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1

 

「……さむい……」
よく晴れた空の広がる休日の朝、青年高崎桐人(きりひと)は自分の部屋のベッドから動けずにいた。起きてすぐ、身体に違和感を感じた頃には遅かった。どこでうつされたのだろう、彼は最近流行りの風邪に侵されたらしい。気怠い身体を動かして、なんとか救急箱から取り出した体温計は38度を示していた。一人暮らしだというのに、うんざりする。
(飯……作れる状態ではないな)
こういう時でも食欲だけは落ちない桐人だったが、さすがに台所まで行って料理をする気にはなれなかった。誰か人を呼ぶべきだろうかと思ったが、いつも頼りにしている幼馴染で妹分の貴美は久しぶりに被った休日を使って恋人と出かけている。邪魔をしたくはない。
「とりあえず寝るか……」
こういう時は忘れて眠るに限ると、少しの隙間も許さないよう布団にへばりついて目を閉じた。


「…………」
桐人が次に目を覚ました頃には、外がかなり明るくなっていた。そばに置いた携帯電話の画面をつけると、十一時を回っていた。が、それ以上に、携帯電話のロック画面に映った大量の通知を見て、桐人は倦怠感が増すのを感じた。通知の正体は、友人白鳥ケイからのメッセージだった。内容はこうだ。

