、どうして私の一番ほしかった言葉をよりにもよってレイ、お前が。
「俺は」
ユウを見上げていた瞳が、ぐらりと逸らされる。それは大抵、イヴが後ろ向きな発言をする時の合図だとユウは最近知った。
「俺は、お前が思っているほど出来のいい奴じゃないし、お前みたいに気の利くことなんて出来ない。だからレイだって、そんなに出来た奴じゃなかったはずなんだ……お前こそもっと、自信を持てばいい」
「……レイ」
これは、私は褒められてるのだろうか、励まされているのだろうか。思いがけない相手から求めていたものをもらいすぎて、逆にユウは混乱する。どうしよう、何と返せばいいのかわからない。イヴの努力に見合う返事を急いで考える。が、
「! レイ!?」
ユウの頭の中が答えを出す前に、目の前のイヴの身体がぐらりと傾く。咄嗟に腕を伸ばして支えると、はあ、と大きなため息が聞こえた。
「疲れた……」
ユウにもたれる身体は手袋越しにもわかるほど熱い。なるほどたった数秒の言葉を伝えるだけでもこうなってしまうのでは、普段気の利いたことなど言えないわけだ。そう思うと尚更さっきの数秒がどれほど貴重なものだったか実感して、じわりじわりとこみ上げる暖かいものを抑え込むのに必死になった。
「……ありがとう」
今度は自然とそう言えた。他には何も言う必要はないと、イヴならきっと今の自分の気持ちをわかってくれると思ったから。するとその思いが通じたのか、肩の辺りでくすりと笑う声が聞こえた。



「いつもは何時に起きてる?」
イヴが疲れていることだしいい加減灯りを消して、首の後ろの充電コードを挿して二人してベッドに横になりながらさあ寝るかという時に、ユウが尋ねた。アンドロイドは寝る前に起きる時間を設定しておかないと自力で目覚められない。かといっていつも通りの時間だと早過ぎてライネの睡眠を妨げてしまうだろうから、一応聞いておきたかった。
「六時。それから朝食の用意をして、七時になったらライネを起こす」
「そうか」
だったらそれより少し早く起きればいいだろうか、そう思ってユウは六時前に時間を設定しようとしたが、イヴによって阻止される。
「お前はいつももっと早くに起きてるんだろうが、明日は六時に起きろ」
「どうして」
「休暇っていうのはいつもより多く寝る日だって聞いた」
「誰に」
「ミドに」
「あの人意外と休日だらける人なんだな……」
相手が目下だろうが人間じゃなかろうが敬語を使って丁寧に喋るミドのしっかり者、みたいなイメージがユウの中で崩れ去る。
「ミドもライネも、ほっとくと不摂生ばかりするから困るんだ……俺がいないとだめなんだ、あいつら……」
もう大分疲れてしまっているのか、イヴの話すスピードがのろくなってきた。愚痴というより、まるで自分に言い聞かせるような口調。どこまでも自分に自信のない奴だ、とユウは思った。
「私が言うのもなんだが、ちゃんといてやれよ。あの人たちのそばに」
「いる……約束、したんだ」
約束? イヴの返事が一瞬引っかかったが、彼の声がふわふわしてきたのでユウは再び湧き上がってきた自分の好奇心を押さえつけて言った。
「よし、もう寝ろ。そろそろ限界きてるぞお前」
しかし早く電源を落とせと促すも、イヴはなかなかボタンを押さない。ああもう、私が押してやろうか。でもしまった、あいつは他人にボタンを押されても眠らないんだった。ちくしょうなんでそんな無駄に高性能な機能ついてるんだ、私もほしい。
「……なあ」
あれこれ逡巡していると、イヴから声が飛んできた。
「うん?」
「俺がもしレイだったら、昔のことをちゃんと覚えていたら、どうなっていたと思う……?」
急に話を戻されてどきりとする。しかもイヴがレイと言うと、不思議な気分になる。もしレイだったらって、お前はレイじゃないか。どうもこうもしない。そう答えようかと思ったが、それは先ほど自分の話を真剣に聞いてくれたイヴに失礼な気がして考え直した。イヴは自分をレイと一緒くたにしてほしくないような、そんな態度をとる時がある。だからふと、もし自分が見つけたのが記憶の残った正真正銘完全なレイ、だったとして自分はどうなるのか想像してみた。お嬢様が笑う。レイと会話をする。何故だか、腹が立った。それはレイではなく、イヴだってしてきたことなのに。レイだけには、ふつふつと醜い感情が湧き出てきて。だって、イヴとレイは違う。レイはお嬢様の元付き人で、私の嫌いな奴で。でもイヴは私の……。
「……きっと嫉妬が先にきて、こんな風に話をしたりなんて出来なかったと思う。お前に会えてよかったよ、イヴ」
その時初めて、ユウはイヴの名前を呼んだ。こう呼ばなければいけない気がして。もし目の前にいるのがレイだったら、きっと心の狭い私は休暇を使ってここに来たりはしなかった。それ以前に、きっと私の自殺は成功してしまっていた。よかった。私が見つけたのが、イヴでよかった。
「……そうか」
吐息混じりの、のろい声が聞こえる。暗がりの向こう、イヴの唇が弧を描いた、気がした。




