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4月12日

去年の8月にイヴのご飯が楽しめなくなってから、どんどん身体の感覚がなくなってきた。味覚と嗅覚はもう完全に消えてしまったし、今度は指先の感覚がなくなっていくのを感じる。でも視覚が最後になったのはまだ運がよかった。イヴのメンテナンスを出来るだけ長くしてあげられる。

 

 

「別に無理して整備する必要はないんだぞ。お前が手をつけなくても当分は動ける」

作業台の上に横たわるイヴが心配そうに言った。もうこの時にはライネは頻繁に熱を出すようになっていて、ベッドにいる時間が長くなっていた。自分のメンテナンスのために彼がベッドを抜け出さなくてはならないのが申し訳ないのだろう。

「いいんだよ。オレが楽しいんだから。付き合ってくれよ」

無理なんかしてないよ、とライネは笑う。イヴを気遣ったのもあったけれど、本当に言葉の通りだった。機械弄りをしていると気分が落ち着く。病気のことを少しでも忘れられる。だから、辛くなんてなかった。

 

 

 

4月21日

熱い、冷たいくらいはわかるけれど、それ以外の感覚がオレの手からなくなった。次は目だ。身体も怠いしさすがに不安になってくる。だんだん死に近づいているのがわかるから。8月までは生きたいのだけれど、それまで持つかなあ。

 

 

「オレ、8月まで生きられるかなあ」

暇つぶしにと、ベッドの上で目覚まし時計を分解して遊んでいたライネが、突然ぽつりと呟いた。そばでその様子を眺めていたイヴの表情が、即座に曇る。

「あ、ご、ごめん。そんな顔させたかったんじゃないんだ。8月はこの家が出来た月だから、なんとか迎えたいなって」

「そうなのか?」

「うん。ミドと二人で施設を出てさ、一緒に生きていこうって、決めた月なんだ」

8月はライネとミドにとって大事な月だった。手を取り合って歩いて行こうと決意した、大事な。

「そういえば、子供二人でどうしてこんないい家に暮らしてるんだ?」

この際にと、イヴは前から気になっていた疑問をぶつける。孤児だった二人が設備も整った家に住んでいる、というのはどうも不思議な光景だ。

「ミドのおかげだよ。あいつ、小さい頃からすごく頭が良くてさ。いろんなお偉いさんから声をかけられてたんだ。施設を出たらうちの研究に参加してくれないかって。それであいつ、何て答えたと思う?」

「……まさか」

「そう、研究を手伝う代わりに、僕とライネくんが住む家をくださいって言ったんだ。ほんと、すごいよな。お偉いさんに何てこと言うんだって先生たちも慌ててた。そういうところが気に入られて、オレたちはこうしてここに住んでる訳だけど。でもきっとそれは、オレのためだったんだろうな」

「お前の?」

「うん。あの時のオレはいろいろあって、ミド以外の人間が怖くて仕方なかったから……里親も見つからなくて、みんな手を焼いてた。それでミドは、オレに住むところを作ろうとしてくれて……ここには怖いものなんてどこにもないからって、手を引っ張ってくれた。ミドはオレの恩人だよ」

「そうだったのか……」

子供二人だけで暮らしているのに、そういう事情があったなんて。だったらなおさら、ライネの病気は二人にとって辛いものだろうなと、イヴは彼らの心中を察する。

「だからオレ、8月までは生きたいなあ。ありがとうって、ミドに言うんだ。まあ、8月に会えたらの話だけど」

そのときだけ、ライネの瞳が悲しげに揺れた。この頃にはもう、ミドは地下室に篭り切りになっていた。薬を作る時間が惜しいからと、ずっと。イヴが何度呼んだって部屋から出てくる気配がない。

「生きられるさ。きっと」

そうじゃないと、あまりにも悲しいじゃないか。半ば願望に近い気持ちで、イヴはそう答えた。

 

 

 

5月6日

薬はまだ出来ない。イヴくんの報告によると彼はもう触覚も失ってしまった。早く、早くしないと。

 

 

「っ……」

ミドは酷く苛立っていた。薬はまだまだ出来そうにない。多く見積もってあと三ヶ月しか時間はないのに。

「ライネくん……」

 

 

『お父さん、お母さん……出て来てよぉ……』

もう十年ほど前のことだ。幼い頃のミドは、必死で地面を掘っていた。そこからは薬指に指輪のついた左腕が伸びていて。彼はその腕の持ち主を掘り出そうと泣きながら素手で土を掘った。何かの破片で手が傷付くのも構わずに。

