「…………」
薄暗い路地裏から、ヨダは道行く人々の顔を眺めていた。誰も彼も、黒い霧をまとって歩いている。気味の悪い光景だ。これ以上見たくないから、早く路地の奥へ行ってしまいたい。なのに今のヨダには、身体を動かせるほどの力がなかった。
「っ……」
彼の左の二の腕からは、大量の血が流れ出ていた。ナイフで深く切りつけられた跡。襲った人間に、また反撃されて出来た傷だった。ライネと喫茶店に行った日、あの死体を見てからどうにもおかしい。どう頑張ったって死体の顔しか見ることが出来ないと悟ってから、金槌を握る手にためらいが生まれるようになってしまった。それでもたついている間に反撃されてこの様だ。腕には自分の服の切れ端を巻いているけれど、血は止まらず気休め程度にしかならない。出血と炎症による熱で、ヨダの意識は朦朧としていた。
(そろそろ、死ぬのかな)
他人の顔を見る、という目的を失ったも同然で、ヨダは半ば生きる気力も失い始めていた。別にもういいか、母親と弟の元に行くのは絶対に嫌だから、天国なんてなければいいなあと思いながら、ヨダは目を閉じようとする。
「……にゃあー」
その時、何かの鳴き声がした。見ると、小さな黒猫の子供がヨダの足元で鳴いていた。つぶらな瞳が、彼を心配そうに見つめている。見たところ、周りに親猫はいないようだ。
「キミも、家族に良くしてもらえなかったの……?」
ひとりぼっちの子猫と、自分の姿が被る。震える手で頭を撫でてやると、ごろごろと喉を鳴らしながら目を細める姿が、可愛らしかった。
「いいね、キミたちは、醜くなくて……」
顔の見えない人間たちは醜い。もうそんな顔を見るのはたくさんだと、ヨダは今度こそ目を閉じた。
「あー……今日は疲れた」
バイト帰り、ライネは疲弊した顔で道路を歩いていた。何もしてないのにパソコンが壊れたと言う依頼人のおかげで。少し操作を誤っていただけで実際には壊れていなかったからすぐに仕事は済んだのだけれど、そんなにすぐ直るわけないだろとかなんとか文句をつけられてとても面倒だった。一応説明はしたのだけれど聞く耳持たずで金は払わないだの言われ、挙句の果てにはお前みたいな若い奴の言い分なんか信用出来ないとまで。結局お金は話のわかるその人の家族にもらったのだけれど、どうも不愉快でならない。特に最後の言葉は。好きで若いままでいるわけじゃない。
「やだなあ、帰ったら愚痴りそうだ……ん?」
早く家で待つ家族に会いたい。そう思いながら歩いていると、足元に何かが纏わり付くのを感じてライネは下を見た。
「にゃあー」
纏わり付いていたのは黒い子猫だった。ライネを見上げながら鳴き声を上げている。
「お、可愛いなお前……癒してくれー」
愛くるしいその猫にいいタイミングだなあと触れようとすると、猫はライネの手をすり抜けて走り出した。
「うあ、寄ってくる割に触らせたくはない、ってやつ?」
そう呆れながらも、猫の向かう方向へ目を向ける。途中で振り返って戻って来てくれないかなあ、なんて考えながら。すると猫は細い路地の途中で立ち止まった。だけどライネのことを振り向くことはせず、何かを見つめているようだった。ライネもその薄暗い場所を見る。すると室外機の向こうに、何か人の手のようなものが見える。
「げ……嘘だろ」
もしかして死体とか。そんな不吉な考えが湧いて出てきて、寒気がするのをライネは感じた。見に行くのは嫌だったけれど、好奇心というものは厄介なもので、彼はいつの間にか室外機の前まで歩いていた。そして、不気味な手の持ち主の姿を拝む。
「……まじかよ」
いつも眩しいくらい元気で、しょっちゅうライネに絡んでくるヨダが、そこにぐったりと倒れていた。
「なあライネ」
「うん……」
「お前は本当にこういうものを見つけるのが得意だよな」
「オレだって好きで見つけてないって」
