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「答えてよ。ボクの考えは合ってるの?キミは死んだの、死んでないの?」
「…………」
ライネは答えない。ずっと黙ったままだ。
「……そう、だったらボクにも考えがある」
ヨダはベッドから立ち上がると、弾かれたようにベランダの方へ走った。正確には、ロッキングチェアの上で眠るイヴの元へ。
「!!」
ライネがヨダの意図を理解した時には遅かった。ヨダは作業場から持って来た大きなスパナをイヴの頭に突き付け、ライネに向き直った。
「教えてくれないと、壊すよ」
「お前っ……!!」
ライネからいつもの穏やかな雰囲気は完全に消え、ヨダを睨み付ける。自分が殴られるのは一向に構わない。だがイヴは、イヴだけは。
「本当にお人形さんなんだね。ボクが触れてもピクリともしない。……ライネ、顔怖いよ。だめじゃないか、そんなに大事なものをボクの手の届くところに置いてちゃ」
ヨダが片手でイヴの肩を抱くと、電源の落ちている彼はくたりとヨダの腕に身を任せる。
「イヴに触るな」
ライネの喉から、いつもの穏やかな彼からは想像もつかないほど、恐ろしく冷たい声が出た。
「だったら答えろ」
ヨダも、いつものへらへらとした空気をどこかへ捨てて言った。もうなりふり構ってなど、いられないのだ。
「っ……」
それでもまだライネは口を閉ざす。ヨダはスパナを持った腕を振り上げた。
「やめろ!!」
ライネが悲鳴のような声で叫んだ。ヨダの腕が空中で動きを止める。
「……言う、から」
苦悶を顔に滲ませながら、ライネは諦めた。イヴを、大事な弟を、唯一自分を覚えている彼を、傷付けられるくらいなら。
「…………」
ヨダは無言で腕を下ろした。ライネはどう出るのか、じっと身構える。死んでなんかいないと、そう言ってほしかった。ライネが死んでいたら、ヨダの希望は潰えてしまうから。生きている人の、ミドの顔を見る方法は絶対にないと、宣告されてしまうようなものだから。しかし。
「……お前の、考えた通りだよ」
ヨダの希望は虚しく、ライネは宣告を下した。自分は生きた死体であると、認めてしまった。ヨダは自分の身体から力が抜けていくのを感じた。
「オレは病気で一度死んだ。それをミドが自分で作った薬で生き返らせて、副作用でオレはこんな身体になった。生き返らせるだけのつもりだったミドはそれがショックで、オレのことだけを全部忘れた。全部、当たってるよ」
ああ、目眩がする。ライネの話を飲み込みながら、ヨダは気が遠くなりそうだった。
「やっぱり、そうだったんだ。ありがと、それだけ聞けたら十分だよ」
イヴの身体を静かに、元通り椅子の上に寝かせる。何も知らない彼は穏やかに綺麗な寝顔を晒している。ヨダはそれが少しだけ、羨ましかった。
「なあヨダ、お前はオレたちのことを知って、何がしたいんだ」
イヴを解放したことで多少落ち着きを取り戻しつつあるライネが尋ねた。
「別に、気になっただけ。キミたちに何か害のあることをしようとは思ってないよ……言いふらしたりもしないから、安心して」
息が詰まりそうだった。頭の中が真っ白で、何も考えられない。ライネの問いに答えるのも精一杯で、ヨダは覚束ない足取りで部屋を出ようとする。
「おい、どこ行くんだ! 顔色悪いぞ」
「しんどいから、下で寝る……イヴくんにごめんって、言っといて……ライネも、ごめんね」
ドアを開ける前に振り向いて、ライネにそう詫びるとヨダはふらふらと部屋を出て行った。ライネも何が何だかわからず、呆然とヨダが出て行くのを見ていた。
「大丈夫かよ、あいつ……あっ、イヴ!」