 

『今日からここがあなたのお家よ、ミドくん』

そう言ったのは誰だったか。ミドはいつの間にか、施設で生活することになっていた。家族で旅行に行く途中、土砂崩れで両親が死んでしまったから。ミドは突然、ひとりぼっちにされた。彼の手元に残っていたのは、両親が勉強好きの彼に買い与えた参考書と、土砂を掘り返そうとしてついた、両手の傷だけだった。

 

それからというもの、ミドは本ばかり読んで過ごした。元々人見知りだった彼は施設の子供たちに馴染めなかった。わいわいと楽しそうに外で遊ぶ彼らが羨ましい、と思いながらもそこに混ぜてもらう勇気がなかった。

その日も、ミドは部屋の中で本を読んでいた。ほとんどの子供が外で遊んでいたし、先生たちも彼に外に出たらどうだ、と言ったけれど、どうにも気が進まなくて。しかし、黙々と読書をしていると突然、上から声が降ってきた。

『なに、よんでるの?』

黒い髪の同じ歳ぐらいの男の子が、ミドを見下ろしていた。

『おべんきょうのほん、です』

ミドがたどたどしく答えると、男の子はへえ、と感嘆の声を漏らして、ミドの隣に座った。

『むずかしいね、おれにはわかんないや』

ミドの読んでいた化学の本を覗き込んで、男の子はちんぷんかんぷん、といった様子だった。だからミドは彼がすぐ立ち去るだろうと思っていた。これまでにも何人かミドの読む本を覗いてきた子供はいたけれど、内容がわからないとすぐにどこかへ行ってしまった。だけど、その男の子は違った。

『おれもほんよもー』

そう言って、ミドの隣で彼も何か雑誌のようなものを広げ始めたのだ。そんなことは初めてだったので、ミドは気になって彼の読む雑誌を同じように覗き込んだ。数字やよくわからない図が載っていて、自分のわからないことが書いてあるそれに興味を持った。

『なんの、ほんですか』

ミドから誰かに声をかけたのは初めてだった。それくらい、その雑誌と、それを読む男の子に興味があったのだ。すると少年は、よく聞いてくれたと言うように歯を見せて笑った。

『ろぼっと、だよ!』

 

その男の子こそがライネであり、この出来事をきっかけに彼らは気の置けない友人になった。二人が一緒に暮らすようになるのは運命だったのかもしれない。

 

 

「…………」

ミドは自分の両手にはめている、指の部分だけ開いた黒い手袋を撫でた。それは施設のクリスマス会で、ライネがミドにくれたものだった。ミドの手に残った、事故の傷を隠すためのもの。彼がずっとその傷を気にしていたのを、知っていたらしい。そういう他人の気持ちに敏感なところも、好きだった。家族を失ってひとりぼっちだった自分に、ライネは話しかけてくれた。友達になってくれた。ライネがミドに救われたのと同じように、ミドもライネに救われていた。一緒に暮らし始めたのも、その恩返しのつもりで。それなのに、病気なんかに彼を奪われたくない。

「絶対、助けるから……」

 

 

 

5月25日

ライネの視力が少し薄れてきたらしい。物を落とすことが増えた。悲しそうな顔をすることも、増えた。俺には一体、何が出来るだろう。

 

 

すやすやと寝息を立てるライネに、タオルケットをかけてやる。昼間から眠る彼に、いつもとは違う違和感を感じながらイヴは彼の額に張り付いた前髪を払った。今日も熱が出た。ベッドから出られる回数も数えるほどになってきて、もう時間がないことを知らしめてくる。

「ん……」

髪を撫でていると、不意にライネが声を漏らしたので慌てて手を離す。直後に彼は寝返りを打って、心の底にいるのだろう幼馴染の名を呼んだ。

「ミド……」

「……っ」

イヴは拳を握り締めた。どうして、会いに来ないんだ。向こうが来ないなら会いに行かないか、とライネに尋ねたこともあったが、ミドに来てほしいから、と断られた。彼はミドが自分で会いに来てくれることを望んでいる。それなのに、どうして。

 

 

 

6月14日

今日も上手くいかなかった。どうしよう、もう彼は視覚まで失い始めているというのに。イヴくんには酷く当たり散らしてしまった。彼は僕の代わりにいろんなことをしてくれているのに。彼がライネくんの身の回りの世話をしてくれているおかげで、僕はこうして研究に集中することが出来ているのに。僕は、最低だ。

