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「……なんでだよ……」
二度目の病院のベッドの上で目覚めたケイの第一声は、それだった。



「……桐くん?」
とある団地の一室、桐人の母、恵は携帯電話の画面を見て脱力している桐人の姿を見て、怪訝そうに声をかけた。昨日から彼は元気がない。聞けば、ずっと仲良くしていた友達が血塗れで救急車に運ばれていくのを目撃したのだという。ショックだったろうな。恵はかつて亡くした夫のことを思い出しながらそう思った。息子には、あんな悲しい思いをしてほしくなかったのに。
「……よかった……」
聞こえてきたか細い声に、恵も安堵する。無事を伝えるメールだったらしい。
「ケイくん、大丈夫だったの?」
「うん。頭やられたから検査しないといけないけど、とりあえずは元気だって」
「よかったねぇ、これで桐くん、ちゃんとご飯食べれるね」
「うん……でもほんとに大丈夫かな、あいつ」
自分の家であんな怪我をするなんて、絶対におかしい。そしてあの時見かけた、酷く取り乱したケイの母親の姿。彼の家庭で何かあったのは間違いなくて。本当に心配するべきなのはこれからなんじゃないかと桐人は不安になった。
「お見舞い、行ってあげたらいいわよ。桐くんが行ったら喜ぶよあの子」
「そうかな……明日、行ってくるよ」
明日会えば、またいつも通りケイはやかましく笑ってくれるだろうか。普段は面倒だと思っていた彼のよくわからない絡みを、桐人はその時ばかりは期待していた。



「高崎……?」
翌日、桐人は朝からケイの入院する病院へ向かった。真っ白い個室の中、寝巻き姿で頭に包帯を巻いたケイがぼんやりとベッドに座っていた。普段は左耳にかけている髪が下りていて、いつもより弱々しい印象を受ける。開け放たれた窓から吹く風がその髪を靡かせて、やけに儚げに見えた。そして何より、桐人の姿を見つけても蜂蜜色の瞳が虚ろなままだったのが、彼をとても動揺させた。
「来てくれたんだ。ごめん、約束破って」
「それはいい。具合、どうだ」
スツールに腰かけながら桐人は何でもないように返した。本当は突然『ごめん』とだけ書かれたメールを見て、動悸が止まらなくなったことを伝えたかったけれど。
「血がいっぱい出ただけで大したことないよ。検査したけど頭に異常ないって言われたし」
「ならよかった……お前が運ばれるところ見たから、心配したんだぞ」
「うわ、君家に来たのか。酷いとこ見られたな」
本当に、酷い光景だった。ケイは頭やシャツを血とワイン塗れにしていたし、ケイの母はよくわからない言葉を泣き叫んでいたし。桐人は新しいトラウマを植え付けられるかと思った。
「……なんで、そんな怪我したんだ」
恐る恐る、尋ねる。大体の流れは、察していたけれど。
「ワインボトルでがつーって、殴られた。テレビみたいだろ」
へらりとおどけながら、ケイは拳を額に当てる。桐人は胸が痛くなった。どうして、そんな風に出来るんだよ。
「……お母さんに?」
ケイを傷付けかねなかったが、聞かずにはいられなかった。聞かなければ、彼がずっと遠くから戻って来られなくなるような気がして。するとふわふわしていたケイの表情が、みるみる強張っていく。数秒の間の後、彼は錆び付いたシャッターを無理矢理こじ開けるみたいに口を開いた。
「……僕の母さんさ、姉さんの方が好きだったんだ」


