1.みゆきときりひと
『はい、時間だから片付けて、残りは放課後ここにくるか家に持って帰ってやってね』
誰もいない美術室でひとり、美術教師の言葉を恨めしく思いながら、少年高崎桐人は課題の絵を描いていた。授業時間だけでは完成させられないような課題を出すのは勘弁してほしい。成績が良くて居残りとは無縁の桐人は、放課後縛られるのが嫌いだった。しかし手を抜くわけにはいかなくて、懸命に筆を動かす。
「高崎くん」
不意に、筆を洗う水音だけだった美術室に凛とした声が響いた。入り口を見ると、長い髪を二つの三つ編みにした女子生徒が立っていた。桐人と同じクラスの、不知火みゆきだ。
「美術の課題? 提出はまだ先なのに、もう居残りでやってるのね」
「早く終わらせたいからな」
「ゆっくりやればいいのに」
みゆきは桐人と席を一つ空けた場所に自分の荷物を置いて、彼の絵を覗き込んだ。絵を見られるのは、少し居心地が悪い。
「高崎くんは白熊にしたのね、ちょっと珍しいかも」
課題は、自分の好きな動物の絵を描くというものだった。桐人のキャンバスには、氷の上で寝転がる白熊の姿が描かれていた。
「正直後悔してる。白過ぎてどう描けばいいかわからない」
「でも上手よ。ちゃんと明暗がはっきりしてる」
「美術部員にそう言われると光栄だな」
みゆきは何度か賞を取っている、学校自慢の美術部員だ。そんな彼女に絵を褒められるのは、あまり感情を表に出さない桐人でも嬉しいものだ。
「不知火も課題か?」
「それもあるけど……高崎くんがここにいるって聞いたから来た、って言ったらどうする?」
「冗談だろ」
「ほんとよ。一度ゆっくりお話ししてみたかったの。学年一位の王子様と」
「王子様って柄じゃないだろ。こんなボサボサなの」
なんとも歯がゆくなるようなことを言われて、桐人は自分の髪の毛を引っ張った。少しの混じり気も許さないほど真っ黒な髪は、彼が自分の格好をあまり気にしないためぴょんぴょんとあちこちに跳ねていた。
「そんなことないわ。運動も出来て格好いいって評判よ」
「勘弁してくれ……」
さすがにこう絵以外を褒めちぎられては照れる。桐人は白熊に影を足すことに集中すべく、みゆきから目を逸らした。
「ここまで来て話すだけ、っていうのももったいないわね。私も描こうかしら」
みゆきは机の天板を斜めに持ち上げてイーゼルのようにしてから席を立つと、クラス全員の絵が置かれている棚から自分のものを引っ張り出した。そこには脚で何か丸いものを掴んだ鳥の姿が描かれている。
「鷲じゃないか。また難しそうなものを描くな」
「格好いいものが描きたくて」
大きく羽ばたく羽の一枚一枚を書き込むのも、気が遠くなりそうだ。桐人は自分と彼女とのレベルの違いを一目で見せつけられたようで、絵が完成したら行動に移そうと思っていた計画を実行するかどうか迷った。一方みゆきは桐人が葛藤していることも露知らず、鞄の中から資料となる写真を取り出して隣の机に並べた。
「亀? そいつが持ってるの、亀だったのか」
「そうよ」
写真の中には鷲の他に数枚、亀の写真が混ざっていて、鷲が掴んでいる丸いものが亀だと知った。確かに、まだ細かくは描かれていないのでわかりにくいが、キャンバスには頭を甲羅に引っ込めた亀がいた。
「食べるのか、固いのに」
「うんと高い場所から落として、甲羅を割って中身を食べるのよ。テレビで見た時はぞっとしちゃった」
「猛禽類は基本残酷なイメージがあるんだが、それはまた……」
桐人は今まで見たこともない亀の中身を想像して、顔を青くした。あと亀って美味しくなさそうだな、とも思った。
「しかしなんでそんなシーンを描こうと思ったんだ」
「鷲の賢さに惹かれたのよ。彼らは人間や猿みたいに道具を使うことは出来ないけど、亀っていう固い生き物の中身が柔らかくて、高い所から落とせば割って食べられるってことを知ってるの。素敵だと思わない?」