ちゅんちゅんと、鳥の鳴き声が聞こえる。背後から暖かい光が射し込んでいて、ああ雨は上がったのか、とユウは思った。いつもは座ったまま目覚める身体が、横になっているせいか少し動かしづらい。先に目を開けよう。この部屋は明るくて気持ちがいいなぁ、なんて考えながら目を開くと、
「おはよう」
目の前に、爛々と光る赤い目があった。勝ち誇ったようなイヴの顔。ユウはうつ伏せのまま固まってしまう。
「お、おは、おはよう……なんで」
「六時十分前に起きるように設定してた」
こいつ、嵌めたな! あんな状態だった癖によくやると、ユウは呆れた。そういえばあの時いつもは何時に起きると聞いたが、明日は何時に起きるとは聞いていなかった。イヴは嘘は吐いてない、嘘は。だからそんなに身体に負担もかからない。こんなことなら予定通り六時前に起きればよかった。
「お前な……」
「くくっ、初めて会った時といい、俺ばかり寝てるのを見られるのは嫌だったんだ」
昨日の雰囲気が台無しだと苦言を呈するつもりが、それはイヴの悪戯っぽい笑顔に遮られた。魔の差した子供みたいな無邪気な表情に、騙された憤りがどこかへ飛んでいく。誰だお前! この間悩みが解決したからって、急に丸くなり過ぎじゃないか? 昨日からずっと、彼の知らない顔ばかり見せられている気がする。なんというか、全体的に私に対して今までより優しいし、時々笑う。驚かされてばかりだけれど、それだけ心に余裕が出来たのなら喜ばしいことだ。
「それなら、仕方ないデスネ……」
結局丸め込まれてしまう。何なんだろう。私はどうしてこんなにも、生まれる前から彼に振り回されているんだろう。
「じゃあ俺は朝食の用意をしてくる。手伝わなくていいぞ。休暇だからな」
ユウの反応に満足したのかイヴはまだまだご機嫌な様子で部屋を出ていった。起きる時間を指定された割りに暇を与えられたユウは、ぽつんとその場に残され唖然とする。
「いくらなんでも気の遣い方が下手すぎるだろ……」
思わず、口の端が上がる。不器用な癖に何かとユウを励まそうとするイヴは、見ていて面白い。だけれどそれを甘んじて受け入れるのもなんだか癪で、ユウはベッドから立ち上がった。アンドロイドに暇は、天敵なのだ。



「お世話になりました。楽しかったです」
昼前に、ユウは屋敷へ帰ることになった。休暇は今日いっぱいあるけれど、早いうちから明日の準備をしておかないと落ち着かないそうだ。ライネとイヴはそんな彼をいつも通り駅の前まで送る。
「また休みもらえたら来てくれよ。家に人が多いと楽しい」
「はい」
笑ってそう言うライネに、素直に頷く。あれだけ嫌われても仕方ないことをしたというのに今は歓迎してくれる彼を恐れることはもうないだろうと、ユウは思った。
「あ、そうだイヴ」
「?」
改札に行く前に、鞄に入れていたものの存在を思い出す。そもそもここへ来たのは、これを渡すためだった。鞄の中を探って、イヴの手を取る。
「やる。いらなければ捨ててくれ」
手に収まるか収まらないかのそれをイヴの手に押し付けるように渡すと、ユウはその中身を見られる前にじゃあな、と言った。何かしら反応を返されるのは、逆に恥ずかしくて。
「また近いうちに来ます。今度はお嬢様も一緒に」
「おー、待ってるぞ」
踵を返し、改札へ向かうユウにライネは手を振った。ユウはイヴのことが気がかりだったが、彼はじっと手の中を見つめていた。ああやっぱり何も言われなくても恥ずかしい。渡さなければよかったかな、と一瞬思ったが、駅に入る直前、ぱっと顔を上げたイヴが小さく手を振ったので、そんなことはどうでもよくなった。昨日の夜がまだ続いているような気がして、暖かい気持ちのままユウは改札を抜けた。