それからケイはぽつりぽつりと、窓の向こうを見たまま自分の今までの生活を話し始めた。姉と共に事故に遭ったこと。自分だけ生き残ってしまったこと。母が変わってしまったこと。桐人と同じ高校に行きたかったのに、母の意向で叶わなかったこと。下宿のことで揉めて、母に頭を殴られたこと。どれもこれも辛い思い出ばかりで、桐人は言葉を失った。
「……何度も何度も、死にたくなった。自殺することもいっぱい考えた。でも君と一緒にいるの、楽しかったから、生きてたんだ……」
虚ろな目のまま、ケイは淡々と話した。感情なんてもう、血と一緒にどこかへ流してしまったみたいだった。
「でも母さんが僕を殴ろうとしてきた時、もう無理だって思った。だって母さん、殺したって構わないくらい、僕のこといらなかったんだろ? お互い辛いだけだよ、生きてたって……」
淡々と、淡々と、無表情に言葉を続ける。桐人は何か話そうと口を開けたり閉じたりを繰り返していた。なのに肝心の音が出ない。どうすれば、どうしてやればいい。怖い。その次の言葉を、言わないでくれ。それだけは、言ってほしくない。
「……姉さんと一緒に、死にたかった……」
その瞬間桐人は、ケイだけでなく自分自身ががつんと殴られたような衝撃を感じた。自分が今まで見てきたケイが、本当のケイではなかったから。こんなにずっと一緒にいたのに、桐人はケイのことを何も知らなかった。異常なまでの自信は、本当は誰よりも自信が無かったから。明るく振舞っていたのは、そうしないと潰れてしまうから。桐人がいなければとっくの昔にこの世から消えていたであろうケイのことを思うと、息が出来ないぐらい苦しかった。
「…………」
桐人は、かける言葉を見つけられなかった。でも何か言わなければ、このまま放っておいたらきっとケイはいずれ死んでしまう。そんな気がした。病室の白に溶けて、いなくなってしまいそうで怖かった。必死に頭の中を掻き回して、喉から言葉を引っ張り出す。
「……死ぬなよ、俺妹と弟はいるけど、友達はお前しかいないんだ」
掠れた、情けない声が出た。が、その言葉でようやく、ケイが桐人の方を見た。
「映画、観に行くんだろ。俺と同じ学校行くんだろ。約束、守れよ。俺を大学で、寂しい奴にする気か」
やっと出せた言葉は、ケイを慰めるものではなかった。自分のために生きることが出来ないだろう今のケイには、何を励ましても無駄だと思って。桐人は、自惚れなんかじゃなく、白鳥はきっと俺のためなら生きてくれる、そう信じていた。
「君は、僕のことが好きだなあ……」
小さな、今にも泣き出しそうな声が聞こえた。彼が口癖のように言っていたこの言葉も、自信の無さから桐人の好意を確認していたのだな、と思うと、どうしようもなく辛い気持ちになった。ケイがこの言葉を言う度に、桐人は気恥ずかしくなって適当に流してしまっていたから。もっと早く、こんなことになる前に、大切だと伝えていればよかった。だから言わなければと、ケイの背中を撫でてやりながら、好きでもない奴とこんなに長い間友達なんてやらないだろ、と囁くと、ついにケイはぽろぽろと涙を零した。



「……あ」
それからしばらくして桐人が病室を出ると、廊下から誰かがこちらへ向かって来るのが見えた。白髪混じりの、琥珀色の目をした上品な雰囲気のする男の人。明らかに落ち込んだ顔をして、とぼとぼと歩いている。白鳥のお父さんだ。桐人はすぐにそう直感した。
「君は……」
ケイの父、敬一も息子の病室から出てきた桐人に怪訝そうな視線を向け、声をかけてきた。
「ケイくんの中学の同級生の、高崎です」
そう言って軽くお辞儀をすると、敬一はぱあっと表情を明るくした。
「ああ、君が……! ケイがよく話していたよ。尊敬している友達がいるって」
「そう、だったんですか」
あいつ、俺をそんな風に思ってたのか。桐人は複雑な気分になった。本人にそう言われるよりも照れる。
「ケイのためにこんなところまで、ありがとう……あの子も喜んでると思う」
「……お父さん」
「? 何だい?」
挨拶もそこそこに、桐人はいい機会だと思い、話を切り出した。ケイは、下宿先を父と一緒に決めたと言っていた。きっとこの人は頼ってもいい人だ。言わないと。ケイの苦しみを、この人にちゃんと伝えないと。
「あいつのこと、助けてあげてください。我慢させないでください。あいつ、学校では笑ってばっかりだった。家で辛い思いをしてるなんて、一言も言わなかった。ずっと我慢してて、もう壊れそうなんです」
そう、ケイは我慢していた。もうぼろぼろだったことを、桐人が気付けないほどに。
「ちゃんと、大事にしてやってください。あいつのこと大切に思ってるなら、言葉で言ってやってください。じゃないとあいつ、いつか自殺する」
自殺。その言葉を口にした瞬間、桐人にとって一番身近な死が、脳裏に過った。幼い頃死んだ、父親の姿が。ここと同じような病室で、段々弱々しくなっていなくなってしまった父。桐人は死というものを誰よりも恐れていた。部屋でひとり、桐人に知られないように泣いていた母の姿が、目に焼き付いて離れない。しんじゃうって、かなしくてさびしくて、つらいものなんだ。幼いながらに、そう思った。そんな死が、ケイのすぐそばに落ちているのが、桐人は恐ろしくてたまらなかった。だって、死んだらもう会えない。面倒臭いと思うことも、眩しい笑顔を見ることも出来ない。それを想像すると、胸の中がぐらぐらと熱くなった。
「……ケイには、泣いてくれるような友達がいたんだね」
嬉しそうに、敬一が言った。それでようやく、桐人は自分の頬が濡れていることに気付いた。先ほどのケイと同じように、ぼろぼろ溢れて止まらない。それだけ、ケイの死が怖かった。
「私は、酷い父親だった。あの子が苦しんでいることを知っていたのに、ちゃんと助けようとしなかった。あの子があんな怪我をして、君の言葉を聞いて、ようやく目が覚めたよ……もう遅いかもしれないけれど、これからはケイのためだけに生きていくつもりだ」
いつの間にか、敬一からは憂いを孕んだ表情が消えていた。彼も何か、ケイのために決意をしたらしい。
「だから高崎くん、これからもケイと仲良くしてあげてくれないか。あの子は、君のことをすごく頼りにしているようだから」
言いながら、ハンカチが差し出される。上等なそれに桐人は戸惑いながらも、受け取って視界を覆う涙を拭った。
「はい……俺で、よければ」