はっとして、イヴの電源ボタンを押す。何かされていないかと心配したが、彼はいつも通り、赤い瞳をゆっくりと開いた。
「……ライネ?まだ充電終わって……どうした?」
安心して息を吐くライネに、イヴはきょとんと首を傾げる。
「はあイヴお前、今度からリモートで起きられるようにしよう、そうしよう……」



「っ……」
地下に降りたヨダは、実験室を通り抜けて奥の部屋に入るとすぐ、ベッドに転がり込んだ。考えるのは死人たちのことばかり。
(……ほんとは、わかってた)
そう、薄々気付いていた。もやが晴れて見えるのは死んで人間でなくなったものだけだということを。わかっていて、それを認めたくなかった。だからヨダは顔を殴り続けた。他にも人を殺す方法はたくさんあったのに、顔を潰し続けた。見えない言い訳にするために。生きた人間の顔を見る方法が無いなんて、確信したくなかった。
(じゃあ、何のために殺してきたんだろう)
ヨダを苦しめてきた家族はともかく、無関係の人を、何人も。顔の見えない人間は家族同様心の醜い奴らだ。そう思って自分を保ってきたけれど、ミドと出会ってからはそれも通用しなくなった。ヨダはミドの顔が見えずとも心の美しい人間であると思っていたし、ライネたちの真実を知ってからもそれは変わらない。顔が見えないからといって、家族のような人間であるとは限らない。
(もう死ぬしか、ないのかな)
うんざりだった。人殺しの実験をするのも、真っ黒い顔を見るのも。罪滅ぼしというわけではないが、いっそのこと自分を殺してしまうのが一番の方法なのではないかと、脳裏に過った。三人に拾ってもらった命だけれど、もう捨ててしまいたい。
(一旦寝て、起きたらここを出て……死のう。それがいい)
ヨダはそう決意して、目を閉じた。死ぬならどこにしよう、街の外れの海に入ろうかな。あそこは深い所がうっすらとエメラルドグリーンになっていて、とても綺麗だ。沈むなら、あそこがいい。そんな風に、変に前向きに計画を立てながら。



――――だからだろうか、ごぼごぼ息を吐きながら、ゆっくりと水の中に沈んでいく夢を見た。水面からは日の光が差し込んでいて、さんさんとヨダの身体を照らしている。綺麗だなあ。そう思いながら、幸せな気分で沈む。もっと、もっと深くへ。何も見えないところへ。逝って、しまいたい。
『…………たすけて……』
声にならない言葉が、水泡になって口から溢れて消えた。目覚める直前、誰かの手が腕を掴んだ、ような気がした。



「…………」
目を開けると、最早見慣れた風景がぼんやりと目の前に見える。この景色を見るのももう最後だ。そう思いながら、身体を起こそうと隣を見た。すると。
「ミドちゃん……」
ヨダに背を向ける形で、ミドがベッドに腰掛けて本を読んでいた。呟くように名前を呼ぶと、慌てて振り向く。
「あ、ヨダくんおはようございます。具合が悪そうだってライネくんから聞いたんですけど、大丈夫ですか……?」
ミドの手が、額に触れる。彼の手は冷たいけれど、優しい。ヨダはそんな風に接するのをやめてほしかった。決意が揺らいでしまうから。その手を振り払いたかった。しかしミドが自分から離れるまで結局それは出来なかった。
「うん、ちょっと寝たら良くなったみたい。ありがとう」
「それならいいんですけど……君は我慢が得意みたいですから、心配ですよ」
「だーいじょうぶだってば。もう怪我もほとんど治ったし、慣れない場所でちょっと疲れただけだと思うし」
気分はどん底なのに、わざと明るく振る舞う。家庭と学校に板挟みになっているうちに身体に染み付いた、自分を守る術。ボクは平気だよ、全然。だって弱ってる風になんて、ちっとも見えないでしょう?