ヨダを見つけてすぐ、ライネは救急車を呼ぶか迷った。だけどヨダが普段していることを考えると、病院送りにするのはまずいのではないかと思った。普段慣れ親しんでいるとはいえ、彼は犯罪者なのだから。本当は捕まってくれた方がライネも世の人も楽になるのだろうけれど、以前ヨダに脅されたことを考えると救急車を呼ぶのはいい手段ではない、と自分たちの家に運ぶことにした。専門ではないとはいえ、ミドならこれくらいの怪我の手当ては出来るだろう。しかし自分一人ではヨダを運んでやれないと思ったライネは、電話で怪我人がいると言ってイヴを呼んだ。彼はライネの頼みとあってすぐに駆けつけてくれたけれど、怪我人が誰だかわかるとさすがにしかめっ面をした。
「いや、別に倒れている人間を保護するのは構わないんだ……俺もその内の一人だから言える立場じゃないし、お人好しなのもお前のいいところだと思ってる。だがさすがに、こいつはまずい」
いくらイヴがライネに甘いとはいえ、殺人鬼を家にあげる気にはなれない。
「うん、わかってるんだけど……ちょっとでも喋ったことのある奴が死にかけてたら何とかしたくなるよ」
このままもしヨダが死んでしまったりしたら、きっと寝覚めが悪くなる。それにライネは、年下が苦しんでいるのを見るのは特に嫌だった。炎の中もがいていたであろう妹と重ねてしまって。この前ヨダと喫茶店で食事をした時から、尚更それが顕著だ。
「それはそうかもしれんが……ミドはどうする。俺やお前ならこいつに襲われても対処出来るが、あいつはきっと殺されるぞ」
「ミドは……手当てが終わったら知り合いの家に避難しといてもらう」
「苦しいな。そう上手くいくか?」
「でもそれしかない」
「…………」
イヴは黙り込む。例えライネの頼みでも、きけないものはある。いくら知っている人間だからって、ミドを危険に晒してまで助けなくてはいけないのだろうか。
「……ぅ……」
そうこうしている間に、ヨダが小さく呻いた。苦しいのだろうか。
「! ……イヴ、」
早く手当てしてやらないと危ない。ライネはイヴを縋るように見上げた。
「っ……この、馬鹿……!」
「ん…………」
「あ、起きました?おはようございます」
目を覚ますと見慣れない景色と顔の見えない人間がすぐそばにいて、ヨダはぱちぱちと瞬きをした。身体も、意識を失う前より楽になっている。助けられた、そう気付くのにそれほど時間はかからなかった。
「キミ、だれ……?」
「あ、失礼しました。僕はミドっていいます。ここでお薬を作ったりしてる科学者もどきですよ。僕の友達が倒れてた君を連れて来たんですけど、多少は医学もかじってるので怪我の手当てをさせていただきました」
「そう、ありがとう……」
左腕を見ると、傷口に包帯が巻かれていて、額には熱を下げる冷却シートが貼ってあった。顔にはもやがかかっているけど、親切な人もいたもんだ。そうぼんやりと考えていると、突然部屋の扉が開いた。
「ミド、そろそろ食事に……」
ミドを呼びに部屋に入ってきた人物に、ヨダは驚いた。それが今まで見知った、イヴの姿だったから。
「イヴくん!」
思わずヨダが声をかけると、イヴも驚いた顔をした。結構レアな表情だなあと、ヨダは内心面白がる。
「な……おいミド!こいつが起きる前に家を出ろって言っただろう!」
「だって傷の縫合なんてしたの初めてで……経過見たいですしほっとけないですよ。この子ご飯もまともにとってないみたいですし」
「それは俺たちが看るからいいって言っただろ!お前といいライネといい俺の胃に穴を開けるつもりか!」
「やだなあイヴくんに胃なんてないじゃないですか」
「ものの例えだ馬鹿!!」
珍しい。イヴが誰かと揉めているなんて初めて見る。原因が何かは明白なので、ヨダはすぐに口を開いた。
「心配しないでよイヴくん。ボクさすがに助けてくれた人を殺すような恩知らずじゃないからさ。まあ、信用出来ないみたいならすぐに出て行くけど」
そう言って、ヨダはベッドから降りようとする。身体を動かすと頭の中がぐらつくような気がして、熱が出ていることを実感する。
「だめですよ、まだ熱高いんですから。ちゃんと栄養摂って休まないとまた倒れちゃいますよ」
ヨダの足が床につく前に、ミドはそれを制した。ヨダをベッドに戻すと、少し乱れたシーツを直してやる。
「ミド」