『今日空いてるか?』
『高崎?』
『おい』
『寝てるのか』
『起こしに行ってやろうか』
『高崎ー』

返事のない桐人をからかうような内容。しかしケイの場合からかいでは済まないから桐人は肩を落とした。桐人とケイは、何かと一緒に遊んだり課題をこなしたりするのでお互いの部屋の合鍵を所持している。今からケイが押しかけて来てもおかしくはないのだ。
「……今からじゃなくて、来てるなもう……」
耳を澄ますと、台所の方から物音がした。お互い部屋に勝手に入るのは慣れているものの、さすがに弱っている時は恐怖を感じる。とにかく声をかけに行かなくてはと、身体を引きずるようにして寝室から出た。リビングと直結した台所に、白髪の青年が立っている。
「……白鳥」
「おお高崎! 弱ってるなー」
「来てるなら言え……」
「いや、君があまりに辛そうに寝てるもんだからな、起こすわけにはいかないだろう」
昼食作ってやるから許せ、と笑顔で返されると、何も言えなくなった。大人しくテーブルについて、霞がかった頭を持て余しながらケイを待つ。なんとなく点けたテレビでは、バラエティ色の強いワイドショーが流れていた。
「ほら、出来たぞ」
数分後、テーブルの上に置かれた皿には、柔らかそうなオムライスが乗っていた。それと丁寧にケチャップで目の吊り上がった可愛げのない熊の絵が描かれている。
「……こういう時はお粥とかじゃないのか」
「食べられない訳じゃないだろう? どうせ朝も食べてないだろうし、今のうちに腹に入れておけ」
「まあ、そうだな。ありがとう」
素直に礼を言って、渡されたスプーンでオムライスを掬う。
「……じろじろ見るなよ」
「いやあオムライスはな、あんまり作ったことがなくて」
これは、美味いと言ってほしい視線だ。せっかく作ってくれたのだし、ケイの料理は元々美味しいのだから桐人は間違いなく美味いと言うのだが、そういう期待をされると素直に言うのをためらうのが桐人の性格だった。というより、ケイの視線がそうさせるのかとしれない。実際桐人は溺愛する妹分に対してはとても素直だった。どういった感想を言うかは後回しにして、とりあえずオムライスを口に運ぶ。ケイの瞳がきらきら輝く。
「……美味い?」
「なんで語尾が上がる?」
「鼻が詰まってて味がわからん」
「さいですか……」
「でも美味いのはわかる。食が進むからな」
「そうだろうそうだろう! なんせこの僕が腕によりをかけて作ったからな!! 美味しくて当然なんだ!」
「はいようござんした」
いつもより声が大きい。ケイがすぐ調子に乗ることもあって、桐人は美味いと言うのをためらうのだった。ケイは何に関しても自信家で、中学時代は定期考査で成績争いをしたものだった。勝つのはいつも桐人だったが。あの頃負けていたら一体どれだけ面倒なことになっていたのだろうか、と思い返してはつくづく負けなくてよかったなと思う。
「なんかお前、楽しんでないか」
「まあ、高崎が弱っているところを見るのは楽しいよな」
「お前マゾヒストじゃなかったのか」
「むしろ何でそう思ってた!? 僕はマゾでもサドでもない! ただ、完璧超人の高崎桐人に対して優位に立っているということにちょっと優越感を感じてるだけだ」
「それをサディストというのでは」
ケイは今まで何においても勝てなかった相手の世話をしているという事実に気持ちが弾んでいるらしい。何かとテンションが高い。相手にするのも今は面倒だなと、桐人は視線をテレビに向ける。グルメロケをやっていたワイドショーは都市伝説や古い伝承を調査するコーナーに移っており、吸血鬼伝説がどうこうと言っていた。
「病人の血を吸ったら、吸血鬼にもうつるのかな」
ケイもテレビを見ていたらしく、ぽつりと呟いた。
「人間と同じ構造をしてたら、そうなるんじゃないか」
「じゃあ今の高崎は吸血鬼に襲われる心配はないな。風邪がうつるから」
「その前に実在するのか」
