※ここからは番外や漫画と微妙に繋がってます。
「……っ」
「はい、終わりましたよ」
「はー……、刺す時は平気なんだけど、薬が入ってくる瞬間が何回やっても痛いな」
地下の実験室で、注射器を処理しているミドを見ながら、ライネが疲労を滲ませた声で言った。三年の間にすっかり習慣になった不死身を直すための投薬。身体が薬さえも異物とみなして排除してしまうらしく、いまだに効果は現れていない。今打ったこの薬でさえ、きっとそうだ。そう思いながらも、ライネはほんのわずかな期待を込めて机の上に置かれたメスを拾いあげる。そしてそれをゆっくりと自分の手首に押し当てた。真一文字に筋が走り、一拍置いてからじわりと赤い血が滴った。
「これも痛いんだよな」
「あの、毎回思うんですけど指先程度でいいんですよ? わざわざ手首を切らなくたって……」
「いや、傷が大きい方がわかりやすいだろ?」
「確かにそうですけど」
二人して、ライネの手首に出来た傷を覗き込んだ。会話をしていた間に、溢れ出していた血はすでに止まっていた。それからみるみるうちに、ぱっくりと開いていたはずの傷口も勝手に塞がっていき、明らかに数分や一日では治らないであろう傷が跡形もなく消えてしまった。
「今回も駄目かぁ」
「みたいですね……一応時間おいてからも調べておいてくださいね」
「うん。一応、な」
消えてしまった傷と異なり、唯一残った血を濡らしたタオルで拭う。ここまで、いつも通りだ。ライネがこの身体になってから三年間、毎週いろんな種類の投薬をしてきた。しかしいくら痛みに耐えても、それが実を結ぶ気配はなくて。最早流れ作業のようになってきてしまっている。何も変化が起きなくて、当然。そんな諦めのような気持ちが、ライネの中に渦巻き始めていた。
「……もう、三年ですか」
注射のために乱れた服を整えていると、不意にミドが呟いた。
「ん?」
「君の身体を調べ始めてからの時間です。三年も、成果を出せていないんだなあって……」
「気にするなよ。研究ってのはそんなすぐ結果が出るもんじゃないだろ?」
ライネ自身、三年結果が出ないことを不安に思いながらもミドにはそう言うしかない。彼には他の研究の合間に自分の依頼を受けてもらっているだけ。そういうことになっているのだから。
「でも、このままじゃいつまでも君の大事な人に会わせてあげられません……」
「そ、れは、」
しまった、とライネは思った。前に依頼の理由を聞かれた時、元の身体に戻るまで遠くに住んでいる大事な人には会わないと話したこと。ミドがしっかり覚えていたなんて思わなかった。
(まさか大事な人がお前だとは、言えないよなあ)
ライネが元の身体に戻るまで会いたくない人、それは記憶を失う前のミドのことだった。きっとミドの記憶を取り戻すのはそう難しいことではない。しかし今すぐにでもライネはミドに昔のことを思い出してほしいけれど、記憶喪失になった原因を考えると思い出させるなんて出来そうもない。もし思い出せばライネを死ねない身体にした責任に押し潰されて、今度は忘れるだけでは済まないかもしれない。だからライネは、元の身体に戻ってからミドの記憶を取り戻させたかった。
「大丈夫だって、その人オレと同い年だから、時間はまだまだある」
「そういう問題ですかね」
「そうだよ。オレがいいって言ってるんだから、気にしないでやってくれ。絶対会えない、ってわけでもないし」
「はい……」
そうは言ってもやはり、ミドの気分は弾まないようで。
「…………」
どうしたものかな。何を話してやるべきか悶々と考えこんでいると、不意にコンコンと、一階へ続く階段への扉からノックする音が聞こえた。
「ライネ、ミド、そろそろ昼だぞ」
イヴの声だ。昼食が出来たことを伝えに来たらしい。
(ナイスタイミング)
なんとか煙にまけそうだと、ライネはこっそりとよく出来た弟に感謝した。
「わかった、今行くー」
扉の向こうのイヴに返事を返して、ライネは椅子から立ち上がった。ミドも同様に返事をして机の上を片付け始めたのでこの話はもう終わり。蒸し返されないよう今日の昼ご飯は何だろう、とライネは全くもって他愛のないことを口にした。