「大丈夫ですよイヴくん。僕だって自分の身は自分で守ります。それに彼だって手は出さないって言ってるじゃないですか」
イヴはため息を吐いた。こうなったミドは何を言っても聞かない。昔痛いほど経験しただけあって、それ以上は何も言えなかった。
「……わかった。そいつの面倒はお前に任せる。俺は何をすればいい」
「お粥か何か、簡単に食べられるもの作ってもらっていいですか?」
「わかった」
イヴは短く返すと、ドアに手を掛ける。そして部屋を出て行く前に、振り返ってヨダを睨みつけた。
「いいな、そいつに手を出したら俺は他の奴らが何と言おうとお前を殺す」
昔いろいろあったとはいえミドだって、イヴにとっては大事な家族だ。それに何より、ミドが傷付けられたらライネが悲しむ。そんなことにならないよう、思い切り釘を刺す。
「わあ怖い。出さないよ、安心して」
ヨダがそんなイヴの威圧感もものともせず軽く返すと、イヴは無言で部屋から出て行った。
「あはは、相当嫌われてるなあボク」
ヨダはからかうように言って、布団の中に潜り込んだ。恩人とはいえ、あまりミドの曇った顔を見ていたくない。
「……キミは、ボクのこと怖くないの」
ふと浮かんだ疑問を口にする。どうして逃げないのか。目の前にいるのは街の人間をたくさん殺した殺人鬼なのに。
「そりゃあ、怖いですけど……ライネくんが連れてきた人だから、悪い子ではないと思ってますよ」
「ライネのこと、信頼してるんだ」
「ええ。優しい人ですから、彼は」
揃いも揃ってお人好しなんだなあ、とヨダは思った。こんな厄介者、放っておけばのたれ死んでいるのに。
「ま、とにかく……抜糸出来るようになるまではここにいてくださいね。君の腕、結構酷い怪我でしたから。それくらいには、栄養不足も少しは解消してるでしょうし……」
「え?」
思わず、ヨダは布団から顔を出した。
「そんなに長いこといていいの?抜糸って、そこまで傷が治るまで一週間ぐらいかかるんでしょ?」
「そうですね。君の場合もう少しかかるかも……でもいいんですよ、それくらい平気です」
「なんで、こんなの早く追い出したいでしょ」
「そんなことないですよ。追い出したりしたら僕きっと後悔します。僕のためだと思って、しばらくここで安静にしていてください」
ね、お願いです。ミドは半ば強引にヨダを引き止めると、ぎゅっと彼の手を握った。
「なんでそんなに必死なの……ま、キミたちがいいって言うならボクはありがたいけど……」
そんなミドに押されるように、ヨダは言った。この人はどうしてこんなにボクを置いておきたいんだろう。
「じゃあ決まりですね!」
するとミドはなんだか嬉しそうな声を上げた。ヨダには彼の表情がわからないけれど、きっと笑っているのだろうなと思った。
「おっひるーおっひるー……あれ、イヴ何作ってるんだ?」
ライネが昼食を食べに階段を降りてくると、イヴが鍋で何かを煮詰めているのに気が付いた。
「……あいつの飯だ」
鍋に卵を落としながら、明らかに不機嫌そうな声で返される。目も合わせてくれなくて、ライネはまずいことを聞いてしまったなと瞬時に察する。
「なあイヴごめんって――――」
「ミドは出て行かなかったぞ。どうするつもりだ」
なんとかイヴの機嫌を直そうとするライネを遮ってイヴは言った。ミドを避難させる計画はミド自身によって頓挫してしまった。
「え、そ、そうなのか!?」
「おまけに自分があいつの世話をする、なんて言ってる。どういう考えかは知らんが」
「! へえ……ミドが……」
ミドの行動にライネは驚いたものの、すぐに口元に手を当てて考え込む仕草を見せた。
「止めなくていいのか」
「んん……ミドの好きなようにさせてやって。あいつがやるって言うときは止めたって聞かないし。何かヨダに思うところがあるんだろ」
「……っとにお前たちは……もう好きにしろ」
イヴは今まで以上に派手なため息を吐くと、諦めたように言った。幼馴染の勘か何かだろうか、ライネはミドなら大丈夫だよ、みたいな顔をしている。
「…………」
ああもう腹が立つ。イヴはスプーンを手に取ると鍋の中身の卵粥を掬い、ライネの目の前に差し出した。