「いるかもしれないからそういう伝承になったりするんじゃないか? なあ、もし僕が君の血を狙う吸血鬼で、見舞いを口実に弱って格好の獲物の君を襲いに来たとしたらどうする?」
「意地でもお前に風邪をうつす」
即答した桐人に、ケイはぱちくりと瞬きをした。それからこみ上がる感情を堪えられない、と言うようににやりと口角を上げた。
「おや、血はくれるのかい」
「殺さない程度になら」
「うっかり殺してしまうかも」
「その前に引き剥がしてやる。貴美が結婚するまで俺は死ねないんだ」
生死のかかった話で妹分の名前が出てくるあたり、つくづく物好きな奴だなとケイは思った。そんなに大切なのに、自分以外の人間と幸せになってほしいだなんて。
「そんなにフラフラなのに? 出来るかどうか試してあげようか」
だから少し、意地悪をしてみたくなった。くく、と何か楽しい悪戯を思いついた少年のようにケイが笑う。そして彼は席を立つと、桐人のそばまで歩み寄り、両手で肩を掴んだ。薄い唇が開き、白い歯が覗く。
「お、おい、っ、」
ずきん、と桐人の首筋が痛みを訴える。ケイが噛み付いたのだ。それこそまさに吸血鬼のごとく。
「い、痛い、白鳥、血を吸うどうこうより普通に痛い」
病人に何をするんだ、そう思いながら桐人はケイの背中を叩いた。ただの悪ふざけとわかっていても、痛いものは痛い。それでもケイは離れない。本当に吸血されているかのように錯覚する。密着しているのと熱が合わさって、酷く暑い。
「しーらーとーりー、勘弁してくれ。熱が上がる……」
息も絶え絶えに訴えてやっと、ケイは桐人に歯を立てるのをやめた。直後に満面の笑みで見上げてくる。髪も肌も色素の薄い彼は本当に伝承の吸血鬼のような雰囲気で、そうだったとしても不思議じゃないかもしれないなと、桐人はぼんやり思った。
「ふふ、今君、死んだぞ」
「そうだな」
「やっぱり出来なかったじゃないか。君は僕のことが好きなんだなあ、血に飢えた可哀想な僕を引き剥がすことなんて出来ないんだ」
「はいはい、そういうことにしておいてくれ。さっきからお前酔ってるのか?」
ケイは確かに普段から酔っ払いのごとく勢いのある人間だが、いきなり噛み付くなどという奇天烈なことはしない。さすがに酒の力か何かを疑う。
「酔ってるわけないさこんな真昼間から! いたって素面だし、今日は調子がいいくらいだ」
「……いや待て、ちょっと額貸せ」
噛み付かれてからずっと密着しているケイの身体がやたらと熱い。首元に触れている指先だけはひんやりと冷たいものの、それは桐人も同じだった。ある可能性に気付いて、桐人はケイの額と自分の額に手を交互に当てると、はあとため息を吐いた。
「白鳥お前、酷い熱だ……気付いてなかったのか」
自分と同じか、それ以上の熱さを感じて、よくそんな状態で料理なんか出来たなと半ば感心しながら桐人は結論を出した。ケイも桐人と動揺、流行りの風邪にやられていたらしい。
「言われてみればちょっと怠いかもしれない。でもハイ過ぎてわからなかった」
「お前頭は良いのに馬鹿だよな」
「はは、高崎の血を吸ったからうつったんだ」
けたけたと笑いながら、ケイは桐人の首筋に出来た歯型を指差した。若干鬱血はしているものの、吸血鬼に噛まれたような二つの傷口はない。
「この傷のどこから血が出てるんだ。それにそんなに早くうつらない。来た時から振り切ってたんだろお前」
今思えばやたらと声が大きかったり、優越感がどうたらと本音をぶちまけていたのも熱で盛り上がっていたのだと思うと合点がいく。といってもそれは多少の差で、噛み付く以外は普段のケイとそう変わらないのだけれど。
「それはそうだなあ……どうしようか、自覚したら疲れてきた。ミイラ取りがミイラになった」
「ミイラがミイラ取りに来たの間違いだろ」
「正直帰る体力もないからここで寝ててもいいかい」
「お前本当何しに来たんだよ」



