ヨダは抑圧された子供だった。物心ついた時には父親はおらず、一緒に暮らしていたのは母と年の離れた弟だった。母は父によく似ているらしいヨダのことを見ず、弟を溺愛した。弟よりも質素な食事を出され、母に鬱憤が溜まっている時には理不尽に殴られた。幼いヨダは知りもしない父親に似ているなどと言われても弟よりも冷遇される理由がわかるはずがなかった。わからないからこそ、母に好かれようと努力した。母が自分を嫌うのは出来た子供ではないからだと。勉学に励み、美味しくない食事も好き嫌いせずに食べた。一度だけでも構わないから、母に褒めてほしかった。無意味だとは知る由もなく。
ヨダは美しいものが好きだった。母に殴られた日の夜は、机の中に隠した蝶の標本を眺めて気を紛らわせた。庭に落ちていた死骸の羽がとても綺麗だったので、 拾って彼の手で作った、宝物だった。それを眺めているとざわついた心が落ち着く。どうして自分ばかりこんな目に遭わなければならないのだ、何もしていないのに愛される弟が妬ましい。そんな思いはきらきら光る青と黒を見つめることで胸の奥へ飲み込んだ。
しかしある日、そんな彼の心の拠り所は唐突に消えて無くなった。
学校から帰ると、幼い笑い声が聞こえた。けらけらと、遊び道具を見つけたときの弟の声。新しいおもちゃでも買ってもらったのだろうかと思いながら部屋に踏み入ると、信じられない光景がそこにあった。
床に、黒と青の紙のようなものが落ちていた。ぢりぢりになっても変わらない美しさが、ヨダから顔色を失わせた。弟が、蝶の羽を毟り取って遊んでいたのだ。
「何、してっ……!!」
机の奥に入れておいたのに、勝手に覗いて取り出したのか。幼い子供の仕業とはいえ、唯一の救いを傷付けられたヨダは激昂した。思わず弟の頬を叩いた。弟が泣き叫んだのは、それからすぐだった。
「何をしているの!!」
弟の泣き声を聞いた母が恐ろしい形相で駆けつけて来て、状況を確認しようともせずヨダを殴りつけた。一度だけでなく、何度も執拗に。
「痛い、痛いよお母さん、どうして、●●がボクの大事なものを壊したのに!」
痛みと、どうしようもない理不尽に耐えかねたヨダは初めて、母に抗議した。それほど、蝶を傷付けられたことが悲しかった。それなのに。
「あんたがそんなもの●●にわかる場所に置いておくからでしょう!!」
あんたが悪いのよ、そう突き離すように言われた。その瞬間、ヨダは自分の中で何か、張り詰めたものが瓦解していく感覚を覚えた。ああ、母には何を言っても、 いくら頑張っても応えてもらえないのだと、その時に悟った。どろどろと、今まで飲み込んできた辛い思いが、胸の中で真っ黒く汚い泥のように立ち込めるのを感じた。醜い。何もかもが。兄を何とも思っていない弟も、それを咎めない母も。お前たちの、心が醜くて仕方ない。気持ちが悪い、醜い、醜い、醜い!!お前たちの歪んだ顔なんか見たくもない!!!