「な、何?」
「味見」
ぶっきらぼうに答えるイヴにびくびくしながら、ライネは粥を口に運ぶ。
「ん……おいしいよ、いつも通り。急になんで」
「無意識のうちに酷いものを作っていたかもしれないと思ってな」
「お前ほんとヨダのこと嫌いなのな……」
「――――じゃあヨダくんは、ずいぶん遠くからいらしたんですねえ」
一方でイヴの心配も露知らず、ミドとヨダはおしゃべりに花を咲かせていた。顔が見えないので最初は萎縮していたヨダだったが、話してみるとミドは結構な聞き上手で、真っ黒い顔もあまり気にならなくなっていた。
「うん、気付いたらここに来てた。いろんな場所転々としてたから、ライネに会わなかったらこの街からもすぐに出てただろうなあ」
「彼、面白いですもんねいろいろと」
「やっぱり科学者的には解明したくてたまらない感じなの?ライネの身体のこと」
「まあ、最初はそればかり気になってましたけど……今は一緒にいるだけで楽しいです」
「へえー、ボクも似たようなもんだなあ」
ぺらぺらとライネについて話をしていると、扉をノックする音がして、少し間を開けた後ゆっくりと扉が開いた。
「どうも〜元気してるか?」
「わー、噂をすればライネだ」
入ってきたのはお粥の器を持ったライネだった。
「何、オレの話してたの?」
「うん、キミってどうしようもない奴だなって話」
「え」
「あはは、嘘嘘。ライネっていい奴だね〜って話してたの。喜んでいいよ」
冗談を言うと固まるライネが面白くて、ついからかってしまう。すぐに本当のことを言い直すと、それにも彼は複雑そうな顔をした。
「な、何だよ……褒めてもお粥しか出ないぞ」
照れ臭そうにライネはヨダの目の前にお粥の入った器を差し出した。均一に卵の散った、綺麗な卵粥だ。真ん中には刻んだ葱が乗せられている。
「わ、おいしそー……これイヴくんが?」
「うん、なんだかんだ言ってちゃんと作ってくれた。だからしっかり食べて精つけろよー」
そう言ってライネはにかっと笑って、ヨダの頭をわしわしと撫でた。
「そうだね、ありがとう……」
撫でられた部分が妙にくすぐったくて、ヨダはそこに手をあてる。やっぱりライネはお兄ちゃんみたいだ。
「あ、ミド、オレたちもそろそろ昼にしようぜ。ご飯が冷めるってイヴがカンカンだ」
「そういえばイヴくんさっきはご飯に呼びに来たんですっけ……早く行かないとですね。あ、ヨダくんも向こうで一緒に食べます?」
「ん……ボクはいいや。まだ身体だるくてあんまり動けないし」
ヨダは一瞬だけ迷って、そう答えた。実際全身の倦怠感と腕の痛みはまだ残っていたし、少し一人で考える時間がほしかった。
「そうですか……じゃあ、元気になったら一緒におんなじもの食べましょうね」
今度は優しく頭を撫でられる。ヨダははっとしてミドを見上げた。どうして、そんな素敵な言葉をかけてくれるの。表情は相変わらず見ることが出来ない。だけれど柔和な笑みを浮かべているであろうことは、声の調子でわかった。
「んじゃ、適当に休んどけよ〜」
何か返事を返す前に、ライネとミドは部屋から出て行ってしまった。目が覚めて以来初めての静寂が訪れ、少し心細くなる。とりあえずは、お粥を食べてしまおう。考えるのはそれからだ。目の前で軽く手を合わせてから、スプーンを口に運ぶ。
「おいし……」
人に作ってもらったものを食べるのはずいぶん久しぶりだった。家を出てからは自炊や適当に買い込んだものを食べていたので、その暖かみに何かがこみ上げて来そうになるのを堪えながら、卵粥をかきこんだ。
「さて、と」
卵粥は綺麗に完食して器をベッドの脇にあるテーブルに置き、改めて周りを見渡す。そういえばライネたちの家に入ったのは初めてだ。この際いろいろ見ておこうとヨダは思った。ライネの身体のこと、運が良ければどうして彼だけ顔が見えるのかがわかるかもしれない。こんな時でも、ヨダは顔を見ることについて考えていた。
部屋にはベッドと、クローゼット、それからベッドの頭の部分が本棚になっているだけで、寝ることと着替えることにしか使わない場所のようだった。本棚を覗くと、薬物のことや病気のことが書かれた背表紙ばかり並んでいた。あのミドという青年の部屋なのだろうか。