 

 

「ミド」

紅茶の入ったポットとカップを持って、イヴは地下室のドアを開けた。中には、疲れ切った様子のミドがいて。

「少し、休憩したらどうだ」

「…………」

「ライネも、お前に会いたがってる。たまには様子を見に行ってやってくれ」

「……そんな暇、ないですよ」

「ないかも、しれないが……もう大分目が見えなくなってきてるんだ。完全にお前のことが見えなくなる前に……」

眠りながらミドを呼んでいたライネの姿を思い出す。頼むから、顔を見せに行ってやってほしい。そんなイヴをよそに、ミドは彼を睨み付けた。

「まるで、彼が死ぬのが決まってる、みたいな言い方ですね」

「! そんなこと、」

「ありますよ。内心では薬は間に合わないって、そう思ってるんでしょう?」

「っ…………」

逸らした目は、肯定の意味だ。イヴもライネ自身も、もうすぐ来るだろう彼の死に怯えていた。

「いいですね、正直で。ああ、嘘はつけないんでしたっけ」

「なあミド……もうやめよう。ライネの傍に、いてやってくれ……あと少ししかないんだ……」

いつも堂々としていたイヴは何処へ行ったのか、彼はそう弱々しく懇願した。きっともうすぐ会えなくなるライネのことを想って言ったことだったが、ずっと彼を死なせまいと努力してきたミドにとっては、許せない言葉だった。彼の死を、受け入れるわけにはいかない。感情の堰が、壊れて溢れていく。

「どうして!彼が死んでいくのを眺めていないといけないんだ!何も出来ない人はいいですよね、簡単に諦められて!僕みたいに彼を助けられる可能性がある人間は、諦めきれないんですよ!あの時手を止めていなかったら薬が間に合っていなかもしれない、そんな後悔をしたくないんです!今君と話してる時間だって惜しいんです、だから早く出て行ってください!!」

どん、とイヴの胸を押した。彼は酷く動揺していた。今までに見たことのない表情をしている。

「……!」

そこで初めて、ミドは自分が彼に酷いことを言ってしまったことに気付く。何も出来ないなんて、アンドロイドに言ってはいけない言葉だ。いや、例え人間相手にでも、決して。

「……悪かった。邪魔をして……」

「あっ……イヴくん、待っ……」

それだけ言って、イヴは怯えたようにドアまで後ずさりをして、部屋を出て行った。ミドは机に突っ伏して、頭を抱える。

「……ごめんなさい……」

 

 

 

6月14日

あいつのために何もしてやれることがない。ミドの言う通りだ。それなのに、どうしてお前は、俺のほしい言葉ばかりくれるんだ。俺はお前に、救われてばかりだ。悔しい。何も出来ない自分が、憎い。

 

 

「っ……」

二階までの階段が、とてつもなく長く感じた。ミドに言われた言葉が、胸に突き刺さっていた。何も出来ない癖に。俺は、アンドロイドなのに。ライネのために、出来ることをしなければならないのに。恩を返したいのに。役立たず。これじゃあ捨てられたのも当然だ、なんて考える。どんどん思考が憂鬱な方向へ落ちていき、止まらない。だけどこんな状態でライネのところに行くわけにはいかない。不安にさせるだけだ。首を振って、嫌な考えを追い出してから寝室のドアを開ける。

「おかえり」

イヴの方を見て、ライネがふわりと笑う。まだ見えているなと、イヴは胸を撫で下ろす。

「ただいま……おい、点滴抜けるだろ。あんまり触るな」

くるくると、点滴のチューブを弄ぶライネの手を握る。すると今度はイヴの手に指を絡めて遊び始めた。

「退屈なんだもん」

触覚がほぼ無くなったことと、視力が低下してきたせいで、ライネは機械弄りが出来なくなった。ばらばらになった目覚まし時計は直されることがないまま、ベッドの脇に丁寧に並べられていた。

「イヴ、手、熱いな……何かあった?」

手を弄りながら、ライネが尋ねた。イヴは舌打ちがしたくなった。どうしてこの身体は、困惑や不安が熱になって現れてしまうのだろう。必死になって取り繕っているのに、これじゃあ台無しだ。