「今日セレンさんたちがいらっしゃるのって、何時ごろでしたっけ?」
「二時ぐらいにこっちに着くって。連絡来たら迎えに行く」
昼食のオムライスを頬張りながら、ライネとミドは今日の予定について話していた。初めて出会ったあの事件以来、セレンはユウを連れて何度か遊びに来るようになった。機械のことを話し合ったり、ボードゲームをして遊んだりと、かつてライネやイヴにとって印象のよろしくなかった彼らは今は良き友人になっている。ユウだけはときどきイヴに冷たくあしらわれている時があるけれども。初対面が窃盗被害に遭っている最中だったのだから、何かと刺々しくなってしまうのも無理はないのかもしれない。
「二時ですか。それまでにやることやっておかないとですね」
「そうだな。オレも依頼の下準備進めとくか……」
余った時間を使って計画を立てる。セレンたちが来るといっても、いつも通り仕事はある。彼らの場合締め切りに間に合わない、などということはないだろうけれども。
「調子どう最近」
「悪くはないんですけどね……レンタルさせてもらってる機材が高くて高くて。安くで貸していただく代わりに論文を提出するんですけど、これがまた厄介で」
「足元見られてるんだな」
「まあ、お互い研究費用はいくらあっても足りませんからね。論文と機材でwin-winってやつですよ。そちらはどうですか?」
「んー……人を相手にするのって、大変だなって……。うちは修理だけだって言ってるのに新しいソフト導入してくれとか、その追加料金請求したら怒ってきたりとか……」
「そういうのありますよね、やっぱり」
「お、おいお前たち、そういうことばかりで大丈夫なのか」
いつの間にか仕事の愚痴大会になってしまっている二人の会話を横で聞いていたイヴが心配そうに尋ねる。自分は二人に比べると随分楽をさせてもらっている。そんな罪悪感が彼にはあった。
「大丈夫だよ、ややこしい人はいるけど、そこまで困るお客さん、多くはないから。その分気遣ってくれるいい人もたくさんいるし」
「ですね。僕たちの場合半分趣味ですし、家事と仕事両立させるなら大変かもしれないですけど、イヴくんがいてくれますから」
「そ。助かってるぜ〜かなり」
まるでイヴの罪悪感を読み取ったみたいに、ライネとミドは彼に感謝を述べる。にこにこと自分を見つめる視線が眩しくて、イヴは思わず目を伏せた。
「なんだ急に。褒めても何も出ないぞ」
「デザートとか出そうだけど」
「何かと家計簿を圧迫していたから今日はない」
「「えぇ〜〜」」
「…………」
カタカタと、ミドの指がキーボードを叩く。彼は地下室で、セレンたちが来る前にメールを送ろうとしていた。宛先は、知り合いの研究者だ。
「ミド」
すると突然、背後から声がした。振り向くと、何やら深刻そうな顔のイヴが立っていた。彼は先ほど昼食が出来たと知らせに来た時、ライネとミドの話を聞いていた。それで焦るミドが何か行動を起こすのではないかと不安になって、またここへ来たのだ。
「あれ、イヴくん? 君からここに入って来るなんて珍しいですね」
「何を、してるんだ」
イヴはミドの前のパソコンの画面を見つめたまま、冷たい声で言った。硝子で出来た赤い瞳には、メールの作成画面が映っている。
「何って、僕の知り合いの研究家の方にメールですよ。ライネくんのこと、手伝ってもらえないかと」
「やめろ。あいつの身体のことは誰にも教えない約束だ」
「でも、僕だけじゃいつまでかかるか、本当に出来るかどうかもわかりませんよ……」
「……それでも、お前の中だけで終わらせるんだ。他の研究者に教えて、ライネに危険が及んだらどうする気だ」
「そ、れは」
「ライネも、お前が駄目なら諦めるつもりなんだ。ちゃんと応えてやれ」
「どうして、僕にそこまでこだわるんですか……」
