「いらっしゃ……あ、ライネくん!おはよう〜」
からから、とベルの音が鳴る。ライネがイヴの体調について相談をした数日後、店を訪れた彼をタミはいつも通り歓迎してくれた。
「おはよ。今日も買い物に来ました〜」
「まいど。その後はどうやった?」
いつも通りに接してくれるとはいえ、タミもライネたちのことが気になっていたらしい。けれど変に気を遣ったりせず単刀直入に聞いてくれるあたりありがたいなとライネは思った。
「何とか上手くいった、かな。まだ断片的にしか思い出せないみたいだから完全とは言えないけど、イヴもあれから倒れる気配ないし、ひとまずは解決」
「おお〜よかったやん! よおがんばったなあ」
タミは自分のことのように笑って、ライネの髪をくしゃくしゃと撫でた。
「へへ、ありがとう」
「どう、景気付けにちょっと値の張るもんでも」
感傷に浸っていたのもつかの間、タミはライネの成功にかこつけていたずらっぽく目配せをした。全く商売人だな、とライネは苦笑いをする。
「結局そうなるのかよ〜。今日は報告を兼ねてケーブル買いに来ただけなので大きい買い物はしません」
「そんなあ」
「タミくんもさ、ちょっとでも具合悪くなったら言ってくれよ。イヴの奴、前触れあったみたいなのに黙ってて倒れちゃったから」
レジで品物を包んでもらっている間、ライネはぽつりと言った。あの後イヴから話を聞くと、眠りにつく前に見たノイズがその前にも現れていたことを告白された。タミも店のためなら無理をするタイプなので釘を刺す。
「うん、ぼくもう二度と倒れたないし、遠慮なく言う」
「そうだ、経験者だった」
「もう嫌やわぁ、思い出すんも恥ずかしいのに……あ、ところでライネくん」
「ん、何?」
タミはレジの置かれたテーブルの引き出しを開けると、中から丁寧にラッピングされた小さな箱を取り出した。
「じゃん、がんばったライネくんにぼくからご褒美とお祝い」
「え、え、何くれるの」
「帰ってからのお楽しみやで。返品は受け付けへんから大事にしてや」
「う、うん。ありがとう……?」
その箱を品物を入れた紙袋に一緒に入れると、タミはライネが遠慮する暇もなく袋を押し付けるように渡した。一体、何が入っているのだろう。そう考えていると、それを邪魔するかのようにライネのポケットに入っていた携帯電話が震えた。
「わ、だ、誰だ。タミくんちょっとごめん」
一言断って、電話の画面を見る。そこには出会ってから何度か家を訪れている、彼女の名前が映し出されていた。
「もしもしセッちゃん? どうしたの」
『こんにちはライネくん、急にごめんなさい。あの、本当に急なんだけど、今からそっちに行ってもいい……? 午後の予定が突然なくなって、遊びに行ってもいいって言われたの』
「ほんと? いいよ、今日は家にみんないるし、空いてるから。そうだ、オレ今エスラじゃなくてリンドにいるから、駅で待ってるよ」
『こっちに来てるの? 何か用事があるんじゃ……』
「いいのいいの、用は済んだとこだったから」
『そう? じゃあ出来るだけ早く行くから、待ってて。ユウくんも、レイくんに早く会いたいみたいなの。こないだからずっとわかった、って言ってて』
「わかった? 何が?」
『私にもよくわからないの。とにかく会いたいんだって』
「そう、イヴにも最近いろいろあってさ。会ってもらえるとありがたいよ」
『うん。それじゃあもう出るわね』
「ゆっくりでいいよ。オレも駅からそんなに近くないし。じゃあまた」
ぷつりと電話を切る。するとライネはすぐさまタミの方を睨んだ。
「……タミくん、気が散る」
電話中ずっと、タミがにやにやと何か企んだような笑みを浮かべていたからだ。何もやましいことはないのに、つい赤面してしまう。
「紳士やな〜ライネくん。ここから駅なんか遠ないやん。彼女さん?」
「そ、そんなんじゃないよ。機械友達」
「へぇ〜リンドに住んでるんやったらこの店紹介したってよ」
「いいけど……タミくん探知機とか引っかからない? あの子の連れてるアンドロイドすげー精巧なレーダー持ってるから人間じゃないことバレるかも」
すぐにユウのことが思い浮かぶ。ほとんど原型をとどめていなかったはずのイヴの信号でさえ見つけてしまう彼はタミにとっては危険だ。友人とはいえ、タミの秘密を知っている人間は少ないに限る。
「ぼく電波の類は送受信全部遮断してるから大丈夫やと思うけど……何、そんなん使わなあかんぐらいえらいとこのお嬢さんなん?」
「まあ、うん……多分タミくんも知ってるくらいの有名どころの子」
「へええ〜ライネくんって友達おらんおらん言うてるのになんか人脈めちゃくちゃやね」