 

 


2

「随分、珍しいものを使ってるな」
桐人は久しぶりに上がり込んだケイの部屋で、彼の手の中に収まる万年筆を指差した。一定の間隔でペン先がインク瓶に沈められては、小綺麗な便箋の上を滑る。
「姉さんの遺品の中にあったんだ。今更だけど誰も使わないしそんなに高価なものでもないらしいから僕にって」
「通りで。お前が理由もなくわざわざ効率の悪いものを使うはずないもんな」
普段のケイは時間短縮だとか、道具は利便性に長けたものが一番だとか言って、インクの補充が必要な万年筆とは縁遠い存在だ。しかし彼が心底愛していた姉の遺品とあっては話が別である。大事に手元に置いて、使ってやらねばと思うのだろう。
「何書いてるんだ?」
「姉さんに手紙さ。万年筆の礼をしなくちゃいけないだろう。……届かないがな」
「俺が代わりに読んでやろうか」
「勘弁してくれよ、いくら高崎でも僕と姉さんの秘密を暴くのはNGだ」
「その割りに俺の目の前で書いてていいのか」
「君がいきなり上がり込んで来たんじゃないか」
「合鍵渡したのはお前だろ」
「だからって連絡ぐらいしろよ」
「連絡したら取り繕うだろ、お前。……最近、ろくに食ってないだろ。元気だけが取り柄のくせに、勢いがないぞ」
俯くケイの目の下には濃い隈が出来ていて、姉が死んだ時に白く変色した髪とあいまって酷くやつれて見える。普段は何かと学校での成績争いだとか、サボり癖のある桐人に突っかかってくる彼だけに、放っておけなかった。
「……食欲なんて湧かないよ。十年も経って、姉さんの遺品渡されるとは思わなかった」
そう、十年。ケイの姉が死んだのは、十年も前の話なのだ。桐人とケイが出会う前にもう、彼女は亡くなっていた。それほど時が経っているのに、気持ちの整理もついたのに、今更掘り起こされてケイは苦しんでいる。
「いつまでもくよくよしてる訳にはいかないってこと、わかってる。でも……」
「……忘れろとは言わないけどな、今は考えるな。夕飯のことだけ気にしてろ」
自分の鞄の中から財布を取り出して、中身を確認しながら桐人は言った。彼はケイの姉がどんな人だったか知らないし、ケイ自身も教えるつもりはないようだからこういう時どうやって慰めてやればいいかもわからなかった。だから自分の出来る範囲で気を逸らしてやろうと考える。
「励まし方下手くそ過ぎだろ君……」
「いいから、何食いたい」
「……何でもいい」
「食欲のない奴の典型だな。お前はそんなに独創性に欠ける人間だったか……」
「罵りに来たのか君は!! カレー! カレーが食べたいな僕!!」
「わかった。材料調達してくるからそこで大人しく手紙書いてろよ」
「もう、何なんだよ……」
疲れ切ったようなケイを尻目に、桐人は部屋を出た。白鳥は何もかも白い格好をしているのにカレーなんて食べて大丈夫か、余ったらうどんにしてやろうか、などと今はどうでもいいことを考えながら。