「何もらったんだ?」
ユウがいなくなった後の駅前、ライネがイヴの手を覗き込んだ。
「……栞」
そこには、小さな栞があった。ラミネート加工された中に押し花の赤い花びらが林檎の形にあしらわれた、可愛らしい栞だった。
「おお、お前が本好きなの知ってたんだなぁ。大事にしろよ」
「ああ」
イヴはしばらくその林檎を見つめた後、折れないように慎重にパーカーのポケットに入れた。
「……で、仲良くなれた? 呼び方変わってたけど」
にやにやとイヴを見上げながら、ライネは聞いた。相変わらず目ざとくて、この兄貴には敵わないなとイヴはため息を吐く。ライネのあからさまな気遣いは、結局のところありがた迷惑にはならなかった。
「そこに気付いてるんなら聞かなくてもいいだろ。お前のわかりやすいごり押しは結構効いた」
「あはは、それはよかった」
「それでお前、昨日は眠れたのか」
そう聞くと、ぎくりとライネの顔が引きつった。やっぱりなと呆れると同時に、少し勝ち誇った気分になる。お前が俺のことをよく知ってるのと同じで、俺もお前のことならお見通しなんだ。
「無理です薬の匂いとか、ミドの部屋まじまじと見るの初めてだとか考えてると目が冴えて冴えて。昼食べたら寝ていいか」
くあ、と大きなあくび。昼まで持つだろうかと心配になる。
「仕事はどうした」
「今日は休み。だから甘やかしてくれー」
「いつもやってるだろ」



「たくさん食った後に寝て……太らない身体だから構わないけどな」
家に帰って昼食を食べて、寝室ですやすやと寝息を立てるライネを見下ろしながら、イヴは優しい声で呟いた。三年前からよく食べよく眠るようになった身体は、何かと不便だ。そもそも死ななくなったのに空腹や眠気は変わらず訴えるというのは、どういうことなんだろう。食べられなくなるよりは断然、こっちの方がいいけれど。少しずれた毛布をかけ直すと、立ち上がって今度は自分のベッドへ向かった。下から、本を入れる方とは別のカラーボックスを引き出す。その中には、ノートや壊れた目覚まし時計、割れた硝子の目玉が入っていた。ノートは家事をするのに役に立つ道具や料理のレシピなんかをまとめたもので、目覚まし時計はライネが病気の時に分解して遊んでいたものだった。そして目玉は、三年前にミドに割られたもの。この箱に入れているのは、イヴの失くしたくない大事なものばかりだった。ノート以外はガラクタかもしれないけれど、昔を思い出すには欠かせないもので、捨てたくてもどうしても捨てられなかった。そんなイヴの思い出の入った箱に、またひとつ物が増えようとしている。
「…………」
パーカーのポケットに手を入れて、先ほどユウに握らされた栞を出す。薄い黄色の紙の下の方に置かれた林檎をじっくりと眺めながら、昨日のことや、今までのことを思い出した。ユウが昔の自分に苦しめられていたなんて、初めて知った。この街までレイを捜しに来たのが、憎しみからの行動だったということも。イヴはそれを、昨日まで知らなかった。とことん呑気だったと思う。それと同時に、彼に親近感を感じる自分もいて。明るく見えて何の悩みもなさそうだった彼も、自分の無力さを知る一人だった。あいつはレイとは全く別物かもしれないが、俺とは、同じだ。そう思うと、今まで悪いことをしてしまったかなと感じた。だけれど最初に強盗を働いたお前も悪い。あれがお前に対する態度を決定づけたのだから。と、内心言い訳をしながら栞を箱の中へ仕舞った。

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