「……あんまり外の空気吸ってないのも関係あるかも。散歩でもしてこようかなあ」
とって付けたような理由。外に出て、自殺をするための口実だった。ふらりと出て行った殺人鬼はそのまま失踪。この家にとってもありがたいことだろう。そんな想定をして、ヨダはミドに言った。
「ふふ、それもいいですね。いい気分転換になりますよ」
ふわりと、周りの空気が和らぐような感覚がした。ミドが笑っているからだろう、ヨダはそう思った。
「あ……」
「ヨダくん?」
最悪だ、と思いながらヨダは自分を呪った。どうせ死ぬなら、ミドの顔を拝んでから。彼を、殺してから。こんなことを考えてしまう自分が憎い。そして、それを即座に実行しようとする自分も。気付くとヨダは、ミドに飛びかかっていた。
「――――!!」
ぐわりと、視界が傾く。ミドは一瞬自分の身に何が起こったのか理解出来なかった。首にかけられた、ヨダの両手を見るまで。
「君とは仲良くなれたと思ったんですけどねえ……」
ベッドに押し倒されたミドは、自分の首が軽く圧迫されるのを感じながら静かに言った。ミドの上で彼を拘束しているヨダの表情が歪む。
「そう、キミも同じこと、考えてくれてたんだ……嬉しいよ。……ボク、キミのことが好きだよ。かなり。だから、殺したいんだ」
わずかに両手に込めた力が増す。ヨダはどうしても、ミドの顔が見たくなってしまった。このお人好しの青年は、どんな色の瞳を持っているのか、どんな形の目鼻をしているのか、唇は薄いのだろうか厚いのだろうか。興味は日に日に増す一方で。
「ボクに殺されてよ、ミドちゃん。そしたらボクは何だか救われる気がする。キミの瞳の色を知ることが出来れば、もう何にも思い残すこと、ないよ……」
金槌がだめなら、首を締めて殺せば顔が見られるはずだ。交通事故の死体から考えた、ヨダの仮説。好きだから、どんな顔をしているのか知りたい。どうしても、知りたい。例え命を奪ってでも。
「ごめんね、ごめんね。こんなつもりなかったんだ。キミがそこら中の人と同じ、ボクにとってどうでもいい人のままだったら、放っておいたはずなんだ。やる気、最近なくなってたから」
ぎり、首を少しずつ締め上げていく。ミドの体温が両手を伝う感覚が、ヨダは恐ろしくてたまらなかった。いつもは金槌のおかげでこんな感覚を味わうことはなかったのに。人を殺すのは、こんなにも恐ろしいことだったか。
「……ヨ、ダ、くん……」
肺に残った少しの空気を使って、ミドは途切れ途切れにヨダの名前を絞り出した。
「なぁに……?」
ヨダは締め上げる強さは変えないまま手を止めた。これ以上締めたらミドの声が聞けなくなってしまう。それは勿体無いと思った。ミドを殺して顔は見られても声は聞けなくなってしまうのだから。
「……で」
「聞こえないよ……?」
ミドの顔に耳を近付ける。その時、ゆらりと力なくミドの腕が自分の方へ伸ばされるのを視界の隅に捉えた。
「……なか、ない、で…………」
「!!」
ミドの手が、ヨダの頬に触れる。その時初めて、ヨダは自分が涙を流していることに気が付いた。思わず、ミドから手を離す。
「っ……げほっ、げほっ!!」
急に空気の通りがよくなって、ミドが激しく咳き込む。苦しさに整理的な涙が滲む感覚を覚えながらも、彼はヨダを見つめていた。
「なんで……なんで、ボクの心配なんかするんだよ!キミ、死ぬんだよ!?怖くないの、ボクが憎くないの!?なんで……」
ぽろぽろと涙を零しながら、ヨダは叫んだ。わからない。今まで殺してきた人たちはみんな、自分に怯えて、命乞いをした。罵声も浴びせられた。なのに、この青年はどうして。
「……そんなの、僕も君のことが好きだからに決まってるじゃないですか」