「……真っ黒じゃないか」
桐人が買い物を終えて部屋に戻ると、彼がカレーを作るまでもなく、ケイの白いシャツには黒い染みが出来ていた。手紙を書いていた机には真っ黒い水たまりが出来ている。
「インク瓶倒した……」
一生懸命書いたのであろう手紙も、インクの海に沈んでしまったのだろう。机同様真っ黒の紙を持ったまま、ケイはこれ以上ないくらい肩を落としている。
「慣れないものを使うからこうなる」
「もう泣きそうだよ高崎。僕の泣き顔なんてレアだぞ」
「見せんでいい。ほら呆然としてないで片付けないと書き直しも出来ないぞ」
台拭きとティッシュを持って来て、机に広がったインクを拭き取る。みるみるうちに台拭きが黒く染まっていく。
「あーあ、爪の中まで黒くなった」
「無駄に伸ばしてるからだ」
「伸ばしてない普通だ。君が深爪なんだ」
ティッシュで手を拭いながらぶつぶつと愚痴を言うケイを軽く流していると、すぐに机の上は綺麗になった。手紙だけはどうしようもなかったけれど。
「書き直しかあ。万年筆で字を書くの難しいんだよ……」
「書く内容は覚えてるんだろ? 飯食ってからやればいい」
てきぱきと机の上を片付けた桐人は、もう料理をする準備をしている。
「まあ、そうだね……」
ケイも疲れているのか、素直に頷いた。


「美味しいなあ。君何でも出来るな本当に」
「カレーくらいどう作っても同じだろ」
「いや結構差が出るもんだよ」
桐人の作ったカレーを二人で食べながら、他愛のない会話をする。ケイも食欲がないと言いながらも、人が作ったものを無下にするつもりはないらしい。
「ありがとう、大分食べる気が戻ったかも」
「それはよかった」
空になった皿を桐人が片付ける。
「まだ大分残ってるから適当に食べればいい。あっためるのは電子レンジでも出来るし」
「しばらくは世話になるね」
「なくなったら自分で料理しろよ」
「わかってるよ。ちゃんと食事摂るから」
台所で皿を水に浸けて、満足気に振り向くと、ケイは再び手紙を書く用意をしていた。桐人は確かに食事の後に書けばいいと言ったけれど、気を紛らわせに来たのにこれでは少し癪だ。
「待て、まだ書くな」
「なんで」
「爪切ってやる。さっきから気になってたんだ」
桐人はリビングに戻って、丁寧に整頓された生活用品の中を漁る。特に苦労することもなく爪切りを見つけると、ケイの白い手を取った。
「君が僕のを? いいよ、後で自分でやる」
「他人にやってもらった方が気が逸れていいだろ。それにお前に黒は似合わない」
ケイの爪には、さっきこぼしたインクが黒くこびりついていた。桐人はなんとなく、それが嫌だった。
「そういうフェチかな……」
「人を変態みたいに言うな」
「高崎はいろんな方面で変態だよ」
「そうかよ」
「そうさ。いいよ、君の趣味に付き合ってあげよう」
「趣味じゃない」
ケイの言葉にむくれながら、桐人は爪切りの刃先をケイの人差し指の爪に触れさせた。そのまま力を込めるとぱちんという小気味良い音がして、黒く汚れた部分が切り取られる。そうしてぱちんぱちんと横にずらしながら繰り返すと、少し長めだった人差し指の爪が綺麗に短くなった。
「僕に黒が似合わないって言ったけどさ」
順々に他の指の爪も切っていると、最初はその様子をじっと見ていたケイだったが無言が嫌になったのか薬指に差し掛かった頃、口を開いた。
「昔は僕、君と同じような黒髪だったんだよ。想像出来るかい?」
「出来ないな。初めて会った時からお前、真っ白だったから」
「だよな。中学高校の頃は苦労したよ。先生の目とか、同級生の陰口とかいろいろ」
「でも気に入ってるんだろ。今のカレーうどんが苦手そうなコーディネートからして」
大学に通うようになってから、ケイの服装はもっぱら白のシャツと白のデニムである。特に晴れの日なんかは光を反射して異様に目立つ。好きでなければ出来ない格好だ。
「そうだよ。憎かったこともあるけど今は僕のアイデンティティさ」
「前向きでよろしい」
「それに、高崎も白が好きみたいだからね。黒く染めるのはもったいないだろ」
「いつ言ったそんなこと」
「さっきの台詞は、言ったようなもんさ」
「……そう思うなら思えばいい」
ぱちん。丁寧に動いていた爪切りが少しぶれるのを見て、ケイはようやくくすくすと笑った。