「いろいろ、縁があってさ……」
自分でもよくわからない。イヴを追いかけて来たアンドロイドが名家の使用人でその主人である令嬢と友達になったり、人間の友達が出来たと思っていたらアンドロイドだったり。ライネは知り合った人たちはみんな好きだったし不満に思ったことはないけれども、もう少し普通の出会いはないものかと、ため息を吐いた。
「随分、機嫌がいいじゃないか」
不意にユウが口にした言葉に、イヴは首を傾げた。
ライネが突然隣街からセレンとユウを引き連れてやって来て、セレンの方はライネと一緒に二階で機械について語らいに行ったものだから、イヴはユウと一緒にリビングのソファでテレビを眺めていた。わざわざ友人とすることなのだろうかとイヴは思うが、なんでもユウの方は普段屋敷にいる時には観ることが全くないので面白いらしい。ちょろちょろと動き回る画面を見てユウがこぼす感想を、イヴがときどき拾うのが彼ら二人が揃った時の習慣だった。すると突然、ユウがテレビに向けてではなく隣のイヴに話したものだから、少し反応が遅れた。
「そうか?」
「お前は普段仏頂面なぶんわかりやすいんだ。何があった?」
そんなに顔に出していただろうか。確かに機嫌が良くなるようないいことはあった。
「悩みがひとつ、解決したんだ」
「は!? お前、解決したら言ってくれって言ったじゃないか!」
イヴが告白した途端、ユウが血相を変えて叫ぶ。ああ、そういえばそうだった。イヴは内心でため息を吐く。ここ数日で自分たち家族を揺るがす出来事が多過ぎて、すっかりユウの言い付けを忘れていた。
「忙しかったんだいろいろと」
「どういう風に」
「……倒れたりした」
「だ、から言ったんだ誰でもいいから相談しろって」
目を泳がせながら答えたイヴに、ユウは頭を抱え眉間に皺を作った。自分の助言を一つも汲んでくれなかったことに凹みを隠せない。
「すまん、どうしても出来なかった。それに多分、俺が倒れていなかったら悩みが解決してなかったから、結果オーライというやつだ」
「そんな理由で解決する悩みの内容が割と純粋に好奇心で気になるんだが……」
「それだけは言えん」
「そうだな、私はアンドロイドだもんな」
ぱっ、とイヴが呆気にとられた顔でユウを見た。彼はにやにやとしてやったり、みたいな笑みを浮かべている。
「……よくわかったな」
イヴもそれを肯定した。ユウの笑顔が癪に障るようだが、やっとわかってくれたか、と言いたげだ。
「私がいくら黙っていたとしても、記憶が他の人に見られたら意味がないからな。特に私は屋敷の人に毎日記憶を確認されるから……その悩みというのは他人に知られるのが本気で嫌なんだろう? 聞いていたらまずかったな」
悪かった、本当に追い詰めるような真似をして。そう言って頭を下げる。すると不意に、くすりと笑う声が聞こえて、ユウは思わず顔を上げた。イヴが、レイが、笑っている。
「その通りだ。俺はお前のことは信じていた。誰にも言わないことはわかっていた。でも、駄目なんだどうしても。お前がアンドロイドでなければ、きっと、いや絶対に話していた」
そう、イヴはわかっていた。ユウが自分のことを本気で心配してくれていることも、秘密を守ってくれることも。信じていた。でも、ライネたちを守るためには、記憶が他人に見られる可能性のあるユウに打ち明けることなんて出来なくて。こんなことなら、早く理由を言っておけばよかったな、とイヴも詫びた。
「……お前、本当に機嫌がいいな。私はもう、それだけ聞ければ十分だよ」
かつてないほど好感度の高い言葉を投げられて、ユウは今までとの温度差に泣きそうになった。幸いユウはイヴのように涙など流せない仕組みになっていたので、実際には泣けなかったけれど。その代わりにイヴの肩を抱いてよかったな、本当に。と祝福してやるとユウの良く出来た耳でも聞こえるか聞こえないかぐらいの小さな声で、ありがとう、と返ってきた。
夕方。セレンとユウが隣街へ帰って行くのをいつも通り見送った後、イヴは地下室へ降りた。そこでは相変わらず、ミドが何か薬品を弄くっていた。
「調子はどうだ」
「悪くはないですよ。大分昔のことまで思い出せましたし、頭痛も減ってきました」
ライネの決死の訴えが届き、ミドは少しずつ抜け落ちた過去を取り戻しつつある。責任を感じなくていいと言われたおかげか、心なしか思い出す前よりも吹っ切れたような顔をしていた。欠けた記憶はイヴだけでなく、ミド本人にも悪い影響をもたらしていたらしい。
「イヴくんの方もどうですか」