「わかる気はする」
絵の具をパレットに出しながらうっとりと語るみゆきを、どこかで見たことがある雰囲気だなと思いながら桐人は頷いた。そういう自然の摂理に惹かれるのも、なんとなく理解は出来る。
「高崎くんは、どうして白熊にしたの?」
「……不知火みたいにちゃんとした理由はないぞ。どの動物にするか迷ったから、知り合いにリクエストしてもらっただけで」
「へえ、意外ね。あなたが他人に自分の課題を決めてもらうなんて」
「俺のこと何だと思ってるんだ」
「ごめんなさい、高崎くんってあんまり人と関わらないタイプだと思ってたから……特定の人以外には壁があるというか」
「はっきり言うな。確かに友達は多くない」
会話の雲行きが怪しくなってきた。桐人は居心地の悪さが増すのを感じて、絵を早く描き上げてしまいたかった。もうすぐ完成ではあるけれど、なかなか納得のいく出来にならない。こんな状態で計画を実行しては後が面倒になる。
「なあ、ここからどう手をつけたらいい。もうほとんど完成したつもりなんだが、何か足りない気がする。画面が寂しいというか」
話をすり替えたいのと、美術部員に助けを求めたいのと、両方の意味で桐人は尋ねた。
「そうね……少し汚してみるのはどうかしら。この白熊、ちょっと綺麗過ぎない?」
寝転んだ白熊は、動物園で見るような茶色っぽいものではなく、真っ白だった。それが絵全体を余白のように見せてしまっていると、みゆきは考えた。
「確かに……でも、汚すのは嫌だな……」
顎に手を当てて、桐人は考え込んだ。みゆきには悪いと思ったけれど、一応こだわりがあってこの色にしているのだ。桐人は自分の髪の色が真っ黒ように、混じり気のあるものが嫌いだった。
「じゃあ、小さい動物を描き足してみたら? この絵の具乾いた上から描いたら滲まないから、今から足しても大丈夫よ」
みゆきも考え込む素振りを見せて、汚れに変わる案を出した。
「そうか……それもいいかもしれない。ありがとう」
別の動物を描くなら今の白熊の見た目を損なうこともなさそうだと、桐人も納得した。持って来ていた資料を捲り、筆を進める。
「ふふ、どんな絵になるのか楽しみね」
熱心に絵を描く桐人を眺めながら、みゆきはにっこりと微笑んだ。
「……こんなもんか」
三十分ほど経って、桐人は筆を置いた。もう日も落ちようとしていて、窓からはオレンジの光が差し込んでくる。
「あら、子熊を描いたのね」
キャンバスの白熊は、二頭に増えていた。最初に描かれていた大きい熊のそばで、子熊が寄り添うように寝ている。
「白いのは変わらないけど下手に別の動物を描いたら狩りになりそうだと思って」
「高崎くんって、優しいのね」
「どうしてそうなる」
何を言っても褒められる気がして、桐人はすぐにでもここから飛び出したかった。媚びているような言い方でもなく、皮肉るわけでもないみゆきは何を考えているのかよくわからなくて、苦手だ。
「今日はもう帰るの?」
片付けを始めた桐人に、みゆきが尋ねる。
「まあ、ちょっと寄り道はするけど」
「保健室?」
みゆきの言葉に、桐人の顔が強張る。何もかも見透かされているようだ。
「……言っとくが、貴美とはそういうのじゃないからな。ただの幼馴染で妹みたいなもんだ」
「そうなの? みんな噂してるけど」
「全然違う。貴美に失礼だ」
「お似合いだと思うわよ」
「俺に恋愛なんて無理だ」
みゆきの言葉をぴしゃりと一蹴すると、桐人は鞄から携帯電話を取り出した。動揺して計画を遂行するのを忘れるところだった。正確には、計画というより約束だけれど。カメラモードを起動して、レンズを白熊の絵に向けた。
「写真に撮るの?」
「描けたら見せろってうるさい奴がいてな」