ライネをあんな身体にしたのがお前だからだ。イヴはそう言いたくて仕方なかった。思い出せば、いいじゃないか。そうすればきっと、ライネの身体を戻す研究も進む。あの忌々しい薬の作り方を思い出せば、戻す方法だってわかるかもしれない。ミドのライネに対する意識だって変わる。今のミドには、三年前のような必死さがない。ライネはミドにとって、大事な幼馴染から突然押しかけて来た居候になってしまったのだから。記憶を取り戻しさえすれば、まだいくらか状況がマシになるのに。思い出させたい。けれどそれは出来ない。イヴの一存だけで、ミドの記憶を左右するのは許されない。決められるのはライネだけだ。ミドに忘れたままでいさせることを決めた、ライネだけ。イヴは自分の気持ちを押し殺して、言葉を紡いだ。
「お前のことを信用してるんだ。お前なら誰にも言わないだろうし、身体もきっと戻してくれる。あいつは、ずっとそう思って……」
みしりと、握り込んだ左手が音を立てた。馬鹿だ。ライネは馬鹿だ。他人のことばかり気にかけて。そういうのは、俺のような道具に任せていればいいんだ。そうすれば、もっと楽になれるのに。イヴは苛立った。
「……君は、この三年で随分、ライネくんと仲良くなりましたね」
ミドが、ぽつりとそう言った。イヴはない心臓が跳ねるような感覚がして、思わずミドの顔を見た。
「彼のためなら何でもしそうですよ、今の君。人見知りなのに、ライネくんのことは本当に好きなんですね……」
当たり前だ。六年前に拾ってもらって、新しい身体をもらって、ライネのことを大切に思わないわけがない。イヴはそう言いたくても言えるはずがなかった。
「……わかりました。君がそこまで言うなら僕もう弱音は吐きません。出来るだけ、一人でがんばってみます」
言い淀むイヴをよそに、ミドは何かを決意したようにそう言った。『一人で』がんばる。イヴにはその言葉が引っかかった。
(今までミドが一人でがんばって、どうなった?)
三年前、寝室に現れたミドの姿を思い出す。憔悴し切って、ただライネを生き返らせたい思いでイヴさえも傷付けて。そしてその結果があれだ。どこで歯車が狂ったのか、ミドの努力では誰も幸せになれなかった。それはミド自身が、一番わかっていただろう。わかっていたから、忘れたのだ。ミドはいつも一人で、がんばっていた。
(俺たちは今のミドのことを、体よく薬を作ってくれる便利な奴だと思ってないか)
ふと、イヴの心にそう過った。瞬間、酷い罪悪感が彼の中を巡る。ミドはもう、昔のように進んで薬を作っているわけではないのだ。それなのに俺たちは、彼に無理難題を押し付けている気がする。そう思うと、何が正しいのかなんてもうわからなかった。
「……無理だけはするな。他の人間に話すこと以外なら相談に乗るから……ちゃんと言え」
無理を押し付けておいて無理をするななんて、何を言っているのだろう。そう思っていたけれど、イヴはそう言うしかなかった。一人で背追い込むのはやめてほしい。ミドも、ライネも。記憶を思い出させないなら、思い出さないなら、もっと頼ってほしい。俺は、そのために生かされているんじゃないのか。どうしようも出来ない自分も、頼ってくれない家族二人も、何もかもが、歯痒かった。
「……レイ? どうした、レスポンスが悪いぞ」
夕方。セレンと共にやってきたユウとリビングのソファでぼんやりテレビを眺めていると、不意にユウがそう尋ねてきた。言われて始めて、確かに計算が普段より遅くなっている気がした。
「……少し、疲れた……」
ライネに薬が全く効かないこと、ミドのこと。今日は少し、いろいろと考えてしまった。
「珍しいな。例の悩み事か」
「しつこいぞ」
少しわくわくした様子で聞いてくるユウに、苛立ちを覚えて睨み付けた。イヴに何か悩み事があると知ってからユウは、家に来る度その悩みを聞き出そうとした。力になりたいと思うのはアンドロイドの性質上仕方ないことだとは思うが、悩みが悩みなだけにイヴにとってはありがた迷惑でしかない。
「私は執念深いんだ。特にレイに関してはな」
「知ってる」
「かつてのライバルのことは知っておきたいじゃないか。屋敷で頼りにされていたお前が、悩み事なんて」
「勝手にライバルにするな。それに今の俺はレイじゃない、イヴだ。どう呼ぼうが構わんが、お前が競おうとしているレイは死んだんだ。混同するな」
イヴ自らでさえ知らない過去の自分を、ユウはいつも追いかけている。それが不愉快だった。レイなんてアンドロイド、今はもういない。死んだ。殺された。他でもない主人に。だからイヴはあのゴミ捨て場で生まれて、ライネの手で生かしてもらったのだ。それが彼の一番最初の、一番大切な記憶だった。例え自分自身でも、それを脅かすことは許せなかった。