延々と殴られ続けながら、ヨダは二人へ呪詛を唱え続けた。その呪いが自分を母と同じ理不尽を振りまく生き物へと変えてしまうことも知らず。
次の日の朝、ヨダは家の玄関のドアの前で目覚めた。昨日激怒した母親に外へ放り出されたのだ。寒い。さすがにもう入れてくれるだろうかとノブに手をかけると、やはりドアは開いた。そろそろと母に気づかれないように部屋に入ろうとした。鞄だけ持って学校へ行こうかと。優等生で居続けた彼にはこんな日ぐらい学校を休む、などという思考は存在しなかった。それに学校は彼の逃げ場でもあった。友人と他愛のない話をしていると気分が紛れる。制服は昨日から着たままだったのですぐに家を出られる。シャワーでも浴びたいけれど、母に見つかっては何を言われるか。息を潜めて部屋のドアを開ける。弟が寝ているのが見えた。憎らしい。足音を殺して、弟が目を覚まさないように慎重に鞄の元へ歩みを進める、つもりだった。
「……え……?」
ふと、弟の顔が目に入った。そのまま鞄を手に取って家を出るはずだったが、何か違和感を感じてヨダはその顔を二度見した。おかしい。
「なに、これ……」
弟の顔に、真っ黒なもやがかかっていた。手で払おうとしても、それは手をすり抜けて顔の上に留まっている。まるでヨダに弟の顔を見せるのを邪魔しているようだった。
ヨダは恐ろしくなって鞄をひったくるように掴むと家を飛び出した。何かの間違いだ。見間違いだ。学校へ行こう。そうして帰ってくれば、きっと弟にかかったもやは消えているはずだ。そうだ、そうに違いない。顔なんか見たくない、そう思ったから幻覚か何かを見ただけなんだ。ヨダは走り続けた。学校の校門付近で、 顔にもやを被った生徒たちを見るまで。
「なんで、なんでだよ……」
どこを見ても、誰の顔も見えなかった。みんな黒いもやに遮られている。なのに、誰も彼もいつも通り談笑しながら歩いていた。まるでヨダ以外にはもやが見えていないかのように。
「あれ、ヨダじゃん!今日はいつもより遅いなー」
不意に後ろから肩を叩かれた。振り向くと、やはりその生徒の顔も見えない。気さくに話しかける彼が誰なのか、わからない。
「おい、どうした?顔色悪い――――ヨダ!?どこ行くんだよ!!」
気づくとまた走り出していた。怖い。これはきっと夢だ。突然みんなの顔が自分にだけ見えなくなるなんて、どう考えてもおかしい。家に帰って寝てしまおう。母はもう出かけているはずだから、大丈夫。寝て起きれば、きっと元の世界に戻っている――――
「ヨダ、あんたなんでこんな時間に寝てるのよ」
ぱんと頬を平手打ちされて痛みで目を開けると、またあの黒いもやが目の前に広がっていて、ヨダは飛び起きた。彼は母の顔さえも視認出来なくなっていた。そして、痛みによってこれは夢ではないという事実も突きつけられた。
「ごめん、なさい……すぐにご飯作るから、許して……」
「早くしなさい」
起き上がって、台所に立つ。野菜を切りながらヨダは考えた。どうして、顔が見えなくなってしまったのだろう。眠ったことによって頭はそれなりに冷静になったようで、落ち着いて今の状況と向き合うことにした。これは神様がボクの願いを叶えてくれたのだ。醜い顔を見ないで済むように。母の恐ろしい顔を覆い隠すために。そう考えると多少は心が落ち着いた。きっとそのときからヨダはおかしくなっていたのだ。
それから数日。ヨダは今までと変わらず学校へ通い、家では小さくなって過ごした。友達は声だけで誰だかはっきりわかるようになった。そうやって黒いもやに対して順応してきていたところだった。彼はもう一度、転機を迎えることとなる。
その日は学校が休みだった。母は仕事へ行き、ヨダは弟と留守番をしていた。ヨダはそれが苦痛でならなかった。弟には物を投げて遊ぶ悪癖があったからだ。時にはおもちゃの機関車を、時には積み木を投げた。ヨダが注意したって聞きやしない。弟は自分を馬鹿にしていると、ヨダは思っていた。実際彼は母の言うことだけはちゃんと聞く。だけれど母はそんな弟の悪癖を注意することなど一度もなかった。そのせいで弟の悪癖は次第に酷くなっていき、この日までにはおもちゃをヨダに投げつけるまでになっていた。嫌がるヨダを見るのが面白いらしい。本当に心の醜い奴だとヨダは弟を睨んだ。弟と同じ空間にいるのが、たまらなく嫌だった。