身体を起こしながら、ミドが答えた。
「僕、両親が死んでからいつ死んだっていいと思ってますけど、そのせいで君が泣くのは嫌です、すごく」
その時両親の姿と、何か大切なものが脳裏を過るのをミドは感じたが、今は気にしないことにした。とにかく、目の前の子供が泣いていることの方が今のミドには解決すべき問題だと思った。
「だからまだ死ねないみたいです。ライネくんの依頼もありますし」
「もう、なに、それ……」
ヨダはすっかり調子が狂ってしまったらしく、呆れたように呟くと、めそめそと泣いた。我慢の糸が切れてしまった心が、絶えず苦しい気持ちを涙に変えて吐き出す。
「キミおかしいよ、ボクよりずっとおかしい」
「それはどうも」
ミドは笑って白衣のポケットからハンカチを取り出すと、ヨダの頬をそっと拭った。それでもすぐに涙は溢れる。どうやらミドのその優しい行為はヨダの荒んだ心には刺激が強すぎたようで。
「……う、ぅわぁ、あぁあ」
「あああ、そんなに泣いちゃ後でしんどくなりますよ」
ついに声を上げて泣き出したヨダを、ミドは慌てて抱き寄せた。小さな子供をあやすように背中をとんとんと叩く。実際この子は小さな子供だと、ミドは思った。幼い頃から誰にも愛してもらえなかったせいで成長出来なかった、小さな子供。
「……つらかったね……もう大丈夫だよ。怖いものなんて、ここには無いんだから」
そう優しく囁くと、ミドはときどきしゃくりあげるヨダの背中を撫で続けた。先ほど両親と一緒に浮かんだ、大切なものの存在を感じながら。自分には何か、目の前の彼と同じように守りたいものが、あったような。


『……どうしたんですか、近頃の君は元気がないです』
『ミド……』
『具合でも悪いんですか?それとも誰かに何か言われましたか?』
『ううん……違う』
『じゃあどうして』
『先生が』
『うん』
『……オレの親が、わざと家に火をつけたんだって、言ってた……オレだけ置いて、天国に行ったって』
『そんな』
『そのこと、ずっと考えてたら、何にもする気になれなくて。なあミド、オレって、いらない子だったのかなあ』
『そんなことないよ!』
『ミド?』
『そんなこと、ない。先生の話が本当でも、君みたいな優しい子、いらない子なはずないよ。君のご両親には何か理由があったんだよ。死ななきゃいけない理由……でも君にだけは生きててほしかったから、君のいない時に火を付けた。そうだよ、絶対そう!』
『…………』
『もういない人が何を思っていたのかなんてわからないけど……わからないからこそ前向きに考えようよ、ね』
『……うん、ありがとうミド。ちょっと元気出た』
遠い遠い記憶。その時ミドは、ずっとこの子を支えていこう、そう思った。両親を亡くして途方に暮れた自分の、唯一の友達。彼が辛い時は励ましてあげなくちゃ。困っていたら、助けなくちゃ。それが彼の、生き甲斐になった。

(絶対、守るからね。×××くん)

…………でも、あの子の名前が、顔が、思い出せない。本当にそんな子がいたのかも、今のミドは覚えていない。



「……ボクね、生きてる人の顔が見えないんだ」
ひとしきり泣いた後、腫れた目元を冷やしながらおもむろにヨダが話し始めた。今まで誰にも言わなかった、自分の目の話。ここまでやってしまったのだから、話さなくてはいけないと彼は思っていた。
「見えないって、どんな風にですか?」
ミドは疑うこともせずに尋ねた。もしかしたら信じてもらえないかも、という不安がヨダにはあったけれど、すぐに霧散してなくなった。密かに胸を撫で下ろす。
「うんとね、なんて言えばいいのかな……顔全体に、黒い霧みたいなもやもやしたものがかかって見えるの。払っても動かないし、目の錯覚とかでもないよ。本当にその霧の向こうの顔が見えないんだ」