「……それ、お嬢様の前では言うなよ」
ユウの表情が曇る。ユウとイヴが出会った経緯を思い返すと当然のことだ。イヴだって、レイとセレンの記憶を蔑ろにするつもりはなかったけれども。
「わかってる……とにかく、俺に踏み込むな。お前には関係ない。他人の領域に土足で入るなとプログラムされていないのか?」
「そ、れは、そうだが……だってお前、いつも苦しそうだ。今も熱いし……」
ユウの指先が、計算の負担で熱を持ったイヴの手を絡め取る。逃がさないとでも言いたげだ。
「触るな」
しかしイヴはそれさえも拒む。心配そうな眼差しを向けるユウを冷たい声で威嚇して、手を振り払おうとした。だがユウもそれを許さずイヴの手を強い力で握り、離れない。彼の方が力は遥かに上だ。
「いろいろと理由をつけたけどな、力になりたいだけなんだ。お前はどうか知らないが、私はお前のことを友人だと思ってる。それだけじゃ、いけないのか」
真っ直ぐに見つめてくるユウの瞳に、イヴは気圧された。彼を睨み付けていた赤い目が、ぐらぐらと揺らぐ。
「……俺だって、」
イヴは口を滑らせそうになって、慌てて噤んだ。言ってしまえば、何もかも話してしまいそうで。絆されている。何度冷たくあしらったって、自分を気遣い続けるこのアンドロイドに。
「ん?」
「いい、なんでもない」
「なんだまた隠すのか」
「うるさい、聞くなって言ってるだろ。頼むから……」
イヴは頭を抱えて呻いた。どうしてわかってくれないんだ。話したってどうにもならないことを。どうしても、話せないことを。特にユウには、絶対に。どうすればいい。どう説明すれば、諦めてくれるんだ。ちりちりと、頭の中にノイズが走る。ユウのことを信用していないわけじゃない。もしも相談したって彼は誰にも言いふらさない。わかっている。でも言えない。言えるわけがない。お前が、アンドロイドだからだなんて。記憶なんて所詮データのユウに、口止めなんて意味がない。コードを繋がれて頭の中を覗かれればすぐに内緒話なんて誰かに見られてしまう。イヴはそれを恐れていた。だからユウにだけは言えない。だけどそれを伝えればきっとユウは傷付く。自分が人間なら、と思うに違いない。悲しませたくない。イヴだって彼のことを、友達だと思っているのだから。
「……レイ、悪かった」
ユウの一言に、顔を上げる。イヴのあまりの狼狽ぶりに彼も動揺したらしい。追い詰めてしまった。そんな顔をしている。
「もう聞かない。お前がそんなに辛いなら。でも一人で抱え込むなよ。私たち、身体は丈夫でも心が弱ると動けなくなるんだから」
絡んだ指が解ける。あれだけしっかりと掴まれていたのに、あっけなく解放された。なのに、イヴはそれが少し怖いと思った。違うんだ。
「私じゃ嫌なら、ライネさんとミドさんがいるんだし……ちゃんと相談しろよ」
寂しげに目を伏せて、ユウは言った。違う、そんな顔をさせたかったんじゃない。そう思ったが、イヴは何も言えなかった。二階から、物音がする。セレンが降りてくるのだ。もう彼らの帰る時間だ。
「しまった、もうこんな時間だったのか。じゃあなレイ。悩み、内容はもう聞かないけど解決したら教えてくれよ」
立ち上がってユウは上着を着始めた。
「ユ……」
「ユウくーん、そろそろ出なくちゃ駄目よ」
引き止めようとしたイヴの声を、降りてきたセレンの声が遮った。伸ばそうとした手は宙を彷徨い、その場に落ちた。
「はい、ただ今!」
行ってしまう。言わなければ。お前に話すのが嫌なわけじゃないと。むしろ本当は、聞いてほしいくらいなのだと。一人ではもう、どうすればいいのかわからないんだ。
「…………っ、」
それなのに、声が出なかった。いつも余計なことばかり口を突く喉の奥のスピーカーは、肝心な時に音を出してくれなくて。イヴは玄関へと出て行ってしまうユウとセレンを、見送ることしか出来なかった。
そんなやりとりが、少しずつ少しずつ、イヴの中で燻り根を張っていた。もしかすると、三年前からとっくに壊れていたのかもしれない。ただ、とどめを刺すようなきっかけがなかっただけで。