「痛い、やめてよ●●。ボクは的じゃないってば」
積み木が飛んできた。右腕にぶつかって、鈍い痛みが走る。上手く命中したのが嬉しいのか、きゃっきゃと笑う。小さな自動車が足に当たる。骨が悲鳴を上げた。 ヨダはうずくまる。こうして、弟が飽きるのを待とう。何かしら反応を返すから、弟は喜ぶのだ。今は堪えてやりすごそうと、そう思ってヨダはまた痛みに耐えた。
しばらくして、物が飛んでこなくなった。ようやく飽きたのかなと顔を上げると、信じられない行動をとっていた弟の姿にヨダは目を見開いた。
「やめて●●、そんなの投げないで……」
弟は頭の上に、大きな板を持ち上げていた。磁力で絵を描く、プラスチックで出来た分厚いボードを。ようやく反応してくれたと、弟は笑い声を上げる。けらけらと、顔が見えないにも関わらず、その声はヨダに酷い不快感をもたらした。ボードが、弟の手から離れる。ヨダの頭に、強い衝撃が降ってきた。同時にばち、と 目の前が真っ白になり、胸の中に立ち込めていた黒い泥が、かさを増していく。どろどろ、どろどろ。それは胸の中だけでは収まりきらず、頭に、手足に、身体中に満ちていく。気がつくとその泥は、ヨダの身体を弟の目の前へと動かしていた。たった今投げつけられた、ボードを持って。
ヨダは弟に、思い切りボードを振り下ろした。ばん、と硬い手応えがして、弟が泣き叫ぶ。即座に手探りで口を塞いだ。
「うるさい!! お前がボクにやってきたのはこういうことだ、わかるか! 物が身体にぶつかると、痛いんだ!!」
おもちゃの車を掴んで、弟の頭を殴った。いたい、と声がした。その瞬間、わずかに弟の顔にかかったもやが薄れた。あれほどヨダの視界を遮っていたのに、弟を殴った時だけじわりと、霧散して。もう一度、車をぶつける。また少しだけもやが晴れる。徐々に、徐々に。もう少し、もう少しだけ。もう少し殴れば、ボクは 弟の顔が見られるかもしれない。そんな期待が芽生える。いくら醜いとはいえ、今まで当たり前に見えていたものが突然、見えなくなってしまったのだ。誰の顔も見ることが出来ない。平気な振りをしていたけれどやはりその現象はヨダの心を着実に蝕んでいた。もう一度誰かの顔が、見たかった。
「はあっ……はあっ……●●……?」
完全にもやが晴れた頃、弟はもう動かなくなっていた。おもちゃの車とヨダの手には、真っ赤な血がべっとりとまとわりついていて。いよいよ完全にもやの晴れた弟の顔は、赤黒く腫れていて原型をとどめていなかった。結局ヨダは、弟の顔を見ることが出来なかった。殺してまでも。
そう、殺してしまった。ヨダは人を殺めてしまった。実の弟を。それなのに、ヨダが殺人によって初めて得た感覚は。
「ふ、ふふ、ふ……」
開放感だった。憎い弟が、もうこの世からいなくなった。もう物を投げつけられることはない。もう大切なものを壊されることはない。……もう母さんの偏った愛情を受けるものはいない。それが嬉しくて。ヨダは人を殺してしまった事実を、そうやって受け入れた。
死んでしまった弟の身体は、とりあえず冷蔵庫の中に入れた。不思議と気持ちは落ち着いていて、部屋の隅でぼんやりと母の帰りを待った。弟がいなくなったからといって、自分が母に愛されるようになるとは思っていなかった。ヨダは蝶が壊されたあの時から、自分が母に愛されることはありえないと悟っていたから。だから、もういい。もうこんな苦しみ、終わらせてしまおう。夕日が差し込みオレンジに染まった部屋の中、ヨダの手には、金槌が握られていた。
「――――でもやっぱり、愛してほしかったよ。……さよなら、お母さん」
二人の死体は誰もいない夜中に庭に埋めた。母は近所付き合いをしていなかったから、すぐに気づかれる可能性は低いだろう。とりあえずは死臭を防いで、あとは夜逃げでもしたかのように見せかけてしまおう。家中にあった金目の物と血を拭った金槌を鞄に詰め、ヨダは玄関の扉を開けた。ボクはもう、自由だ!