「四季病……?」
ふと、病気の本に関しては同じ病名ばかりが並んでいることに気付く。その中の一つを手にとって開くと、正式名称は長ったらしくて覚える気になれなかったが、通称であるその名前が目に止まった。ミドはこの病を専門的に扱っているのだろうか。どんな病気なのか気になって本を読み進めると、発病者は数年で死に至ること、治療法は未だに存在しない難病であると書かれていた。
「なんだか大変な病気の研究してるんだなあ」
そう、大変な病。当時のヨダにとってその病気は、そんな程度の認識だった。
「ぅ……」
本を読むのも飽きたので、ベッドから降りる。するとまた頭の中がぐらりと揺れて、ヨダは思わず呻いた。足はふらついて歩きづらいし、適当な生活をしてきた身体は彼が思った以上に弱っている。ベッドに戻りたくなったが、もっとこの場所のことが知りたくて縋るようにドアを開けた。
「わ……」
その先の光景に、感嘆の声を漏らす。ドアの向こうは、小さな実験室になっていた。棚や机には記号やアルファベットの書かれた瓶や、日常生活では見ないような機械が並んでいる。家だと思っていたのに、ここは研究所か何かだったのだろうか。
「あれ、ヨダくん?もう歩いても大丈夫ですか?」
見知らぬ機械たちを眺めていると、奥にある階段から声が聞こえてきた。ミドだ。
「うん、まだ本調子じゃないけどね」
本当は頭の芯が揺れて気分が悪いのだが、咄嗟に嘘を吐いてしまう。ヨダは今まで簡単に苦しいなんて言えない、そんな生活を送ってきた。
「ほんとですか?んー……まだ熱あるみたいですよ?じっとしてなきゃだめじゃないですか」
そばに寄って来たミドがヨダの手や頬に触れて、心配そうな声を出す。
「だって、ここいろいろあって気になるんだもん……」
「元気になったらいくらでも見せますよ。だから今は安静にしてましょ、ね?」
「はぁい……」
ゆるりと手を引かれ、またベッドのある部屋に戻される。不思議と反抗する気にはなれなかった。顔が見えずともミドの声にはそういうものを無くさせる力があった。低過ぎず高過ぎず、透き通った優しい声。
(……綺麗だなあ)
ヨダは無意識にそう思っていた。ライネといいイヴといい、この家の人間はどこか彼の美意識に触れる何かを持っている。
「ねえミドちゃん、おとなしくしてるからもっとお話して。キミたちのこと、知りたいんだ」
その声をもっと聴きたくて、適当に理由をつけた。適当と言ってもそれも目的の一つであったが。そんなヨダの下心も知らぬまま、ミドはいいですよ、と嬉しそうな声で答えた。
ヨダはそれからしばらくミドからこの家のことやライネたちの話を聞いた。さっき見た機材はミドを援助してくれている偉い人に我儘を言って家に置かせてもらっているとか、ライネは三年前ミドに死ねる身体にしてもらうためこの家に転がり込んできたとか、イヴは六年ほど前に拾ったとか、そんな話。大体が同居人たちの話で、ミドは本当に彼らのことが好きなんだな、とヨダは思った。
「そういえば、この家に大人はいないの?いやミドちゃんも大人なんだけど、親とかそういうの」
「あー……親はですね……」
ふと気になって尋ねると、それまで快活に喋っていたミドが少し言い淀む。聞いてはいけなかっただろうか。
「昔、事故で亡くしたんです。だからこの家には僕たち三人しかいません。ライネくんもそうらしいですからお互いが家族みたいなものですね」
「そう、なんだ……」
家族。ヨダにとっては嫌な言葉だ。ミドのように事故なんかじゃなく、自ら壊したもの。いや、あの家はヨダが壊す前から、とっくに壊れていた。
「そんな顔、しないでください。今は二人がいるから、辛くないんです」
ヨダが自分の家族を思い出して嫌な気分になっていたのを勘違いしたのか、ミドはまたヨダの頭を撫でながら言った。そんな顔、という言葉が引っかかる。見える人は羨ましい。ヨダにとってミドの顔は真っ黒で、亡くした家族の話を前にしてどういう表情をしているのかなんてわからない。悲しいのか、辛いのか、それとも何ともないのか。そんなことも、ヨダにはわからない。