「ミドに、何か言われた?」

そっと、イヴの手を撫でる。自然と彼が答えるのを促すように。

「……すまない」

ぎゅっと、手を握り返して呟くように話す。

「何も、出来なくて……俺は、お前に何も返してやれない」

ライネは自分を助けてくれたのに、自分はライネを助けてあげられない。恩返しが、したいのに。

「そんなこと、ないよ」

冷えた手が、イヴの頬に触れた。あついなあ、とライネが笑う。

「……オレさ、病気だってわかってからイヴがここに来る前まで、ずっと寂しかった。ミドが地下に篭りっきりになっちゃったからさ。さすがに熱が出た日は一緒にいてくれたけど。でも普段ずっと独りでいるのは辛かった。薬なんていらないから、誰かにそばにいてほしかった……だからさ、今はお前がここにいてくれるだけで、オレは幸せなんだよ」

ちょっとの間だから、ずっとそばにいてよ、イヴ。それだけで構わないと、微笑んだ。

「……イヴ?」

ぽたりと、何かが握り締めた手の上に落ちた。じわりと暖かいそれは、触覚を失ったライネにも知覚することが出来た。ああどうして、どうしてこの優しい子供が死ななくちゃいけないのだろう。それがとても悲しくて、必要としてもらえたことが嬉しくて、イヴは初めて涙というものを知った。冷却用の水が、ぼろぼろと硝子の瞳を伝い落ちていく。

「ずっと、ずっとそばにいる……それが俺に出来る恩返しなら、いくらでも一緒にいてやる。だから……」

死なないでくれ。とは、言えなかった。イヴもライネも、この関係はあと二ヶ月ほどで終わってしまう。そう思っていたから。気力で解決が出来ない問題を、ライネに押し付けることになってしまいそうな言葉だったから。

「……ごめんな」

イヴが何を言おうとしたのかわかっているかのように、ライネは詫びて、温度だけを頼りにイヴの真水の涙を拭った。

 

 

 

6月28日

ライネの昔話を聞かせてもらった。今の状況も含めるとあいつの人生はあまりにも壮絶で、神様が存在するとしたら俺はそいつを、殺してやりたい。

 

 

「オレ、妹がいたんだ。って話は、したっけ」

いつものようにイヴがライネの点滴を替えていると、不意にライネが独り言のように言った。

「靴をもらった時に言ってたな」

「ああ、そうだった」

「それが、どうかしたのか?」

イヴが尋ねると、ライネは少し考え込んでから口を開いた。

「ちょっと、話したいなって思って。可愛かったんだぞ。オレの妹。ハイネっていってさ。まだ小さかったのに、しっかりした子だった」

妹を表す言葉が全て過去形なのが引っかかった。ライネは孤児だったと聞かされていたし、その意味はすぐに察することが出来た。そんなイヴの訝しげな表情を見て、ライネはその疑問に答えるように呟いた。

「……死んだんだ。火事で」

 

オレが小学校に通い始めたばっかりの頃だった。学校から帰ると、燃えてたんだ。オレの家が。たくさんの人がそれを見てて、気持ち悪かった。ハイネと母さんが中にいる、って思って家に飛び込もうとしたけど、消防隊員に止められて。何もかも燃えてくのを、見てることしか出来なかった。

焼け跡から両親と、ハイネの遺体が見つかって、身寄りのなくなったオレは施設で生活することになった。あんまり不自由はなかったけど、やっぱり寂しかったなあ。だから友達はたくさん作った。その中には、ミドもいた。一緒に勉強教え合ったりして、特に仲良くなれたっけか……。そんなこんなでまあ、それなりに楽しく暮らしてたよ。だけどある日、職員さんが話してたのを偶然聞いたんだ。

 

ーーライネくん、元気そうにしてるわね。

ーーええ、ご家族が自殺した子だって聞いた時は、立ち直れるかしらと思ったけど……。

 

耳を疑った。家が燃えたのは、事故か何かだと思ってたから。でもあの時、いつも仕事に行ってたはずの父さんまで焼け死んでたんだ。それまで疑問に思ってたけど、それで納得がいった。オレは、家族に置いていかれたんだって。

 

「……で、それで少し人間不信になって、機械弄りばっかりしてた。家族でさえオレを裏切ったんだから、他人なんて尚更信じられなくて……友達も減った。ミドだけは、ずっと一緒にいてくれたけど」

「…………」

イヴはかける言葉を見つけられなかった。ライネに辛い経験があるのはなんとなくわかっていたけれど、そこまでとは思わなくて。

「だけどそのおかげで、もうすぐ死ぬかもしれないってのに落ち着いてられるのかなあ。あの世には家族がいるから。でもオレなんか来たって嬉しくないかもしれないし、お前やミドと離れるのは、嫌だなあ……イヴ?」