「やめて、助けて……お金なら、あげるから……」
「うーん、お金はいいよ。っていうかあなたを殴ってから勝手にもらうね。ボクお金はほしいけど、それが目的じゃないんだ」
あなたの、顔を見せて。
薄暗い路地裏へ、ヨダは母と同じ歳くらいの若い女を引きずり込んだ。あれから意気揚々と家を出たものの、彼は自由になどなれなかった。毎晩毎晩、顔の潰れた母と弟が夢に出ては、ヨダに縋り付くのだ。痛い、痛い、どうして殴ったの、あんたは殴られるのが嫌いだったでしょう。人にされて嫌なことはするなって、お母さん教えなかった……?などと言いながら。あんたから教えられたことなんて何一つないと一蹴しても、次の日には弟が自分を責める。こんな夢を見るのは誰の顔も見れないストレスのせいだと、そう思った。誰かの顔を見なければ。顔を見るためには殴らなければ。来る日も来る日も彼は人を殴って、ぐちゃぐちゃに潰れた顔を見た。そうして今まで何人も殺してきたけれど、綺麗な目と鼻と口を見られた日は、なかった。一体どうすれば、もやを晴らして綺麗な顔を見ることが出来るのだろう。どうしてボクは、こんな目をしているのだろう。答えを見つけられないまま、ヨダは目の前の女を殴った。ただ殴らなければ。殴っている間は、今まで起きた嫌なことや、夢の内容を忘れられた。
「あぐ、いた、いたい……」
女が小さく声を上げる。構わずに殴る。もやが晴れていく。血が跳ねる。知らない、もう何も知らない。早く顔を見せて、お願いだから。夢中で殴り続けると、やがて女は動かなくなった。ぐちゃぐちゃに腫れた顔を見せながら。ああ、今日もだめだった。ヨダはため息を吐いて女の持ち物を漁った。財布から金を抜き取って捨てる。彼は家から持ってきた物を売った金と、こうして殺した相手から奪った金で生活していた。
「ありがとお姉さん、顔を見せてくれたら最高だったけどね」
しゃがみ込んで、女に挨拶をする。それから金槌の血を拭って立ち去ろうとしたその時、背後で足音がした。
「……あ」
後ろに、誰かが立っている気配。見られた。殺人現場を。反射的に、口を封じなければならないと思った。金槌を握り直して、それを目の前の人間に振り下ろそうと、ヨダは顔を上げ振り向いた。すると。
「イヴ、イヴ。やばい、もしかするとオレ、死ぬかも。いや多分死なないけど……」
見ていたのはヨダとそう歳の変わらなさそうな白髪の少年だった。携帯電話を耳にあて、誰かと会話をしている。その顔は青ざめていて。……顔?
「……うそ」
少年の顔にはもうすっかり見慣れたもやがなかったのだ。少年の忙しなく泳ぐ青い目も、鼻も口も、今まで全く見ることの出来なかった他人の顔が、はっきりと見える。どうして。
「なんで、見えるよ、キミ、何なの……?」
ヨダは金槌を振り下ろすのも忘れて、少年の顔に無遠慮にべたべたと触れた。手に付いた返り血が少年の白い頬を汚す。
「ひい、それはこっちの台詞……!」
壁際に追い詰められ、ぎゅっと目をつむって少年は震えていた。無理もない。突然人殺しに出会った上、間近で顔に触られているのだ。恐ろしいと思わない方がおかしい。ヨダはその怖がる顔を真剣に見つめた。いつも自分が殺す人たちも、こんな表情をしているのだろうか。
殴ったときには、どんな顔を。ふつふつと湧き上がる興味。いずれにせよこの少年は殺さなければならないのだ。ヨダはもう一度金槌を握る。とても残念だ。せっかく顔の見える人間に出会えたのに。もっと別の機会に会えたなら、たくさん観察出来たのに。
「ごめんね、出来るだけ早く殺してあげるから」
これから殺す相手に謝ったのは、初めてのことだった。同じ少年だったから、親近感が湧いたのかもしれない。金槌を高く振り上げて、彼の真っ白な頭目掛けて落とした。鈍い音と、硬い感触が手に触れる。
「ぐっ……ああ……」