「ただいま帰りました〜。あれ、ライネくんは?」
「おかえり。あいつなら風呂だ」
数日後のこと。務め先の大学から、ミドが帰ってきた。その時イヴはライネが食べた夕食の食器を洗っているところだった。
「もうそんな時間でしたか……遅くなりましたね」
「研究、忙しいんだな」
「ええ、先はまだ見えないですけど。早く治療薬に貢献したいです」
治療薬。四季病の、ライネを殺した病気の。ミドはライネが臥せっていた当時、家だけでなく手伝いをしていた大学でも四季病の治療薬の研究をしていた。ライネが病気でなくなって、個人で研究する必要がなくなった今でも延長線上でそれは続いていて、忙しいけれど悪いことではないとイヴは思っていた。いつかちゃんとした薬が出来て、ライネのように苦しむ人がいなくなればいい。
「それは構わないが、あまり無理はするなよ」
「はい、なるべく早く帰って来たいんですけどね……どうも、熱中してしまって。あの病気を前にすると何故か、落ち着いていられなくなるんです」
さくさくと皿をスポンジで擦っていたイヴの手が止まる。ああ、ミドは覚えているんだ、心のどこかで。大事な人が、あの病に苦しめられたことを。
「……どうしてだと思う?」
いつもなら避けなければならない話題だったが、イヴはそう聞かずにはいられなかった。歓喜していた。ミドがライネのことを覚えているかもしれないと。このまま思い出してくれないだろうかと期待する自分と、ライネの命令を破ってミドを苦しめる気か、とその自分を止めようとするもう一人の自分がイヴの中にはいた。今は、前者の方が強かった。ミドの苦しみはわかっていたし、メールを止めた時からその気持ちは増したけれど、やはり彼に自分が何をしたのか、逃げずに向き合ってほしかった。しかしミドは、そんなイヴの心を知るはずもない。
「どうして、でしょう……? 誰か知っている人が患っていたわけでもないんです。僕の家族が亡くなったのは、事故だったし……」
「……嘘を、吐くな」
「え?」
ミドは決してとぼけているわけではない。わかっているのだが、ついそうこぼしてしまった。わかっているくせに。逃げたくせに。憤りばかり湧いて出て、イヴは自分が今何をしようとしているのかわからなくなっていた。ミドがライネのために一生懸命だったのはよく知っている。数日前だってそれを再確認した。だから記憶をなくした今、掘り返すようなことはするべきじゃない。わかっていた。だけれどこれでは、あまりにもライネが可哀想じゃないか。この三年間、ずっとそう思ってきた。何度も何度も思い出させたくなっては、言葉を飲み込んできた。ミドが苦しむ姿を見れば、ライネが苦しむから。ざざ、と視界にまたノイズが走った。言いたい。三年前に起きたことを全部。思い出させたい。ミドに敬語で話される度、ライネが悲しい顔をするのを知っている。でもそれは、してはいけないこと。イヴにアンドロイドらしいことを強要しないライネが唯一イヴにした命令。ミドに思い出させるな。わかっている。わかっているのに。
「――――っ、」
視界のノイズが激しくなる。ヨダを見送った後と、ユウと話していた時に起きたものと同じ、いやそれ以上のノイズ。ごとん、と手元で音がした。洗っていた皿をシンクに落としてしまったらしい。割れていないだろうか、拾わないと。そう思って手を伸ばそうとした。しかし、その瞬間身体がぐらりと傾いた。自分の意思とは関係なく電源ボタンを押された時のような、そんな感覚。ごとん、鈍い音が部屋に響き、ミドが酷く動揺した声を上げた。イヴは床に身体を打ち付けたまま、動けなかった。ユウの言っていたことは、これだったのか。その時ようやく、自分の心が限界を迎えていたことに気が付いた。眠い。俺はきっともう、自分で目を覚ますことが出来ない。嫌だ。ライネにまだ何も返せてない。ユウに本当のことを言えてない。俺だけが、覚えているのに。ひとりにしないと約束したのに。俺はまた。
「……ライ、ネ……」
また悲しませてしまう。余計な荷物を増やしてしまう。後悔と怒りと悲しみでぐちゃぐちゃになりながら、イヴはその意識を手放した。