「僕の顔も、今そう見えてます?」
「うん、初めて会った時から、ずっと……こんなに長いこと一緒にいるのに、ボクキミがどんな顔してるのか、知らないんだよ。酷い話だよね」
「ああ、だからさっきあんなこと言ってたんですね」
首を締められた時ヨダが呟いた言葉を思い出して、ミドは納得したように言った。
「うん、見えないのは生きてる人だけだって、最近わかったから」
「なるほど……見えなくなったのっていつからですか?」
「えっと……高校入ったばっかの頃だったから、ちょうど一年くらい前かな」
「生まれつき、とかではないんですね……何かそうなった心当たりは?」
いつの間にか問診みたいになってるなあとヨダは思った。だけど自分で全部話すのは少し辛かったから、話すべきことを聞いてくれるのはありがたかった。
「うん……ボク元々家族にあんまりいい思い出ないんだけどさ、顔が見えなくなる前の日、弟に大事にしてた蝶の標本を壊されたんだ。それで弟に怒ったら、何故か母さんがボクを怒鳴って叩いて、それで……こんな奴らの顔なんか見たくないって思ってたらなんか、壊れちゃったみたい。ボクの頭」
ああ、とミドは声を漏らした。そういうことだったのか。ヨダが心を病んだのは、やはり家族から愛されなかったからだったのかと、彼は納得した。
「それからずっと、見えなくても声とかで見分けてなんとか生活してたんだけどまあ、ストレス爆発しちゃってさ、ボク弟を……殺したんだ。その時に殴る度弟の霧が晴れてくのを見て、それで……」
「人を殴れば顔が見られるかも、って思ったんですね」
ミドがそう言うと、ヨダは静かに頷いた。
「最初は殺すつもりなんてなかったんだ。弟の顔が見たくて、ずっと殴ってたら、ぐちゃぐちゃになってて、やった後すっごくすっきりした自分が怖かった。でも弟を殺したから、ボクは母さんに何をされるかわからない。だから、母さんも……母さんも……」
言い淀むヨダの震える手を、ミドはそっと包み込むように掴んだ。もういいよ、と言ってやるように。
「それ以上、言わなくて大丈夫です。無理しないで……」
それでもヨダは首を横に振って、再び口を開く。言わなければ、自分のしてしまったことを全部。
「殺した、みんな殺した……家族だけじゃなく他人の命でたくさん実験した。ううん実験だけじゃない、ストレスの発散にも使った。悪い夢を見た日は絶対人を殺してた。人を殺すのが、気持ちいいって思う自分が気持ち悪かった。でもやめられなかった。やめなかった。殺さなくちゃって、ずっと思ってて……」
いつだって、殺したはずの母親の夢に苛まれた。弟が泣き喚きながら、血塗れの手でおもちゃの車を投げ付けてきた。名前も知らない死体に迫られた。もう何もかも、嫌だった。
「ねえミドちゃん、家族ってなに?ボクが知ってるものとテレビや友達の言う家族とは、違ってたみたいなんだ。もっとあったかくて、子供を叩く親なんていなくて、兄弟仲良しで。そういうのが家族って言うなら、ボクが殺した二人は、一体何だったの……」
絞り出すような声で尋ねた。何でも知っていそうな彼なら、答えを出してくれるような気がして。何かほしい言葉を、くれる気がして。しかし、ミドから返ってきたのは予想外の言葉だった。
「……それは、僕もわかりません」
ヨダは思わず、顔を上げる。
「知る前に、いなくなってしまいましたから。本当、子不幸な親ですよね」
そうだった。ミドには、家族がいなかった。愛情も暴力も、教える前に死んでしまった。
「だから、一緒に考えましょうよ。一昨日も言いましたけど、ヨダくんもここで暮らせばいいんです。家族に、なりましょうよ」