ずるずると、少年は頭を押さえて壁に身体を預けた。苦しそうだ。どくどくと血が流れて彼の白い髪を濡らす。それを見てヨダはなんとなく、あの壊れた蝶の羽を思い出した。黒と青とは対照的だけれど、はっきりと区別のつけられた白と赤が、綺麗だ。朦朧としているのかときどき彼の目蓋が開き、青い瞳がゆらゆらと揺れるのもいい。もやがないとこんなに綺麗なものが見られるのかとヨダは思い、痛みに呻く少年に見とれた。
「ああ、ごめんね。早く殺してあげるって言ったのに」
ずっと見ていたかったけれど、あまり長くここにいるのもまずい。彼も苦しいだろうからと、今度は数回殴った。すると少年はついに地面に倒れ、動かなくなった。
「ほんっと、勿体無い……こんな子もう会えないだろうなあ」
名残惜しくて、少年の髪を撫でた。さらさらしていた白いそれは、大量に流れた血でべたついていた。それでもヨダにはそれが美しく見えて、なかなかその場を離れられないでいた。すると突然、首筋にひやりとした感覚が。
「――――そいつから離れろ」
背後から声がした。酷く無機質な、冷たい声。警官か何かに見つかってしまったのかと咄嗟に振り向くと、ヨダはまた驚かされた。
「びっくりだなあ、また顔の見える人だ」
そこには少年とは対照的な黒髪と赤い目の、人形のように無表情な青年が立っていた。彼の顔にも、黒いもやはかかっていなかった。見たところ、警官ではなさそうだが。
「早く離れろ。斬るぞ」
青年がヨダを睨む。ヨダは首に触れる冷たいものの正体に気づき、大人しく立ち上がって少年の身体から離れた。青年の手には、刀が握られていたからだ。
「キミ、この子の知り合い?残念だけど、彼はもう……」
死んでる、と言うヨダの話はまるで聞いていないという様子で、青年は刀を仕舞いだらんと脱力した少年の身体を抱えた。おそらくだが、知り合いが死んでいるはずなのに不気味なまでに彼は冷静で、ヨダは首を傾げる。
「その子、どうするつもり?」
「お前に教える義理はない」
「あーもしかして、死体愛好家か何か?確かにその子綺麗だけど……」
ふと思いついた考えを口にする。もしかすると自分が殺した死体を回収して眺めるのが趣味の人なのかと。だったらこの冷静さにも頷ける、と思考を巡らせていると。
「――――ぷっ、」
何処かから、吹き出す音が聞こえた。青年の方向から聞こえた気がしたが、彼は先ほどから感情の希薄な無表情を貫いていて、彼のものだとはとても思えない。一体誰が笑ったのかと耳を澄ませていると、今度はよりはっきりとした笑い声が沈黙を破った。
「ふ、ふふ、あははは!死体愛好家って……!イヴ、酷い言われようだなあ」
ヨダは目を疑った。驚くべきことに、さっきこれでもかと殴って殺したはずの少年が、青年に抱えられたままからからと笑っていた。
「馬鹿、声を出すな。死んだ振りしてろ」
「無理だよ、だってお前怪しすぎるんだもん。もうちょっと慌てるとかしろよ」
「無茶言うな。嘘は吐きづらい仕組みなんだ。知ってるだろ」
イヴと呼ばれた青年は、少しいじけた様子で少年を地面に下ろした。多少ふらついていたが自分の足で立つ少年は、まるで何事もなかったかのようで。ヨダは映画でも見ている気分だった。
「はは、今日はおかしなことばっかり起きるなあ……何なの、キミたち」
「さっきも言ったけどそりゃこっちの台詞だって……いきなり殴ってきやがって」
すっかり調子が戻ったらしい少年はヨダを睨んだ。血が垂れてくるのが鬱陶しいのかぐいぐいと頭に怪我をしているとは思えない勢いで額を拭っている。
「口封じで殺したって面倒事が増えるだけだって。そもそも人殺しとか……」
「ライネ、こいつに何を言ったって無駄だ」
説教じみたことを言う少年(ライネというらしい)を遮って、イヴが口を開いた。彼の方が理解力がありそうだなと、不毛な説教が嫌いなヨダは思った。そもそも彼は殺すのが目的で人を殴っているのではないのだから。
「なんでだよ」
「知らないのか?こいつ、最近この街を賑わしてる通り魔だ。誰彼構わず顔を潰して回っているとか……まさか、こんな子供が犯人だったとは思わなかったが」