イヴは何も言わずに、ライネの肩を抱き寄せた。お前の家族が死んだのはきっと何かの間違いだ。そう言えればよかったのかもしれないけれど、イヴのAIはそこまで導き出せなくて。こうしてごまかすことしか出来ない、自分が嫌だった。

「……ありがとう」

それをわかってくれるライネに、甘えている。イヴは苦しくて、仕方なかった。

 

 

 

7月3日

目が完全に見えなくなった。真っ暗で、怖い。あいつの声がしないと不安で不安で仕方ない。身体もどんどん重くなってきた。まだ7月の始めなのに、オレは来月まで生きていられるだろうか。

 

 

「……具合、どうだ。苦しくないか」

「ん、平気……ちょっと怠いけど」

「……そろそろ、はっきり言ったっていいんじゃないか」

平気なわけないだろ、と本音を促すと、ライネはぺろ、と舌を出した。

「うわ、バレてた?」

「ずっと一緒にいるんだから、わかるさ。それにな、最近髪が白くなってきてる」

イヴと同じように真っ黒だった髪は、視力が衰え始めた頃から少しずつ、白くなり始めていた。ストレスが原因なのは、明白だった。

「うそ、禿げてたりしてない?」

「禿げてはない」

「よかった……」

ほっと息を吐く。それから、少し考えた後、ライネは重い口を開けた。

「……身体はまだそこまで辛くないけどさ、やっぱり見えないのは、怖いよ。感覚ほとんどないから、自分がどこにいるのかさえよくわからないし……イヴ?ちゃんと、いるよな?」

最後には声が震えた。イヴは黙って話を聞いていたから、声が聴こえなくて不安になったらしい。ライネの右手が彼を探してふらふらと宙を掻く。

「いるぞ、ちゃんと」

右手に温もり。その直後に全身が暖かいもので包まれるのをライネは感じた。抱き締められている。触覚がなくても、それはすぐにわかった。じりじりと、イヴの胸の中にあるディスクが回る音が、すぐ近くに聴こえたから。

「あったかい。イヴ、泣いたらちゃんと水補給するんだぞ。オーバーヒートするから」

「な、泣いてない。全く……なんでこんな面倒な機能付けたんだ」

「いいじゃん。ロマンだよロマン」

不安は何処かへ行ったようで、くすくすと笑うライネに、イヴも涙を拭って笑った。見えないのに、どうしてばれてしまうんだろう。

 

 

 

7月18日

息苦しい。身体は重くて動かないし、眠ろうとしても苦しくてすぐに目が覚める。イヴの声が遠い。もうすぐなのかなあ。

 

 

「ライネ、ライネ……しっかりしろ……」

「うぅ、イヴ、どこ……」

その日はライネの熱がいつもより高かった。イヴは魘されるみたいに身悶える彼の手を握って、必死に声をかけた。まだ、連れていかないでくれ。ライネを引っ張ろうとしている彼の家族に向けて、祈る。まだ8月じゃないんだ。せめて、それまでは待ってほしい。どうか、どうか。

 

 

 

7月31日、8月1日

俺は絶対、この日のあいつの笑顔を、忘れない。

 

 

イヴの祈りが届いたのか、今日で7月も最後だと、ライネは嬉しそうにイヴの手のひらに指を滑らせた。病気の症状に声がなくなるとは聞いていなかったが、体力の低下のせいで出す気が起こらないからで病気とは直接の関係はないらしい。だから出そうと思えば出すことは出来るが、イヴは体力を無駄に消費させないようそれをさせなかった。代わりに手のひらに文字を書いてもらって、それを読み取って会話をした。

『きょうはねたくない』

「明日が8月だからか?」

『うん 12じまではおきてたい』

「……」

本当は無理をさせたくない。だけどライネが我儘を言うなんて滅多にないことだし、いつ死んでもおかしくないからこそのささやかな願いだ。聞いてやりたい。一応こっそりとミドに電波を送って、どうすればいいか尋ねてみたが返事はない。もうこの頃にはミドと会話をしなくなっていた。イヴが決めてやるしかない。