「今のところはこれといった不具合はないな。バグも起きてない」
「よかった」
イヴの方も、もやもやとミドに対して葛藤する必要がなくなったのでこれまでのストレスが大分軽くなった。まだまだ課題は残っているけれど、この調子ならもう倒れることもないだろう。
「ところで、今は何をしてる?」
イヴがそう尋ねると、ミドはぎくりと顔を顰めた。後ろめたい思いでもあるようだ。
「ライネくんにあげる薬を……」
「反・省・してないようだなぁ……?」
拳をミドのこめかみにぐりぐりと押し当てる。記憶を取り戻したらライネのために今まで以上に研究熱心になるだろうとイヴは予想していたが、何もそんなに急がなくていいだろうと叱りたくなる。それより先に、することがあるだろうと。
「いてて、だ、だってライネくんはああ言いましたけど研究をやめるつもりはありませんし、僕が死んだらライネくんはずっとあのままだし……時間が惜しいんですよ」
「そんなものライネを生き返らせるのに使った薬をもう一度作ればいいだろ。もし研究途中でお前が死んだら使ってやる」
「イヴくん」
「何だ」
「天才ですか」
「お前がそれを言うか」
随分めちゃくちゃな考えだと自分でも思っていただけに、イヴは拍子抜けする。記憶があろうがなかろうが、ミドには調子を狂わされてばかりだ。
「お前が時間と戦ったらろくなものを作らないからやめろ。それよりライネが二階で暇そうにしてるから話してこい。せっかく思い出したんだから幼馴染水入らずで楽しんできたらどうだ」
何よりも先にミドがすべきこと。ずっと、イヴがミドに対して憤りを感じていたこと。ライネのために、ライネのことを蔑ろにしてしまっていたことを、一番最初に埋めてほしかった。
「聞けば俺を拾う前からあいつは寂しい思いをしてたそうじゃないか。六年、最低六年はあいつと向き合え。会話をしろ」
今度は逃げるな。イヴの目はそう言っていた。ミド自身もわかっていた。まだ心の準備が出来なくて、こうして薬を作ることで誤魔化していたことも。
「そう、ですね。いい加減、けじめをつけないと。いってきます」
机の上を片付けて立ち上がる。行かないと、ライネのところに。
「……あ、その前に」
しかし地下室を出るより先に、イヴに向き合うと彼の右の頬に触れた。いつも身につけていた眼帯が今はなく、そこに収まっていたはずの青い右目が、左目と同じ赤色になっていた。三年前、ミドに壊されてしまう前の赤色に。
「目、直したんですね」
「ああ。ライネが元に戻るまで直す気はなかったんだが、タミさんにもらったらしい。もったいないからつけろと言われたら断れない」
青い右目はイヴなりのけじめのつもりだったのに、ライネの友人がわざわざ替えをくれたとあれば仕方ない。もっとも、もうけじめなんて必要ないよ、とライネに言われたのが一番の理由だけれども。
「ごめんなさい、痛かったでしょう」
あの時はまともな精神でなかったとはいえ、本当に酷いことをした。それ以前にもミドはイヴにあたりが強かったことを後悔していたし、ずっと謝りたかった。
「そうだな、俺の一生のトラウマだ。どう責任を取ってくれる?」
しかしイヴはそれを強く咎めることはせず、冗談めかして返した。いろいろと言いたいことはあったが、この三年間でもう怒る気もなくしてしまった。
「……僕の残りの人生をライネくんに捧げます?」
「そこは俺じゃないのか」
「君はこっちの方が喜ぶでしょう?」
「確かにそうだ」
人の悪い笑みを浮かべるミドに、イヴもくっくと笑った。
「ライネくん」
「おーミド。どうした?」
「あ、いや、ただ話したくなって……」
イヴに促されるままに、ミドは二階の寝室へ向かった。目的の彼、ライネはごろごろとベッドに転がりながら小さな箱を眺めているところだった。
「ちょうどいいや、オレも退屈だったんだ」
「何を見てたの?」
「これ? イヴにあげようと思ってた目。ずっと前に買ってたんだけど言い出せなくて。タミくんがもっといいのくれたから結局予備になっちまったな」
小さなプラスチックのケースには、硝子で出来た赤い眼球が二つ収められていた。ライネの友人が気を回してくれるよりも先に、彼はイヴの傷を治そうとしていたらしい。
「……なんだよ」
ライネが物思いに耽るように話していると、ミドがなんだか珍しいものを見るような目付きをしていた。つい睨み付ける。
「いや、君に友達が出来たんだなあって……」
「来て早々失礼だな。オレだってがんばれば出来るんだよ。まあタミくんがよく喋るからそこに助けられてるけど……タミくんだけじゃないし、セッちゃんもいるし」