「そう、なんだ……とりあえず酷い奴だってのはわかった」
「少しは作業場から出ろ。テレビやネットで引っ切り無しに報道されているのに……」
「ん、まあ反省するけどさ、バイトの作業もあるし……お前みたいに常にネットに繋がってたいよ」
二人の会話に引っかかるところがあってイヴの方を観察すると、鎖骨の辺りに電源スイッチを示すマークが刻まれていた。人形みたいに冷たくて無機質な男だなと思っていたが、どうやら本当に人形だったらしい。正確には、アンドロイドという機械だが。ヨダが本物を見たのは初めてで、こんなにも人にそっくりだとは知らなかった。テレビで見たアンドロイドはもう少し生気がなくて不気味なくらいだったのに。興味深くて観察を続けていると、不意にぎっと睨みつけられた。冷たい作り物の目が、ヨダを射抜くように見ている。咎めるでもなく、ただ敵意を、嫌悪を向ける視線。どうやら彼にとってライネという少年は、ヨダにとってのあの蝶と同じものらしい。傷付けられたのが憎い、そう言っている。
「……で、こいつはどうする。捕まえて警察に突き出すか?」
イヴが再び刀に手をかけた。まずい。まだまだ捕まるわけにはいかないのに。ヨダは脚には自信があったが、今逃げたところで顔を見られている。通報されて似顔絵でも描かれてしまった日には外を出歩けなくなる。……が、ヨダにも強みはあった。一か八かの賭けではあったが。
「捕まらないよ、ボクは。今はここから逃げてみせるし、通報でもしようものならそこのゾンビみたいな彼のこと、言いふらしてやるから。困るんでしょ?世間に知られちゃうの。きっとモルモットにでもされるものね」
二人が少年の身体のことを他人に知られるのを恐れているというのは、先ほどの行動から明らかだった。こんな苦し紛れで脅迫紛いのやり方はあまり好ましくなかったが、今のヨダはなりふり構っていられなかった。
「……ここで捕まえるしか、なさそうだな」
イヴの刀にかけた手に、力が入るのをヨダは見た。その瞬間彼は後ろに跳んだ。目の前を、青白い線になった刀が横切っていく。ヨダの着ていたオーバーオールの肩紐が一本切れた。即座に走って距離を取る。
「あっぶない……まともに相手したら殺し返されちゃうね。やっぱり逃げるのが正解だ。キミたちともう少しお話したいけど、仕方ないや。……ライネっていったっけ?綺麗だねキミ。もしまた会ったら今度はもっとゆっくり見せてね」
そう言ってにっこりと笑いかけると、ヨダは路地の奥へ走った。あの一筋縄ではいかなさそうなアンドロイドに追いつかれないように。
「待て……!」
「やめろイヴ、追いかけなくていい!」
ヨダを追いかけようとするイヴのパーカーのフードをライネが掴んで引き止めた。イヴには首を締められて止まる息はないけれど、いきなり引っ張られてついう、と声が出た。
「どうして止める」
「いや、その……危ないだろ。お前俺ほど丈夫じゃないんだから、もし殴られでもしたら」
「…………」
そんなことはありえない、と言いたかったが、やめた。ライネに心配をかけたくなかったし、イヴにはどうしても壊れるわけにはいかない理由があったからだ。
そしてヨダは賭けに勝った。彼らは通報をしなかったようで、テレビは相変わらず通り魔事件の捜査が進展していないことを伝えていたし、ヨダの元に捜査の手が伸びることもなかった。
「お前さ、この前なんであんなこと言ったの。口説き?オレ男だよ」
次にヨダがライネに会ったのは意外とすぐだった。その時にもライネはヨダに出会い頭に殴られだらだらと額から血を流していて、それをヨダは機嫌良さそうに眺めていた。
「知ってるよ。ボクそっちの気はないもん。キミの髪がすっごく綺麗だったから、それで」
「あー……顔じゃないのか。初めて言われたから実はちょっと嬉しかったのに」