「姉さんも、白が好きだった」
「珍しいな、お前がお姉さん自身のことを話すなんて」
「……僕はさ、姉さんのことを自分だけの宝物にしておきたいからあまり話したくないんだ。でもあの人が生きてたってこと、誰かに知っておいて欲しいんだな。知ったとして僕たちに同情も憐憫もしないような人に」
「君は僕の話をちゃんと聞いてる癖にあんまり聞いてないふりをしてくれるから好きだよ、高崎」
「それはどうも」
「ふふ、それだそれ」

 

 

 

 

 

 

3


「付き合え」
「……え?」
僕の部屋の玄関で、コンビニの袋を僕の目の前に突き出して高崎はそれだけ言った。袋が揺れる度にがらがらと音を立てる。中身は大量の酒の缶だった。どうやら宅飲みに付き合えと言っているらしい。
「いいけど……君ヤケ酒はやめろよ」
「別にヤケなんかじゃない。祝杯だ」
高崎がこんな珍しい行動に出る理由を僕は知っていた。今日の昼に、彼が愛してやまない貴美ちゃんが部屋にやってきて、高校の頃から仲良くしていた樹くんと正式にお付き合いし始めた、という報告を受けたからだ。僕からすると高校の頃から彼女たちは付き合っているようにしか見えなかったから逆に意外だったのだけれど、高崎はそうでなかったようで。その時は平然とよかったな、なんて言っていたけれど少なからずダメージはあったんだなあとずけずけリビングまで入っていく高崎の後を追いながら思った。いくら可愛がっていた樹くんが相手とはいえ、大事な大事な妹をいざ取られるとなっちゃ辛いんだろうなぁ。わかるよその気持ち。僕ももし姉さんが生きてて誰かと結婚する、とか言っていたら修羅になっていたに違いない。素直に祝福出来るだけ君は偉い。
「待て君これ柿の種ばっかり何袋買って来た」
「ピーナツはお前にやる」
「いや柿の種もくれよ」
二つあったコンビニ袋の片方には、つまみのつもりか柿の種がどっさり入っていた。今日はいつもと立場がおかしい気がする。奇行に走るのは僕だけでいいのに。
「何か作ろうか?」
「いや、いい」
さすがに食べるものがそれだけでは飽きるどころじゃないだろうと提案したのだけれど、高崎はいらないと言う。どうもそれが癪に障って、僕が嫌なんだけど、と言おうとした時、彼は僕に向かって早く来いと言わんばかりに手招きするものだから、僕は思わず口元が緩みそうで困った。我ながら単純だ。とりあえず、高崎が悪酔いしないようにグラスに水を入れて持って行った。
「何だ君、もう開けてるのか」
「お前の分も開けてる」
「僕ビールは飲まないってのに」
高崎は僕の好みを知ってるはずなのに、何故か僕の席に開けたビールの缶を置いている。勘弁してくれよ、僕と同じものが飲みたいのかって都合のいい考えをしそうだ。しかも普通の缶よりちょっと高いビールだし。君苦学生じゃないのか。
「残ったら飲んでやるから。じゃあ乾杯」
「乾杯……」
僕が席についた途端にビールを差し出してくるものだから、特に文句を言う余裕もなく僕は缶をぶつけ返してしまった。仕方なく飲む。苦い。安物よりはましだし飲めなくはないけれど、この何とも言えない味はやっぱり美味しいとは思えない。
「はは。お前、顔に出過ぎだ」
よほど顔が不味いと言っていたのか、高崎が僕を見て笑った。僕と二人の時に笑うなんて珍しい。もしかしたら本当に祝杯なのかもしれない。
「仕方ないだろ、好きじゃないんだから」
「他の開けてもいいぞ」
「そうする」
飲みかけは高崎に押し付けて、僕はチューハイに手を伸ばした。一方高崎は特に気を悪くする様子もなく、柿の種の袋を開けていた。
「皿、皿があった方がいい」
そして急にそう言うと、台所へ行って小皿を持ってきた。ここ、僕の家なんだけどなあ。僕も高崎の部屋のどこに何があるかなんかは把握しているから、別に構わないけど。もうどっちがどっちの家かわからない。
「……で、結局どう思ってるんだよ」
高崎が柿の種を皿に移すのを眺めながら、僕は本題を切り出した。貴美ちゃんと、樹くんのこと。
「普通に嬉しいとは思ってる」
「君二人とも大事にしてたからなぁ」
「結婚、するんだろうな」
「まあ可能性は高いな」
「近いうちに俺は叔父になるんだろうか……」
「話が飛躍し過ぎな」
あと仮に二人に子供が出来ても君は叔父にはならないぞ、とはあまりにも野暮なので言わなかった。ちょっと面倒くさくなってきたぞこいつ。一瞬そう思って、直後に自分で驚いた。中学高校の頃の僕なら、あの高崎桐人が僕の前でこんな情けない姿を晒すなんて僕は認められてるんだな~最高だ~、なんて馬鹿な狂信者と化していたんだろうけど、今は一歩離れて彼を見れている気がする、多分。
「でもまあ、幸せになってくれたらそれでいい。特に樹くんは、人並みのことをするのも苦労してたしな……」
「優しいなぁ君は。僕だったら知り合いだったとしても相手の男の幸せなんか祈れないよ」
「いい兄貴だろ」
「そうだね、でも」
高崎は平気な顔をしている。何かを誤魔化すようにピーナツを半分に割りながら。馬鹿だなあ、この僕の前で君が隠し事なんて出来るわけないのに。
「さみしい時はさみしいって言った方がいい」
かつん、割れたピーナツがテーブルの上に落ちた。高崎は俯いて、小さな声で言った。
「……俺は、ちゃんとあいつを守れたのか」
「守ってたよ、ずっと。少なくとも僕が見てた間はずっとね」
彼の手は震えながら、腹の辺りを押さえていた。昔のことを思い出しているんだろう。そんなこと、この祝杯の時に思い出さなくていいのに。でもそれがなければ今の高崎もいなかったのだと思うと本当に忌々しい。僕はやはり、一番じゃない彼を好きになりたい。彼の震える手を腹から引き剥がす。
「君ももう自分のために生きろよ。頑張らなくていいよ。これからは樹くんが君の代わりに頑張ってくれるんだから」
僕がそう言うと、高崎はぱっちりと目を丸くした。こんなに驚いた顔は、初めて見たかもしれない。ちょっと嬉しい。
「……お前がそんなこと言うとは思わなかった」
「ふふん、僕も成長してるのさ」
正直自分でも驚いている。僕が思っている以上に僕は、高崎に幸せになってほしいのかもしれない。
「君も早く恋人を作れとか酷なことは言わないけどな、ちょっとぐらい楽になれよ。さみしいなら僕がいてやるし」
「お前こそ早く恋人作れよ」
「嫌だね。僕に姉さん以外の女性を愛せなんて、それこそ酷だ」
「相変わらずレベルの高いことで」
「ま、そういうわけで独り身同士仲良くやろうじゃないか」
「お前がそれでいいならいいけどな……」
高崎はいつの間にか、僕が残したビールに手をつけながら言った。面倒臭そうにしながらも僕を邪険にはしない君はやっぱり優しいよ。幸せになってほしい、本当に。彼が残したピーナツを口に放り込みながら、僕は真剣にそう思った。