ああどうして、そういうことを言うのか。誰にも縋らずに生きていくつもりだったのに、揺らいでしまうじゃないか。
「でもだめだよ、キミがそう言ってくれたって、ライネとイヴくんはどうするの。ボクずっと、さっきだってライネに酷いことしてるし、許してくれないよ……」
ライネの冷たい声を思い出す。あの優しい彼があんなにも敵意を剥き出しにするほどのことを自分はしたのだ。それに今までだって、ヨダは彼のことを傷付けてきた。一緒になんて、いられるはずがない。
「そうですかね。僕の知ってる彼は、今の話を聞いて君を放っておけるほど薄情な人じゃないですよ。ね、ライネくん?」
「え、」
ミドが扉の向こうに話しかけると、息を飲むような気配がした。 そして、少し間をあけて諦めたように扉が開いて、ライネが部屋に入って来た。
「……ミド、気付いてたんなら言えよな……」
「すいません、黙ってた方がヨダくんも話しやすいかと思って」
「え、え、ライネ、いつからいたの」
「お前がミドにくっついて泣いてた時ぐらいから。盗み聞きするつもりはなかったんだけどさ……」
ヨダは混乱していたものの、ミドの首を絞めていたところは見られていなかったのかと胸を撫で下ろす。もし見られていたらとんでもない修羅場になって、自分の身の上を打ち明けるどころではなかっただろう。
「こっそり聞いちまったのは謝るけどヨダ、お前さ」
ライネが、ヨダの方へと近付いて来る。一体何を言われるんだろう。どんな言葉をぶつけられるんだろう。何と言われたって受け入れるつもりだったけれど、やはり身体は恐怖に硬直して。こんなに怯えたのは、家族を捨てて以来だった。それなのに。
「そんな大事なこと、黙ってないで言ってくれればあんなことしなくたってオレもこの身体のこと話したのに。オレだって普通じゃないんだからさ、お前の目のこと、疑ったりしないよ」
ライネは近付いて来るやいなや、ヨダの身体を自分の腕の中に招き入れてそう言った。ヨダは予想外のことに何が何だかわからなくて目を見開く。ボクを、責めないの?
「ど、して……何でそんなに、優しくしてくれるの」
声が上手く出せなかった。ライネの腕は暖かくて、やっと落ち着かせた涙がまた溢れてしまいそうだった。
「だってお前、自分のしたことの重さとか、全部わかってるだろ。オレが責める必要、ないじゃないか」
そう優しく囁きながら、ライネはヨダの頭を撫でる。
「お前さえよければいいよ、ここで暮らしても。薬もあるし話も聞くし、目が治るまで手伝ってやるよ」
そう言ってライネは顔を上げると、にかっと笑ってみせた。眩しいなあ、ボクより遥かに不幸な目に遭ってるのに、どうしてそんな風に笑ってくれるのだろうとヨダは思う。
「……でも、イヴくんは」
「ライネくんが言えば大丈夫ですよ。彼とっても気難しいですけど、ライネくんにはすっごく弱いんですよ〜」
「ミドお前、あとでどやされるぞ」
ライネが恐ろしいものを見るかのようにミドを咎める。思い返せば、イヴはいつもライネに対しては甘いような気がする。彼に冷たく出来ない何かがあるのだろうかと思考を巡らせると、質問が口をついて出た。
「ねえイヴくん拾ってきたのってさあ」
ヨダがそれを言い切る前に、ライネが青い顔をする。彼は人差し指を口元に当てて言わないで、とジェスチャーした。少し間をおいてその意味を理解したヨダもああしまった、と口を噤んだ。
「イヴくんが何かありました?」
「ななな何でもない!」
ミドが不思議そうに聞いてきて咄嗟に誤魔化す。ライネとイヴは毎日こんな風にミドに思い出させないようにしているのかと思うと、楽な暮らしではないなあ、と思った。



「……ほんとに、いいのかよ」
「いいよ。だってボク、人殺しだよ? キミたちに迷惑かけるわけにはいかないもの。でもありがとう、楽しかったよ」