「ごめんごめん、三年の間に、ずいぶん変わったなと思って」
部屋の隅で人間に怯えていた子供が、よく成長したものだ。ミドはいつしか、ライネの親のような気持ちになっていた。
「そうかな」
「そうだよ。僕なんか出遅れちゃってる」
「これから取り戻せばいいよ。時間はまだいっぱいある」
「だといいけど……あー、君にですます言ってたんだなあ僕、恥ずかしい……」
いざ記憶が戻ってみて、忘れていた頃のことを思い出すと顔が熱くなる。もともとため口で話していた相手に敬語を使っていたなんて。いかにも初対面、みたいな挨拶を交わしていたなんて。それを三年も続けていたなんて。
「それ! 最初に言われた時オレほんとにショックだったんだからな!」
「本当にごめんね……! 僕、君に謝っても謝りきれないよ」
忘れてしまったこと、手違いとはいえこんな身体にしてしまったこと。今まで辛い思いをさせてしまったこと。言いたいことが多すぎて、何から言えばいいかわからなかった。
「もう、そういうのはいいって。お前あんまり責任感じるとまた忘れるぞー」
「でも……」
「いいんだよ、考えたって仕方ないことなんだから。それより、オレはお前が忘れてた時間と、お前がオレに使った時間を取り戻したいよ」
「別にそんなの、いいのに。僕が勝手にやってたんだから」
「いやオレが嫌だからさ……具体的に何をするかは決めてないけど」
何しようか、とライネは顎に手を当てて考え込む仕草をした。やりたいことはたくさんある。
「……じゃあ僕、みんなでどこかに行きたい」
少し言い淀んだ後、ミドがぽつりと呟いた。何かしてほしいとか、そういうことは思いつかなかった。ただ、昔みたいにライネたちとどこかへ遊びに行きたい、そう思った。この数年は、まるで縛り付けられたみたいにずっと机に向かっていた気がするから。
「いいな、行きたい場所とかあるか?」
「どこでもいいよ。海でも、観光地でも、博物館でも……みんなと一緒なら、どこでもいい」
「よし、じゃあ行くか!」
ライネはにかっと笑うと、勢い良くベッドから立ち上がった。そしてミドの手をむんずと掴む。
「え」
「まずは海から」
「ま、待って、今から行くの?」
「だってオレもお前も時間が合う日ってなかなかないじゃん。そうしてるうちに行くの忘れそうだから」
善は急げって言うだろ? 心底嬉しそうにそう言うライネに、ミドは思わず笑みをこぼした。そういえば施設にいた頃も、火事の原因を知る前の彼に時々こうやって外へ連れ出されていたような気がする。懐かしい。だからその懐かしさに、今ぐらいは引きずられてみることにした。
「そうだね、行こうか」
ぐいぐいと引かれるままに、ミドもベッドから立ち上がった。
「夕飯までには帰って来いよ」
どかどかと階段を降りて、ライネが出かける旨を伝えると、夕食を作ろうとエプロンを着る途中だったイヴは少し呆れながらもそう言った。その言葉に、ライネとミドは顔を見合わせる。
「イヴくんも一緒に行こうよ」
あっけらかんとミドが言った。今度はイヴが目を丸くする。まさかライネじゃなくミドに誘われるとは思っていなかった。それに、いつものかしこまった敬語はどうしたのか。
「そうそう、ご飯ならいつでも作れるからたまには休もうぜ」
ライネはイヴの肩に引っかかったままにされていたエプロンをさくさくと脱がせると、彼の手を握った。
「な?」
「……お前たちは本当に、俺を駄目にするよな……」
イヴは片手で頭を抱えながらも、外に出ることに同意を示したらしい。ライネとミドはまた顔を合わせてにこにこと笑う。
「やったね。あ、でも潮風ってイヴくんにどうなの?」
「その辺は大丈夫。髪は傷むかもしれないけどなー」
イヴの手をぐいぐい引きながら、彼自身をよそに二人はイヴの身を案じる話をする。いつの間にかもう片方の手もミドに掴まれていて、イヴは心底暖かい気持ちになった。
「……泣くかもしれん」
「おー泣け泣け。ストレス発散出来るぞ」
「イヴくんも泣いたりするんだなあ」
「あ、そっかミド知らないっけ。昔はほんとに泣き虫だったんだから」
「誰のせいだと思ってるんだ」
「悪い悪い」
くすくすと笑いながら靴を履いて、家を出た。三人一緒に出かけるなんて、もしかしたら初めてかもしれない。六年もそばにいたのに、ずっとばらばらだった。どうしてもっと早くこう出来なかったのだろう、みんなそう思った。だけどもう過ぎたことだ。これからは、ずっと一緒にいられる。今はそれだけを実感していたい。三年前までは今日を生きるだけで精一杯だったのだから、今までのことも先のことも、考えるのは、まだ先でいい。