「ケイ、入るよ」
コンコンとノックをして、敬一はケイの病室に入った。そこでは目の周りを赤くしたケイが、鼻をかんでいた。
「……父さん」
「今、お前が話していた友達に会ったよ。ケイの言う通り、すごくいい子だったね」
「……そうでしょう」
桐人のことを話すと、ケイが薄く笑った。それを見て敬一は驚く。彼が最後に見た時のケイは、魂の抜けた人形のようだったのに。桐人という少年は、本当にケイの支えだったのだなと痛感する。
「もっとお前のことを大事にしてやれって、怒られたよ。父さん、自分がどれだけ酷い父親だったか、思い知らされた」
「そんなことないですよ。僕を逃がそうとしてくれたじゃないですか」
「そんなこと、誰にでも出来るよ。父さんはお前から逃げてた。母さんが怖くて、臭いものに蓋をしただけだった」
そう、逃げていただけだった。家の都合があるからとか、母さんが傷付くからとか言い訳をして、ケイを彼女に差し出していた。下宿の話も、結局は問題を先送りにしているだけだった。こんなことになって、ようやく決意出来た。
「……母さんとは、別れようと思う。一緒にいると、あの人はいつまでも美咲から離れられないから」
それでもいいかい。敬一はケイに優しく問いかけた。そしてケイは意外にも、落ち着いて答えた。
「そう、ですね……母さんは、姉さんを思い出すから僕のことなんか忘れた方がいい」
敬一思ったよりもすぐに、ケイはそれを了承した。自己犠牲の言葉と一緒に。
「母さんだって、辛かったんだ。可哀想な人だったんだ。僕はそれを受け入れてあげられなかった。多分、これからも出来ない。だからもう、忘れてほしい」
きっと、そばにいてもお互い幸せになれない。桐人に生きてくれと引っ張られても、その考えだけは変わらなかった。だからもう、忘れてしまおう。その方がきっと、母は幸せになれる。
「ケイはそれで、いいのかい。別れないで、母さんに昔みたいに戻ってほしいと、思わないかい」
敬一は再三、本当にいいのかと尋ねる。決意したとはいえ子供に母親は必要。そう考えていたから。ケイがこうあっさりと手放してしまうとなると、やはり不安になった。するとケイは、穏やかな笑顔でこう言った。
「今思えば母さんね、僕が気絶する前、こう言ってたんです。『ケイ、大丈夫?』って。それに救急車、呼んでくれたんでしょう? 混乱してただけかもしれないけど……もう、それだけでいいんです」
「……そうかい」
錯乱していただけかもしれない。ケイが本当に殴られるとは思っていなかったから出た言葉かもしれない。でももういい。その思い出だけで、十分だ。落ち着いた口調で話すケイの姿を見て、敬一はそれ以上問いかけるのをやめた。これからはこの子と、この子を幸せにするためだけに生きよう。そう思った。



その数日後、ケイの両親は離婚して、ケイを殴ったことにより錯乱していた母は実家で療養、ケイは父に引き取られることになった。これからは親子二人でやり直すらしい。ケイの心の傷も、治るまではいかないかもしれないが少しずつ落ち着いていくだろう。しかし下宿の方は当初考えていた通りに始めるらしい。確かにケイや桐人の家から大学まではそれなりに距離があり、家から通うのは少し面倒だ。桐人はそれを我慢して実家通いをするつもりだったが、一悶着あったばかりのケイが一人暮らしをするとなると、少し心配だ。