「白熊をリクエストした人ね」
「まあ、そんなところだ」
ぱしゃり。シャッター音が鳴る。これでやっと終わりだ。桐人はようやくここから出られると安堵した。撮った画像をメールに添付して、送信する。
「不知火はまだ描くのか」
「ええ。ちょっとやる気出て来ちゃった。気にしなくていいわよ。由比ヶ浜さんが待ってるでしょ?」
「多分、待ってないと思うけどな……」
出来た絵を提出用の棚に入れて、鞄を方にかける。
「じゃあお先に。もう暗くなるから気をつけろよ」
「ありがとう。また明日ね」
微笑みながら手を振るみゆきに手を振り返して、桐人は美術室から出た。部屋の中が、再び静かになる。
「恋愛なんて無理だなんて、甲羅で身を守る亀みたいね、高崎くん」
ひとりになったみゆきの声が響く。それを聞くものは誰もいない。
「私やっぱり鷲が好きよ」
2.とおるとるい
「違うよ透、何にも接触してない物体に働く力は重力だけって言ったじゃないか」
「あーもう! 全然わかんないわよ力学なんて!!」
河原類と神田透は、朝受けた物理の小テストの再試験を受けていた。正確には、再試験を受けなくて済む合格点を取れなかったのは透だけで、類は彼女に解き方を教えるために付き添っているだけだが。再試験自体は十分で終わるのだが、合格点を取れるまで何度も試験を繰り返す形式で透はもうすでに二回受けている。試験の合間に類が熱心に教えているのだが、どうにも上手くいかない。二回の試験の間に合格する生徒も何人かいて、教室に残っているのはもう五人ほどしかいない。それが透を余計に焦らせた。
「がんばってよ透。これ終わったらクレープ食べに行くんでしょ」
「でももうぐらぐなりぞう……」
「暗くてもクレープは逃げないから。ほらここつり合ってる力同士で方程式立てて」
「これとこれとこれとこれとこれで」
「何か余計なものが一つ入ったよ」
「もううるさいわね! 途中で口出しされたら気が散るの!」
「そんなこと言ったって」
「もう嫌……桐人の頭と交換したい……」
「また桐人くんかぁ」
この場にいない人物の名を挙げられて、類は胸がちくりと痛むのを感じた。実は彼は、密かに透に想いを寄せているのだ。彼女のワガママなら、多少は許せてしまう程度に。それなのに透は同じ中学からやってきた桐人と仲が良くて、ことあるごとに彼の名前を口にする。透や桐人とは別の中学だった類は、出遅れたような気分になるのだ。
「あいつ中学の時から学年一位なのよ……化け物でしょ」
「がんばってるんだよそれだけ」
「あ、噂をすれば」
もう集中する気力もなく、ぼんやりと廊下を見ていた透が突然立ち上がった。学ランもあいまって真っ黒に見える彼がそこにいた。
「ちょっと透!」
すぐに教室から飛び出した透を、さすがに憤りを感じながら類は追いかけた。
「桐人! あんたがこんな時間まで学校いるとか珍しいわね!」
通りかかった教室からいきなり透が飛び出して来たものだから、保健室を目指して歩いていた桐人は目を丸くする。
「美術の課題やってたんだよ」
「もうやってんの? は〜、エリート様は行動が早いわね」
「お前はまだ再テスト終わらないのか」
「類に教えてもらってるんだけど全然わかんないのよ。桐人教えてよ」
透の後ろで二人の様子を見ていた類がぎょっとする。さすがにそれは、酷いんじゃないか。僕が教えてるのに。嫉妬で狂うどころじゃない。
「お前な……類で無理なら俺でも無理だろ。俺教えるの下手だし」
桐人は類を一瞥すると、遠慮がちにそう言った。そういう気を遣えるところが、類を余計にやきもきさせる。嫉妬の対象なのに、嫌いになれないのだ。
「貴美ちゃんはあんたに教えてもらってるけど成績いいじゃない」
「それは貴美の頭がいいからで」
「私が馬鹿だって言いたいの」
「ま、まあ透、早く戻らないと三回目始まるよ」