「それなら、いいんだけど……」
上の空で返事をしながら、ヨダは目の前の青年について想像を巡らせた。この綺麗な声の持ち主は、一体どんな目をしているのだろう。どんな風に、表情を変えるのだろう。ライネの身体のこと以外に、知りたいことが一つ増えた。
ミドと長い時間話した後、ヨダは彼から手渡された図鑑を読んだり、本棚を眺めたりして時間を潰した。普段目に出来ないものばかりだったので楽しく見ていると、時間はあっという間に過ぎた。ベッドの上でごろごろしながら本を読む、なんていつもはこの街に多く点在する空き家や複合喫茶で寝泊まりしているヨダには初めてのことだった。
その後は動けるには動けたが、まだ彼らと食事をする勇気が湧かなくてまたベッドの上で食事をした。やはりライネが言っていた通り、イヴの作る料理はおいしかった。
「それじゃあ僕、もう少し進めないといけない作業があるのでしばらく隣にいます。ヨダくんは先に寝ててくださいね」
夜。ミドはそう告げて部屋の明かりを消すと、実験室へ入って行った。ヨダも疲れていたので言われた通り布団に潜って目を閉じる。すぐに身体が闇に沈み込むような感覚がして、意識は眠りに落ちて行く。
しかし、弱り切った身体はそう簡単に、ヨダを休ませてはくれなかった。
「っ……」
猛烈な暑さに目を覚ました。ベッドに接している背中が酷く熱を持っている。寝返りを打つと少しはましになるけれど、すぐに暑さは戻ってくる。怠い。まだ身体の熱は引かないらしい。腕も鈍く痛む。
「んん……」
思わず呻き声を上げて、枕元に置いてもらった水差しに手を伸ばした。暑くてたまらない。忙しなくコップに水を注いで飲み干す。ひんやりとした感覚が喉を伝って、いくらか気分が落ち着く。かと言ってすぐに寝転んではまた暑くなると思い、眠くなるまで座っていようと、水差しを元の場所に戻すとベッド脇の壁に身を凭れかけた。そこからは扉が見えて、あの科学者はいつまで向こうの部屋にいるのだろうかとぼんやり考える。そばに置いてあったニワトリ型の時計を見ると、夜中の三時を回っていた。
「……ミド、ちゃん」
ぽつりと、彼の名前を呟く。様子を見に来てくれないかな、なんて思いながら。自分から寝苦しいなどと訴える気はヨダにはなかった。ただふらりと扉を開けて、眠れないんですか?と聞いてほしい。我儘だとは思う。だけれどヨダは苦しい時に苦しいと言う方法を知らなかった。体調が良くなくて気分が悪い、と訴えても家族は相手にしてくれなかったから。本当に苦しいんだと言うと、うるさいと頬をぶたれた。そうしていつしかヨダは我慢することばかりを覚え、訴える勇気をどこかになくしてしまった。
「なんで、こんなこと思い出すんだろ……」
膝を抱えてうずくまる。なんだか今度は肌寒くなってきた。のろのろとタオルケットを身体に巻くと、じっと小さくなった。また暑くなりそうな気がして、横になる気は起きない。でも今は寒い。早く朝にならないかな、と思いながらぶるぶる震えていると、不意にゆっくりと、目の前の扉が音を立てないようにして開いた。
「わっ、びっくりした!起きてらしたんですね」
扉を開けたのはミドだった。寝ているはずのヨダを起こさないように様子を覗くつもりだったようだが、中を見た瞬間座り込むヨダが目に入って心底驚いた様子だ。
「うん……さっきまで暑くて眠れなくて。今はすっごく寒いんだけどね」
「え、言ってくれればよかったのに。熱が上がったんですかね……」
ミドは話を聞くと、すぐに引き出しから体温計と冷却シートの替えを取り出して、体温計をヨダに手渡した。ヨダがそれを自分の脇に挟むのを確認すると、彼の額に手のひらをあてる。
「さすがにもうおでこはぬるくなってますね……替えましょうか」
「んー、ひやっとするのやだなあ」
「一瞬だけだから我慢ですよー」
ミドはヨダに前髪を持ち上げさせると、頼りなくなった冷却シートを剥がして新しいものを貼り直した。きん、と鋭い冷たさが額に走る。
「さむ……」