「大丈夫だよ。だって最初は今より酷い状態で一人暮らししようとしてたんだから」
怪我の経過も良く、退院したケイは迷惑をかけたお詫びも兼ねて桐人の家に遊びに来ていた。恵がスーパーで買ってきた透明なわらび餅にこれでもかというほどきな粉をつけながら、けろりと言う。
「だからってな」
「急にベランダから飛び降りたりしないよ。君が寂しい学生になるからな」
そう言って、わらび餅を口に放り込む。桐人はというと、ケイがベランダから飛び降りる想像をしてしまい腕に鳥肌を立てた。
「いくらそう言ってもな、ああいうのって無意識にやるんだろ? 気付いたら死んでたってなってもおかしくない」
「あら、じゃあ桐くんが見ててあげたらいいんじゃない?」
桐人がケイを説得しようと躍起になっていると、台所にいたはずの恵が突然現れて桐人とケイが座っている机の上に何かを置いた。
「……母さん、これ」
鍵だった。話の流れから桐人は何の鍵なのか察して、目を丸くする。
「桐くんがここから通うの大変だろうなって思って、ちょっと前に部屋借りたの。こんな形で役立つとは思わなかったけどねー」
「いつの間に。それにそんなお金……」
「桐くんががんばったおかげで学費浮いたから平気よ。それに通う方がしんどいでしょ?」
「そうだけど、心の準備ってやつがな」
「あれ、この鍵」
鍵をまじまじと見ていたケイが、不意に声を上げた。
「どうしたの?」
「いえ、僕が借りた部屋のと似てるなって……」
「あら、もしかして同じマンションかしら? 駅出て右の白くて細長いところなんだけど……」
「あ、多分そうです。同じだ……」
「まじか」
どういう縁だよ。外堀をどんどん埋められているような気がして、桐人は頭を抱えた。いや、別に下宿がしたくないわけではないけれど。
「母さん俺いなくて大丈夫なの」
桐人の一番の心配は、それだった。恵を一人にしてしまう。今までずっと二人で生きてきたのに、寂しい思いをさせてしまうのではないかと。
「そりゃあ寂しいけどね、そろそろ子離れしていかなくちゃ」
「じゃあ、俺がいない間に再婚相手見つけてくれよ」
「えぇ、桐くんお母さんに再婚してほしい?」
「ほしい。じゃないと落ち着いて独り立ち出来ない」
「君はほんと素直じゃないなあ。幸せになってほしいってはっきり言えばいいじゃないか」
横からにやにやとさぞ面白そうにケイが口を挟む。うるさいお前は大人しく餅食ってろ。思わずそう言いそうになった。
「ほんとよね〜ケイくん! この子そういうのすぐ誤魔化すのよ」
「なんで俺の話になるんだ」
恵がうきうきとはしゃぎ出して、ああもうこれは駄目だと悟る。そもそも最初にしていたのは、白鳥の下宿の話では? 桐人は自分が話のネタにされることにむず痒さを覚えながら、そう思った。
「ケイくんが危なかった時もね、あなたが無事ってわかるまですごい狼狽えてたのよ! 白鳥が死んだらどうしようどうしようってずっと言ってて。ご飯も食べられなかったんだから」
「よ、余計なこと言わないでくれ……」
ケイを心配するあまりの醜態まで暴露され、桐人はまた頭を抱える。あとで面倒なんだ、勘弁してくれ。そんな苦悶している桐人を置いて、恵はケイの方を見て今度は真面目な声で言った。
「だからね、この子のためにも、ちゃんと元気でいてね」
「……はい」
恵の洗剤で荒れた手が、ケイの頭を優しく撫でた。ケイは一瞬泣きそうな顔をしたが、それから嬉しそうに目を細めた。
「じゃ、桐くん、明日から引っ越しの準備してね〜」
もう言うべきことは全部言ったらしく、恵は台所へ戻って行った。我が母親ながら嵐のような人だ。桐人はただでさえぼさぼさの頭をさらに乱してため息を吐いた。その一方でケイは、無言でわらび餅を串に刺し続けている。
「……こ」
「こ?」
「こんなに幸せで、いいのかな……」
「いいんだよお前は」

 

 

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