何故か険悪な雰囲気になってきたので、類は慌てて透を宥め、教室に戻ろうと背中を押す。これ以上桐人と話しているところも見たくない。
「……わかったわよ。桐人! 今度教えてよ!」
「断る」
「なんでよ〜!」
ああもうどうしてこうなる。類はまた廊下に戻ろうとする透の背中を強く押して、教室に無理矢理戻す。すると不意に、ぽんと肩を叩かれた。振り向くと、桐人がお前も大変だな、と言いた気な顔をしていた。
「がんばれよ」
「……! うん……」
笑うような怒るようなよくわからない表情をして、類は先に席に戻った透を小走りで追いかけた。桐人も、再び目的地へと歩き出す。
「類? 何ぼーっとしてんの」
「……桐人くん……好き……」
何だかもう類は泣きたくなった。ごめんなさい桐人くん僕は君が憎いです。優しい君が憎い僕は醜いです。でもがんばりますありがとう。
3.いつきときみ
一方その頃、桐人が目指す保健室では教室に行けない生徒のために設けられた机で楽しそうに会話をする少年少女の姿があった。
「樹くんって、動物好き?」
「好きだよ。犬飼ってるし」
「そうなの!? 何の犬?」
「キャバリアだよ。垂れ耳で茶色のブチがある犬」
「いいなあー! 人懐っこい犬種でしょ」
「そう。僕が帰るとすぐ寄ってきて可愛いんだ」
「羨ましいなあ……あたしポメラニアンが飼いたいの」
「授業で描くくらいだもんね」
きらきらと目を輝かせながら話す少女、由比ヶ浜貴美を微笑ましく思いながら篠田樹は相槌を打つ。
「樹くんも、いつか美術出来たらいいのになぁ」
「そうだね、座学はここでも出来るけど実技はね……でも貴美ちゃんが話してくれるから楽しいよ」
いつも元気な彼女と一緒にいると自分も元気になる。病弱であまり教室に行くことの出来ない樹からすると、貴美は太陽のような存在だった。
「ここで出来たらいいのに。授業の絵、家で描いていいって言われたから持って来たい」
「一応ここほんとは具合悪い人のための部屋だからね……」
休むために作られている保健室は誰でも居心地のいいように出来ているらしく、休み時間や放課後はこの場所の居心地の良さを知る一部の生徒がやって来て談話室のようになっている。元気が服を着て歩いていると言われるほど活発な貴美は最初こそこの部屋とは無縁な人間だったが、体育の授業で転んで手当てに来た時に樹と知り合ってからは彼と話をするためにほぼ毎日通うようになった。始めのうちは体調が悪いわけでもないのに出入りするのに抵抗があったけれど、保健の先生も樹が明るくなったからと歓迎してくれているので遠慮はなくなった。
「じゃあ、完成したら見せてよ」
「いいよ! でもあたし下手だよ、みんなにこれポメじゃなくてライオンだろって言われるの」
「確かにどっちもふさふさしてるけど……」
「キリちゃんなら上手く描くんだけどなぁ。キリちゃんのポメとか絶対可愛いよ」
「そうなのかい? キリさんってほんとに何でも出来るんだね」
キリちゃん、という名前を聞いた途端、樹の目が輝く。キリちゃんというのは貴美の幼馴染で兄妹のように過ごしてきた桐人のことである。貴美が親しみを込めて呼ぶその名は樹が桐人のことを知らない頃からよく聞かされていて、彼にも少し移ってしまった。保健室に来ている他の生徒には、高崎桐人のことをそんな風に呼べるのはあんたたちぐらいだと言われて二人で得意気になったこともある。貴美も樹も、桐人のことをとてもよく慕っていた。
「うん! 授業では白熊描いてたよ。可愛いかった!」
「白熊? キリさん白熊好きなの?」
「ううん。聞いたことないけど……最初何描くか迷ってたみたいだから、多分友達のリクエスト」
「友達」