4

「いいよなお前ら、家近くてさー。泊めてくれよー」
学科の飲み会の帰り、桐人とケイの下宿先のマンションの前で、同級生が羨ましそうに言った。実家暮らしだと飲み会の後の帰り道はなかなかに面倒だろう。しかし桐人とケイは辛辣に答えた。
「散らかってるから無理だな」
「僕は散らかされるの嫌だから遠慮してくれ」
「なんだよひでーな! いいよおれはかーちゃんの飯食えるから」
「そうだろ、ほらそのかーちゃんに心配かけるから早く帰りなよ」
冷えるから早く部屋に入りたい。そう言いた気なケイが彼に促した。
「わーったよ、部屋片付けたら泊めてくれよな高崎」
「俺はやり始めるのに一年はかかるからいつになるかわからないぞ」
「嘘吐け特待生様がそんなものぐさなわけあるか! ま、いいや。じゃあな」
「気をつけろよー」
駅へと歩いていく同級生を見送って、桐人とケイはマンションの中へ入った。桐人の部屋は三階で、ケイはその上の四階だ。大学が決まってから二人はそれぞれ部屋を借りたのだが、まさか同じマンションだとは思わなかった。こうなるならお互い相談してルームシェアをしてもよかったんじゃないのかと同級生には言われるのだが、一つ一つの部屋がそれほど広くないのと、桐人とケイは気心の知れた仲とはいえ自分の領域を大事にする人間同士だったのでそういう考えも浮かばなかった。とは言ったものの二人は頻繁にお互いの部屋を行き来するのであまり変わりないように思えるけれども。
「眠い……ちょっと飲み過ぎたかもな……白鳥?」
部屋への階段を昇っていると、桐人は後ろをついてくるケイがやけに静かなことに気付いた。いつもなら酔った勢いでべらべらと鬱陶しいくらいに喋り散らしてくるのに。
「…………高崎……」
桐人の上着の裾を、ケイの白い手が縋るように掴んだ。彼の声はいつもと比べると異様に小さい。
(やばい!!)
桐人は即座にそう思った。すぐにケイの手を掴んで、階段を駆け上がる。
「俺の部屋来い、そっちのが近いから!」
走りながらポケットに手を突っ込んで、部屋の鍵を取り出す。ばたばたと二人分の足音が激しく鳴り響いたが、近所の目なんて今は気にしていられない。桐人の部屋の前に着いた瞬間扉に鍵を差し込んで、勢い良く開くと同時にケイを中へ押し込んだ。普段の行儀の良さはどこへやら、彼は手で口元を押さえながら、靴を飛ばすように脱ぎ散らかすとトイレに直行した。
「間に合ったか……」
後から入った桐人は、横に斜めに落ちている靴を並べ直しながら息をついた。こんなに身近な人間が酔い潰れたのを見るのは、初めてかもしれない。そもそもケイは酔ってハイになることはあっても、具合を悪くするほど酒に弱くはないのだ。飲み過ぎるほど誰かに乗せられる人間でもないし、それほど飲みたくなる理由でもあったのだろうか。
「大丈夫か」
トイレの扉越しに声をかける。返事の代わりに小さい呻き声が聞こえた。まだ苦しんでいる最中らしい。桐人は何とも不思議な気持ちになった。顔の綺麗なケイを王子様だとか何とかいって崇めている女子たちが見たらどう思うだろう。酔い潰れて便器と友達になっている王子様が一体どこの童話にいるのか、教えてほしいものだ。


「……死ぬかと思った」
数分後水の流れる音がして、ケイがようやくトイレから出てきた。ただでさえ白い顔が、人間ここまで白くなれるのかと思うくらい酷い色をしている。桐人は彼に水を入れたグラスを渡して、うがいをするように促した。
「お前よくあいつと別れるまで平気な顔してたな」
同級生がいた時はまるで何ともない態度だったことを思い出す。しかしところどころで早く帰りたいという雰囲気を醸し出していたところを考えると、あれはケイなりのヘルプだったのかもしれない。
「君の前以外でこんな醜態晒すわけにはいかないだろ……」
「晒してもいいだろ。イメージ変わって少しは楽になるぜ」
「僕が嫌なんだ」
二番手でいるのは大好きな癖に、何故か人の上に立ちたがるケイのことが桐人はよくわからなかった。彼を立派な自信家にした彼の姉も、そこまでは望んでいなかっただろうに。
「ま、それは置いといて、どうだ調子は」
「わからない……まだ吐くかもしれないし、頭痛い……」
「薬は駄目だしな……吐いて水分摂った方がいい。でも吐き気収まってるみたいだしとりあえず今は寝てろ」
「ここで?」
「帰る必要ないだろ」
「嫌じゃないかい、汚すかもしれないし」
あまりにも不安そうな表情で言うものだから、桐人はため息を吐いてしまう。弱っているから、同級生除けに言ったことを間に受けてしまったのだろうか。ケイが桐人の部屋にあがるのを気にするなんて、今更だろうに。
「あのな、さっきのはそれほど仲良くもない奴をあげるのが嫌だっただけだぞ。お前はいい」
「……目の前で吐いても?」
「いいけど極力避けてもらえたら助かる」
「そうか、そうかそうか」
受け入れる言葉を返すと、ケイは青い顔のまま嬉しそうに頬を緩めた。