「毛布かけましょうか、暑くなったら横に置いといてください」
「ありがとう」
ふかふかした毛布を肩にかけてもらったけれど、寒気は収まらなくて。まだ震えていると、ミドが背中をさすってくれた。暖かい。
「スープか何か飲みますか?インスタントなら僕作れますけど……」
「ううん、大丈夫……」
何か口にしたらそれなりにましにはなるのかもしれないけれど、今は一人にしてほしくなかった。こんなことを思ったのはいつ振りだろう。体調が悪い時はどうも感傷的になっていけない。
「ねえ」
「なんですか?」
「どうしてミドちゃんは、ボクにここまでしてくれるの?こんな見ず知らずの、殺人鬼なんかに」
感傷的になったついでに尋ねた。ミドはヨダのことを怖いと言った割には何のためらいもなく接してくるし、こんな夜中にも世話をしてくれている。それがヨダには不思議だった。するとミドは、少し考え込みながら答えた。
「うーん、どうしてでしょう……僕もね、よくわからないんです。こんなことしたの、初めてですし。……あれ?初めて、だったかな……ただ、どうしても弱ってる君を見たとき、放っておけないと思って……僕は、彼を、放ってしまったから、あれ、誰のこと言ってるんでしょうね僕……」
「だ、大丈夫?キミがしっかりしてないと、ボク困っちゃうよ」
途中から様子のおかしくなったミドを見て、質問を誤っただろうかとヨダは焦る。頭痛でもするのだろうか、頭を抱えて長く息を吐くと、ミドは取り繕うようにヨダの方を向いた。ヨダにはわからないけれど、きっと慌てて作った笑顔でも貼り付いているのだろう。
「すいません……大丈夫です。僕何を言いましたっけ?」
「もう、しっかりしてよね。弱ってるボクを見たとき放っておけなかったって。全くキミもライネも、お人好しにもほどがあるよ。イヴくんがいなかったらキミたち詐欺にでも引っかかりそう」
咄嗟にさっきミドが言った言葉の中で、意味が理解出来たものだけを返して話を逸らす。掘り返してはいけないことだろうと、思ったから。
「そうかもしれないですね。僕たち世間に疎いですし、騙されてしまうかも」
「気をつけなよ、世の中ボクみたいに悪い人たくさんいるんだから……あ」
ピピピ、と機械音。体温計がヨダの体温を測り終えた合図だった。なんだかおかしくなってしまった空気を変えるには、ちょうどいいタイミングだとヨダは思った。
「やっぱりちょっと熱上がってますね」
「はあ、早く下がんないかな……腕痛いし、身体だるい……」
ぽてんと、ベッドに身体を沈める。まだ寒いけれど、寝るには暑いより遥かにましだ。
「おや、もう眠れそうですか?」
「……わかんない。眠れてもまた暑くなって目が覚めるかもしれないし。ミドちゃん、悪いけど……いいや、なんでもない」
ヨダは何かを言いかけようとして、すぐ遠慮するように口ごもってしまった。心なしか、気恥ずかしそうだ。
「え、どうしたんですか言ってくださいよー」
「や、やだ」
「そんなこと言わずに。僕気になって眠れませんよ。さあどうぞ!」
ミドは何故か楽しそうに、握り拳を作るとマイクを近づけるリポーターみたいな素振りをした。これは、言ってしまわないと解放してくれそうにない。
「わかったよ言うよ……あの、ね。もし、さあ、また眠れなくなったら、キミを、呼んでもいい……?」
顔が熱いのは、きっと熱のせいだけじゃない。ああ恥ずかしい。今ミドちゃんはどんな顔をしているんだろう。引かれてたら嫌だなあ、と伝えた言葉を後悔していると、ミドに髪を撫でられた。
「ふふ、いいですよ。なんならここにいますから、いつでも呼んでください」
「……それは、悪いよ。ミドちゃんも寝ないと」
「平気ですよ?徹夜は慣れてますし、椅子並べてベッドを作るのもありです」
そうあっけらかんと言うものだから、ヨダは並べた椅子の上で眠るミドを想像する。想像の中の彼は、寝返りを打った途端バランスを崩して床に落ちた。
「絶対寝づらいってそれ!落ちそうだし。お願いだからちゃんとしたところで寝て」
「そうですか……?じゃあ、リビングのソファにいますね」