樹は桐人のそういった交友関係についての話を貴美から聞いたことがなかったので、つい怪訝な口調で言ってしまった。樹は桐人が一匹狼のように孤高な存在だと思っているので尚更だ。すると貴美は彼のそんなイメージを払拭したいのか、やや食い気味に反論する。
「ちゃんとあたしたち以外にも友達いるんだよ! 透ちゃんと類くんと、あと中学の時すっごく仲よかった人が一人」
「今は別の学校なんだ」
「うん。はあ、なんであの子別の高校行っちゃったんだろ……あの子がいたらキリちゃん学校もっと楽しいのに」
あだ名で呼ぶことさえもみんな渋い顔をする桐人とそれほどまでに仲良く出来る人とは、一体どんな人なんだろう。樹はおそらく自分は会うことが出来ないだろう桐人の友達について思いを巡らせた。その時、突然部屋の扉を、誰かがコンコンとノックした。
「貴美、樹くん……まだ残ってたのか」
「キリちゃん! 噂をすればだね。おつかれ〜」
「おつかれキリさん」
美術の課題を終え、やってきた桐人を二人は歓迎する。放課後はこうして三人で集まるのがお約束になっていた。
「ありがとう。先に帰っててもよかったんだぞ」
「帰らないよ〜。喋ってたらあっという間だし」
「そうだよ。僕帰っても暇だし」
にこにこと笑ってそう言ってくれる二人が眩しい。みゆきによくわからない絡まれ方をして、類に嫉妬深い視線を向けられ、妙な疲労感でいっぱいだった桐人はそれだけで癒されるようだった。
「そういえば貴美ちゃんは美術室行かなくてよかったの? キリさんと一緒に出来たのに」
「あたしは家で描くからいいの。放課後は樹くんと遊ぶって決めてるもん」
「そっかぁ、嬉しいなぁ」
無邪気に手を絡ませてそんなやりとりをする貴美と樹の周りには花が飛びそうな雰囲気である。それを蚊帳の外で見る桐人は別段不機嫌になるわけでもなく、むしろ幸せな気分だった。保健の先生は貴美と出会って樹は明るくなったと言うが、それは貴美の方だってそうだ。以前から貴美はよく笑う子だったが、それがもっとよく笑うようになった。小さい頃からずっと可愛がってきた妹分をそういう風に変えてくれる人が現れて、桐人は嬉しかった。
「お前たち早く結婚しろよ」
「あー、キリちゃんさみしいんだ。大丈夫だよ、あたし結婚してもキリちゃんひとりにしないから。ねー樹くん」
「そうだよ。お兄ちゃんになるんだもんね」
「あのな……」
半分冗談で言ったのに話が思いがけない方向へ行って桐人は辟易とする。そもそも貴美と樹はまだ付き合っていないし、小さい子供が誰々と結婚すると言うのと同じようなノリだと思っているけれど、それも悪くないかもしれないとも思う自分もいた。何にせよ、幸せになれよお前たち。お兄ちゃんはスピーチでも何でもしてやるから。
「それより、もう遅いからそろそろ帰――――あ、」
「どしたの?」
「いや悪い、メールが……」
不意にポケットの中の携帯電話が短く震えた。画面には、先ほど美術室で写真を送った相手の名前が。絵の感想でも送られて来たのだろうかとメールを開いた桐人は、さっと青ざめた。
「キリさん?」
「……ごめん樹くん、ちょっと、めんどくさいのが来るかもしれない」
真っ白なメール画面には『今どこにいる』、とだけ書かれていた。
+α.白鳥ケイ
「誰? あの人。めっちゃ白くて美形だよ」
「別の学校の人だよね?」
いつもは静かなはずの夕暮れの校舎が、やたらとざわついていた。部活動をしている生徒以外ほとんど下校していたが、教室や廊下に残っている生徒はみんな揃ってある一点を物珍しそうに見つめている。そこには、この学校の制服である真っ黒な学ランとは全く逆の白ランを来た少年が携帯電話を片手に歩いていた。それだけでも異様な光景だというのに、彼は髪までもが白かったものだから異常に目立った。なのに、まるで自分の学校であるかというように堂々とどこかを目指して歩いている。
「と、透、誰だろあれ。王子様みたい」