「これ、水と一応スポドリな。あと、吐くならトイレかこれで頼む」
ベッドで横になったケイの脇に、ペットボトルとスーパーの袋を被せたゴミ箱を置いた。ケイ本人はよほど頭痛が酷いのだろうか、枕に頭を押し付けて何度も寝返りを打っている。
「他にいるものあったら言えよ」
「ありがとう……」
「寝られそうか」
「無理かもしれない……頭痛過ぎる」
「子守歌でも歌ってやろうか」
「君の歌は聞きたいけど……今は何か喋っててくれた方が助かる」
気を逸らしたいのだろう、ケイは桐人を遠ざけることもせず会話を求めた。
「そうだな……じゃあなんで、こんなになるまで飲んだんだ」
「言いたくない」
自分から話してくれと言った癖に、ケイは桐人の疑問にそう即答した。聞かれるのがわかっていたようだ。
「お前な」
「君こそ、普段は顔にも出ないのに、今日はちょっと赤いじゃないか」
「喋るのが面倒臭くてな。あいつら口を開けば彼女はいるのかとか、白鳥の好みはどんな奴だとか」
「姉さん」
「知ってる。……安心しろよ、お前のことは何も喋ってないから」
「わかってるよ」
「それで喋るより飲んでる方が余計なこと聞かれずに済むと思ってな……で、いつもより飲んでた。あいつら、俺とお前の席をやたら遠ざけたがると思ったらそういうことだったんだな」
学校ではほとんど一緒に行動している桐人とケイだったが、今日の飲み会では同級生たちの手によって別々のテーブルに座らされてしまった。その時は理由が分からずに仕方なく座っていたが、今思えば仲の良い二人からそれぞれの好みのタイプを聞き出すためだったのだと理解して、少し憤りを覚える。
「……僕も、聞かれた」
ケイは心底腹立たしそうな顔をして呟いた。どうやら彼も相当揉まれたらしい。
「君と同じだよ、面倒だったし苛ついたから飲んでこの有様さ」
「苛ついた?」
「だって、君のことしつこく聞くんだ。彼女の一人ぐらいいるだろって。君がどれほど辛い思いをしてるか、何にも知らない癖に……」
枕に皺が寄る。ケイが憤っていたのは、他でもない桐人のためで。彼はある事情で恋愛がしたくても出来ない桐人に対して無遠慮に色恋の話をする人間のことが許せなかった。
「君の事情も知らない癖に、直接聞きもせずに誰が好きだとか好みがどうだとか……嫌いだ、そんな奴ら……」
ああ俺のために酔い潰れるほど怒ったのか、なんて健気で馬鹿なんだろう。呪詛のようなケイの言葉をしっかりと聞きながら、桐人は思った。こんなこと、お前が怒る必要なんてないのに。
「なんかお前、最近いい奴だよな」
「僕は昔からいい奴だろ……」
「そうだな、ありがとう」
桐人は相変わらず顔色の悪いケイの肩をぽんぽんと叩いた。労いやら、感謝の意味を込めて。同級生たちに対する憤りも、少し収まった気がする。
「でもここまで飲むのはどうなんだ」
「僕もアルコール中毒がこんなにしんどいものとは思わなかった……あ、駄目だ、吐く」
「いきなりだな! 待て待て待て」
今までそれなりに会話が出来ていたのに、ケイがまた突然口を押さえた。桐人は慌てて目を逸らしながらゴミ箱を差し出す。
「今度から飲み会は断るか……」
「……ぅ、そうだね」

 

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