「んなわけないじゃん。確かに普通よりはいいと思うけど、整ってるわけじゃないし。顔が綺麗ってんならイヴくんに言うよ」
「お、あいつの整備してる身としては嬉しい一言」
「へえ、キミそういうの出来るんだね。そういえばこの前工具箱持って歩いてたっけ……ボクね、イヴくんの目が特に好きなんだ。綺麗だよね」
赤くてつやつやしてるところも好きだけど中でも、あの冷たい視線が。と付け足す。ヨダは以前受けたイヴからの憎悪を孕んだ視線に、何かぞくぞくと込み上げるものを感じた。美しいと、そう思った。真っ直ぐに自分に向けられた嫌悪感が。真っ直ぐなものは綺麗だ。ぐちゃぐちゃに歪んでしまった自分には無いものだ。 ヨダは自分が異常であることを理解していた。理解していなければ『普通』を演じることは出来ない。異常が自分にとって普通になってしまえば、自分が異常なことをしているとわからなくなる。そうすれば他人に気づかれやすくなる。気づかれてしまってはヨダは逮捕なりされ、他人の顔を見るという目的を達成することが出来なくなってしまう。イヴの視線はヨダのしていることが異常であると、彼自身に確認させてくれるものだった。
「何お前、マゾなの」
「違うよ。あーでも彼相手ならいいかもしれない」
「うわあー、マジもんだ」
「まあいいじゃない、キミだって変な性癖の一つや二つ持ってるでしょ」
「ねーよ!」
「嘘だあ、機械の回路とか部品にコーフンするとか、そういうのないの?」
「なっ、んで、そんなのあると思った!?」
「その焦り様はあるってことだね……あーあイヴくんかわいそう」
「ない!ないから!!……あ」
必死で否定するライネの顔が急速に青ざめていく。ヨダが振り向くと、案の定イヴがそこに立っていた。前と同様刀を持っているけれど、振り下ろしてくる気配はない。
「……俺には性欲とかそういうものがないからよくわからないんだが……出来れば人間相手に興奮した方がいいと思うぞ……?」
この前は真っ直ぐヨダを睨んでいた赤い目が激しく泳いでいた。彼に顔色というものがあったならきっとライネ同様青ざめていることだろう。
「違う!違うってイヴ!!」
立ちくらみを起こしながらイヴに縋りついて弁解するライネの姿がどうにも可笑しくて、ヨダはくすくすと笑った。こんな風に笑ったのは、随分久しぶりだと彼は思った。
それからもヨダは、街でライネの背中を見つける度に殴りかかっては彼の髪を眺め、彼を助けに来たイヴの刀を避けた。彼ら二人に絡むのは目的とは関係がなかったが、友達と遊ぶ感覚で(彼らにとってはいい迷惑だろうが)なかなか楽しかった。次第に二人の性格なんかもわかってきて、たまには他人をよく観察するのも面白いと思った。例えばライネの方は、初めは理解力がないかと思ったが意外と聡い人間らしい。余計ないざこざを好まないタイプのようで、相手と口論をする前にさりげなく自分から一歩引く。そうやって気づかないうちに彼のペースに呑まれて楽しくおしゃべりをしているうちに、ヨダはときどき彼を殴るのを忘れてしまう。だけれどヨダは彼とする快適で他愛のない会話が好きだったので、別に構わなかった。
イヴの方は、無表情に見えて実は表情豊かだ。性癖の話の時もそうだし、意外に狼狽えたりもする。やはり機械なだけに、予想外のことが起こると結構焦るらしい。といっても表情の変化はごくわずかだが。ヨダはそんな彼のわかりにくい変化を見つけたときの達成感が心地よかった。
そんな二人と関わることで、ヨダは顔の見えない人を殴り殺しては落胆するストレスを和らげていた。ライネのくるくると変わる表情を見て癒され、イヴの冷たい視線を受けて自分の異常性を見失わないでいた。自分が未だに捕まりもせず目的のために奔走出来ているのは、彼ら二人のおかげだとヨダは思う。二人には皮肉なことかもしれないけれど。
そうして彼は今日も顔の見えない誰かを殺す。人間でないイヴはともかく、血を流す立派な人間であるライネの顔が何故見えるのかという小さな疑問を抱きながら。