長い長い再試験を終えて、やっと帰ろうとしていた透と類もその姿を目撃していた。類の方は未知との遭遇を前に胸を弾ませている、というような雰囲気だったが、透はというと何か嫌なものでも見たかのような表情をして吐き捨てた。
「……あの変人、とうとうここまで来たのね」
「え?」
類が聞き返しても、透はそれ以上何も言わなかった。そうしている間に、白い少年は廊下の角を曲がって視界から消えてしまった。少年は美しかったけれど、それ故に何とも近寄りがたい気配が醸し出されていて、引き止めたり何者なんだと声をかける者は誰もいなかった。
「失礼、ちょっと道を聞きたいんだけどいいかい?」
数分後、白い少年はさすがに迷ったのか、廊下ですれ違った女子生徒に声をかけた。絵の具を抱えたおさげの少女は、いきなり真っ白な男に話しかけられてほんの少しだけ目を丸くしたが、落ち着いて取り合った。
「あら、他校からいらしたのね。どこにご用で?」
「保健室に。友人と待ち合わせをしててね」
「保健室なら四階よ。そこの階段を昇ったらすぐ」
「四階! 道理で見つからないわけだ。一階にあるものだとばかり思ってたから」
「珍しいでしょ。遠いから文句を言う人ばっかりだけど」
「いや、僕はそういう変わったところ好きだな。ありがとう、助かったよ」
白い少年は礼を言うと、早く行かなければと素早く階段を昇って行った。
「……今のが、高崎くんに白熊を描かせた人かしら」
おさげの少女、みゆきは良いものを見たと言うように、ひっそりと口角を上げた。
「やっと着いた……」
白い少年はすぐに四階まで上がり、保健室の前に立った。ここにあいつがいる。引き戸を開ければすぐに会える。こみ上げる興奮を抑えながらノックをしなければと、手の甲を触れさせようとした瞬間、引き戸についた小窓からぼさぼさの真っ黒頭が見えた。瞬間、彼の思考の中からノックをするということがどこかへ吹き飛んで、そのまま勢いよく扉を開けた。
「高崎!!」
保健室の中にいた数人の視線が、一斉に入り口へと向いた。貴美や樹と談笑を続けていた肝心の桐人はというと、ついに来てしまったかという顔をしている。
「白鳥……お前もう少し静かに入ってこいよ」
「悪い! 君の姿を見たら耐えられなかった」
「ケーくんだ〜。久しぶり!」
「久しぶりだね貴美ちゃん、元気にしてた?」
「してたしてた!」
飼い主が帰ってきた時の仔犬のように、貴美は少年に人懐っこい笑顔を見せる。一方で突然乱入してきた謎の人物に、樹は困惑する。
「お前、どうやって学校入ったんだよ」
「ん? 守衛さんに君の友達ですって言って学生証見せたらする〜っと」
「今度から入れるなって言っておくか……」
「つれないなあ。この僕がはるばる来たっていうのに」
「急過ぎるんだよ。約束通り写真送っただけだぞ」
「そう! その話をしに来たんだよ!!」
「声がでかい! ちょっとこっち来い」
桐人は席を立つと、少年の手を引いて申し訳なさそうに出て行った。さすがに保健室で騒ぎ立てるわけにはいかない。
「キリさんがあんなに困ってるの初めて見たかも」
「ねー、面白いでしょ」
「貴美ちゃん、あの人って」
「さっき言ってたキリちゃんの友達だよ。白鳥ケイくん」
なるほど、と樹は感嘆した。確かに桐人を翻弄している辺り、この学校にはいないタイプだ。仲がいいかどうかは、よくわからないけれど。
「中学の頃はずっと二人で定期テスト学年ワンツー取ってたんだよ。ケーくんがいつも二番で悔しがってたけど」
「よくそれで付き合えてるね……そういうのって、二番が一番を妬むってよく聞くけど」
「そこがケーくんの変なとこなんだよね。あの子初めてキリちゃんに負けるまで自分より上の人間は自分のお姉さんだけ! って思ってたみたいなんだけど、いざ負けてみるとなんか感動しちゃったらしくて」