ヨダがライネたちの家に来て7日目。腕の傷の抜糸が終わり、順調に回復に向かっていることがわかった彼は、予定通り家を出て行くことにした。一緒に暮らしたいのはやまやまだったが、そう都合良くいくわけにはいかない。
「困ったら、いつでも来てくださいね」
「うん、また顔を見に来るから」
少し寂しそうに話すミド。結局この一週間でヨダが彼の顔を拝むことは出来なかったけれど、多少は先に進めた気がする。相談出来る誰かがいるだけで、これほど気持ちが楽になるとは思わなかった。
「誰かを殴りたくなったらオレのとこ来いよ。話聞くし、多少は殴られても平気だから」
「駄目だよ、ただでさえ変態のライネがマゾになっちゃうもん」
「素直に殴りたくないって言え」
「あはは、まあ冗談は置いといて、今までお世話になりました。じゃあもう行くね」
「おう、元気でな」
「お元気で」
ぺこりと頭を下げると、ヨダは手を振りながら通りの方へ向かって歩き出した。そして数歩歩いたところで何かを見つけたのか、少し上の方へ向けて手を振った。それからはもう、振り向かずに人通りの多い道へ消えていってしまった。
「はあ〜……いっちまったか……」
「ああは言いましたけど、やっぱり心配ですね」
「ま、とりあえずは様子見だな」



「よかったのか? 見送りいかなくて」
ライネが二階の作業場に戻ると、中央の作業台の上にイヴが座っていた。ヨダのことを尋ねてみると相変わらずの仏頂面がさらに険しくなる。
「どうして俺があいつを見届けなくちゃいけないんだ」
「よく言うよ、窓から見てたくせに」
「っ! 」
からかうように言うと、イヴは知っていたのかと目を見開いた。ヨダが去って行く時に上に手を振っていたのをライネは見逃さなかった。そしてそれが、作業場の窓に向けられていたことも。
「お前のそういう観察力の高さが嫌いだ……」
「へへ、お前はよく見てないと誤解しそうになるからな。ほんとは優しい弟が冷たい奴に見られるのは嫌だよ」
「ふん、いい兄貴なことだ」
「だろー。……あ、やべもう時間だ。バイト行ってくる」
「気を付けてな」
ライネは工具箱をひっ掴むと、騒々しく下の階へ降りて行った。いつもは部屋で機械弄りばかりしていると思ったら、突然いろんな場所を駆けずり回ったりして忙しい奴だな、とイヴは思う。一日中ベッドの上だったあの日々を思えば、とても幸せなことなのだけれども。
「……さて、」
自分は何をしよう。このだらしなく散らかった作業場の整理でもしてやろうか、と思いながらイヴは作業台から降りようとした。しかしその瞬間。
「!」
床に足をつけたのと同時に、視界にノイズが走った。電源を切る直前のようなふわふわとした感覚に襲われ、そのまま倒れてしまいそうになる。すんでのところを何とか踏みとどまってやり過ごすと、やがてノイズは治まり、いつも通りの視界になった。
「何だ、今のは……」
何が起きたのかわからなかった。こんなことは初めてだ。メンテナンスも、怠っていなかったのに。ライネが何か見逃してしまったのだろうか。あの見かけによらず神経質なあいつが、そんなミスをするだろうか。いろいろと思考を巡らせたが、心当たりは思いつかなかった。何かの間違いだ、きっと。今はみんなの気持ちも落ち着いてきているのに、不安にさせたくない。何度も起きるようならライネに相談しよう。そう決めるとイヴは、何事もなかったかのように部屋の片付けをすることにした。そのノイズが、この家のこれからを左右することになるとは、これっぽっちも思わず。

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