ミドはあんまり変わらない譲歩をして、またヨダの髪を撫でる。オレンジの髪は、あまりきちんと手入れがされていないのか傷んでいる。
「わかった……ちゃんと寝てね」
「善処します」
ソファならなんとか納得がいったのか、ヨダはそう言うと目を閉じた。今度はちゃんと眠れそうだ。
「ごめんね……こんな夜中に手間かけさせちゃって」
「気にしないでください、僕さっきまで作業してましたから。それより、辛かったらすぐに言ってくださいね。我慢は身体に毒ですから」
「うん、ありがとうね。そんなこと言ってもらえたの、初めてだ……」
熱と眠気のせいか、ヨダは普段の自分なら言わないだろうことを、ついこぼしてしまった。驚くミドをよそに彼本人は無意識だったようで、ミドの手の心地よさに流されてそのまま眠ってしまった。
「やっぱり、辛い生き方をしてたんですね……おやすみなさい、ヨダくん」
ぎしぎしと、誰かが階段を降りてくる音がする。その音でミドは目を覚ますと、ゆっくりと起き上がった。リビングの窓からは明るい光が射し込んでいる。今何時だろう、と考えているとリビングの入り口でがたんと何かが跳ねる音がした。
「あ、イヴくん……おはようございます」
「お、おはよう……驚いたじゃないか、ソファで寝るなら言っておいてくれ」
階段を降りる音とがたんという音の正体はイヴだったらしい。毎日家の誰よりも早く起きている彼は、いつもなら誰もいないはずのリビングにぼうっとミドが座っていたから、驚いて思わず身構えてしまったらしい。
「すいません、寝たのが夜中だったもので伝えられなかったんです」
「夜中?ヨダの奴、何かあったのか」
「ちょっと寝苦しかったみたいで。寝付くまで一緒にいたんですよ」
ミドは口に手をあてて欠伸をする。まだ眠いらしい。
「……なあミド、お前はどうしてあいつのことをそんなに構うんだ」
ライネのそばには、いてやらなかったくせに。そう言ってしまいそうなのを堪えて、イヴは尋ねた。彼だってミドが昔ライネのそばにいられなかった理由をわかっているつもりだった。薬を作るのには、一分一秒を無駄に出来ないことくらい。わかっていて、それを許していた。だけれど今、ミドに記憶がないとはいえよりによってライネを傷付けてきたヨダの看病をせっせとしているのが、イヴには納得出来なかった。
「それ、ヨダくんにも聞かれましたよ。……彼には言いづらくてただ放っておけないからって言ったんですけど、イヴくんには本当のこと言いますね」
「本当のこと……?」
「ええ、彼、治療が終わった後しばらく眠ってましたよね」
「ああ、その間にお前には逃げろと言ったよな」
ミドが忠告を聞かなかったことをイヴは根に持っているらしく、嫌味っぽく言う。どうも彼は今不機嫌だ。
「もう、それは許してくださいよ。僕はこうして今も元気なんですから。……それで、その時に彼、うなされてたんです」
「どんな風に?」
「……母親を呼んでました。おかあさん、おかあさんって……他の人の名前も。兄弟の名前でしょうかね。それで僕、この子も僕と同じで、家族に何かあった子なんだって思って……だから放っておけませんでした」
ミドは、両親を彼の目の前で亡くしている。旅行中に事故に巻き込まれて。そんな心の傷を持つミドだから、うなされて苦しそうに呻くヨダのことを自分と重ねてしまった。
「あの子きっと、心を病んでます。人を殺すのも、多分それが原因で……それを怪我が治るまでの間、少しでも取り除いてあげたいんです」
「……そう上手くいくものか?」
「わかりませんけど……お話を聞くだけでも結構、効果はあると思いますよ。イヴくんも、あんまり強くあたらないであげてくださいね」
イヴは苦い顔をする。正直、何と言われようとヨダのことを受け入れられる気がしない。
「それは、難しい話だ……だがミド、気をつけろよ。あいつは人を殺すことを何とも思っていないんだ。お前が……」
イヴの言葉が途切れる。ミドはそれ以上言わなくていいと言うように、イヴの口を指で押さえていた。
「殺人を何とも思ってない人が、後ろめたそうに自分のことを殺人鬼、なんて言ったりしませんよ」