「……じゃあ、12時前になったら起こしてやる。それでどうだ?」

そう提案すると、ライネは押し黙った。何か悩んでいるような。

「眠るのは、怖いか?」

寝ている間に死んでしまったら。きっとそんなことを考えているに違いない。

『おきられなかったらどうしようっておもう』

「そうだな、俺もお前が眠っているのを見るのが怖い」

『どうしてねなくちゃいけないのかな わるいゆめもみるしいいことない』

悪い夢。きっと妹のことだろう。イヴは夢を見ることが出来ないから、悪夢というものが具体的にどんなものなのかわからなかったが、望まないものを勝手に見せられるというのは辛いことだろう。どうにかして、取り除いてやれればいいのだけれど。人間はアンドロイドなんかを作るより先に悪夢を見ない装置でも作ればいいのに、などとイヴは自嘲気味に考える。

『ねたくない』

また、手のひらに言葉が書かれた。その直後に、懇願するようにライネが見上げてきた。見えないはずなのに、揺れる瞳はしっかりとイヴを捉えていて。

「……いいだろう。だが危ないと思ったら、すぐに寝かせるからな」

仕方ないなと、ついにイヴの方が折れた。

 

 

カチカチと、時計の針の音が聞こえる。いつもは意識していないからわからなかったが、この音はこんなにも煩わしいものだっただろうかとライネは思った。疲弊している。身体も、心も。自分のものではない温度が、額に触れた。イヴが熱でも測っているのだろうか。この日もライネは熱を出して、気怠い身体を持て余していた。

『いまなんじ?』

「11時半だ。あと30分だな」

たった30分、それだけの時間だったけれど、今のライネにはとてつもなく長い時間のように思えた。疲れを吐き出すようにふう、と息を吐く。

「大丈夫か、寝てもいいんだぞ」

ちゃんと起こしてやるから、とイヴの心配そうな声が降ってくる。だけどライネは首を振った。イヴのことを信用していないわけじゃない。今日だけは、彼の手を借りないでおきたかった。

「……そうか」

イヴも、ライネの気持ちをわかってくれたらしく、それ以上は寝るのを促してはこなかった。

 

 

ピピピピ、とアラームの音が鳴った。イヴは、熱い額とは対照的にひんやりとしたライネの手を握り締める。

『もう 8月?』

「ああ、8月だ。ちゃんと、生きてるぞ、お前は」

生きている。まだ。思い出のこの月を迎えることはきっと出来ないと、ライネは思っていた。でも、迎えることが出来た。8月。この家が出来た月。思い出すのは、幼馴染の嬉しそうな顔。これから一緒にがんばろうね、そう言って笑うミドは、何処に行ってしまったんだっけ。もう一度、あの笑顔が見たかった。そう思ったけれど、8月まで生きられたのにそこまで願うのは欲張りだと、心の中に押し込んだ。それにもうライネには、ミドの顔を見ることは叶わないのだ。

「……あり、がと、イヴ……」

絞り出した声は、一体どんな響きをしていただろうか。心配をかけまいと吊り上げた口元は、違和感がないだろうか。泣かないでほしい。幼馴染と同じくらい大切な弟は、以外にも泣き虫だということを一緒にいるうちに知った。ここまで来れたのはお前のおかげなんだから、どうか悲しい顔をしないで。

「……馬鹿だな、お前は」

この期に及んで無理に笑うライネに、イヴはまた泣いてしまいそうだった。隠しているつもりだろうけれど、確かにこの時ライネは上手く笑っていたけれど、偽物だなんてすぐにわかった。

ライネは、涙を流していたから。

きっと本人は自分の頬が濡れていることになんて気付いていないのだろう。

「……幸せだったよ、オレ。散々な人生だったかもしれないけど、お前たちに会えて、幸せだった……」

まるで自分がもうすぐ死ぬのがわかっているような言葉に、イヴは耳を塞ぎたくなるのを必死で堪えた。ちゃんと、聞いておかないと。この声がもうすぐ聞けなくなることは、イヴもなんとなくわかっていた。

「ごめんな、すぐに置いていくことになって」

「そんなこと、ない……俺もお前に拾ってもらえて、幸せだった」

ガラクタだった自分を救ってくれた。居場所をくれた。たった三年の出来事だったけれど、確かにイヴは幸せだった。

「そっか、それなら、いいんだ……」

悟るように呟くと、ライネはふわりと笑った。今度は笑うことを意識していない、本当の笑顔だった。

(やっと、笑ってくれた)

無理ばかりしていたライネが。それがどうしようもなく嬉しくて、イヴは彼をもう一度抱き締めた。

「……イヴ、ありがとう」

ライネの覚束ない腕が、背中に伸びる。耳元で、幸せそうに囁く声が聞こえた。

 

 

 

 

その日の夜明け、ライネの心臓が止まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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