「……やっぱり変わった人には変わった人が必要なんだねぇ」
「……で、あの絵がどうしたんだ」
保健室から少し離れた廊下で、桐人はようやく話を切り出した。するとケイはにやにやとからかうような笑みを向ける。真っ白な髪は夕陽を受けてオレンジに輝いていた。
「なんで白熊にしたんだい? 僕は熊とだけしか言ってないのに」
「別に熊から白熊連想したっていいだろ」
「いーや普通しないね! 大体はヒグマとかツキノワグマだよ僕が言ったから白い熊にしたんだろ君は! 全く僕のことが大好きだよなあ!?」
「声うるっさいな!! 偶然だ偶然!」
どうしてこいつはこう急に興奮するんだ! 四階には保健室以外なくて本当によかったなと桐人は思った。ただでさえ、ケイは目立つ容姿をしているのに。
「往生際が悪いな〜。まあいいよ、そういうことにしておいてあげよう」
「お前それ言うためだけに来たのかよ」
「いや生で見たくて」
「今から美術室行くのは嫌だぞ。苦手な人がいる」
まだ作業を続けると言って美術室に残ったみゆきのことを思い出す。彼女はどうも、怖い。すると直接的には話さなくても、ケイは桐人の苦手なものには心当たりがあるらしく意外にも素直に引き下がった。
「……じゃあ採点終わって返却されたらあの絵、僕にくれよ」
「なんでだよ恥ずかしい」
「いいじゃないか、僕が題材提供したんだし。それに僕の方がよっぽど大事に出来るよ」
「それは一理ある。ああいう絵って返されても置き場に困るんだよな」
「じゃあ決まりだ!」
別にまだ承諾していないのに、ケイは勝手にそう言って目を輝かせた。桐人には自分の絵がどうしてケイにそこまでさせるのかよくわからなかった。
「……お前って俺のファンか何かなのか」
「そうだよ? 知らなかったのかい」
桐人は落書きがオークションで高値で落札される芸能人のような気分になって冗談混じりに言ったのだが、ケイは平然とそれを肯定した。まるで自分が桐人のことを崇拝するのは当たり前だと言うように。
「僕に勝ったのは今までで君ひとりだけさ。向こうの学校では僕、ちゃんと一番になれてるんだぞ。ファンにぐらいさせてくれよ」
「ミーハーが過ぎる。俺がもし一番じゃなくなったらファンやめるんだろ」
「卑屈だなあ、その時は一番じゃない君を好きになれるように努力するよ」
「どうだか」
へらへらと笑うケイの瞳がわずかに揺らいだのを、桐人は見逃さなかった。
「ねえキリちゃんケーくん、せっかくみんないるんだし一緒にご飯食べに行こうよ」
それからしばらくして、保健室から出てきた貴美と樹が意気揚々と日も暮れたしどこかで夕食にしよう、と誘ってきた。貴美は中学以来の友人に久しぶりに会えてはしゃいでいるらしい。
「いいね、ついでにこの辺案内してくれよ貴美ちゃん」
「いいよー!」
「樹くんは大丈夫なのか、身体」
「うん、今日は調子いいし、親も行ってきなさいって」
友達と放課後外で遊ぶなんて、初めてかもしれない。樹がそう顔を綻ばせるものだから、桐人は思わず彼の頭をくしゃくしゃと撫でた。本当に俺の弟になってくれ! と叫びたい気分だった。
「あいついつの間に弟まで出来たんだ」
「樹くんはいい子だよー、ケーくんも仲良くしてあげてね」
「うん。高崎が君と一緒にいるのを許してるってことはそうなんだろうね。……それより貴美ちゃん、君も隅に置けないなぁ」
「えへへぇ」
それから学校を出て、食事をする店を選んでいる時に道端のクレープ屋で何やら喧嘩しながらクレープを食べていた透と類にも遭遇し、彼らも食事に誘おうとする貴美を桐人は必死で止めた。その時の類の眼差しはやたらと熱かった。そうして四人で騒がしく(主にケイが)食事をして、今日は一ヶ月ぐらいのイベントを詰め込んだような一日だったと、桐人は珍しく熟睡したのだった。