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『エスラ郊外の連続殺人、ぱったりと止む』
ゴミ箱に捨てられた新聞の見出し。まさかこの事件の犯人を一週間家に泊めていたなんて実感が湧かないな、と帰り道を急ぐライネは思った。ヨダはあれから、殺人を犯していないらしい。彼が殺した人たちは帰ってこないとはいえ、今より被害者が増えなくなったのはいいことだ。かといってしばらく会っていないと不安になる。あんな子供が、ひとりでちゃんと生活出来ているのだろうかとか、やはり引き止めるべきだっただろうかとか、そんなことを考える。しかし、そういうことを考えている時に限って、
「ライネ!」
「なっ、おま、ヨ――――いたっ!」
彼は現れるのだ。ピコッ、とライネの頭から間の抜けた音がした。いつものように金槌で殴られたのかと思ったが、痛みはない。何が起きたのかわからなくて路地の入り口を見ると、そこには小さなおもちゃのハンマーを持ったヨダが立っていた。
「やっほーライネ、元気してた?」
「お前……びっくりしただろ」
「えへへ、何か手に持ってないと落ちつかなくて」
「まあ、頭から血が出ないだけいいけど。お前こそ、元気かよ」
「うん、なんだかんだ生きてるよ。今度ね、バイト始めるんだ」
唐突にヨダの口から出た朗報に、ライネは顔を綻ばせた。
「おっ、いいじゃん! 何の仕事するんだよ」
「本屋さん。品出ししたりレジしたり」
「いいなあ本。なんかいいメカ系の雑誌入ったら教えてくれよ。ああでも、お前接客とか大丈夫なのか? 顔……」
ふとヨダの体質を思い出して不安になる。店で働くということは、一日に何度も知らない人と顔を合わせるということだ。それがストレスになってヨダは殺人を犯していたというのに。
「うんまあ、みんなミドちゃんだと思えば多分大丈夫……店の人にもお客さんの顔は覚えられないって言ってあるし」
「お前ほんとミドと仲良しだよなー。オレだとは思ってくれないのかよ」
「だってライネの顔は普通に見えるもん」
「は!? なんだそれ初耳だ」
これまた意外な告白に、ライネは目を丸くする。ヨダの心を開いたミドでさえ顔を見ることが出来ないのに、自分がまさか例外だったとは思わなかった。
「ミドちゃんの前だったから言えなかったの。だってボクの目……あの、気を悪くしないでよ?」
「? 何だよ」
ヨダは急にもじもじと、らしくもなく言い辛そうにしだした。ライネが怪訝な顔をする。
「ボクの目、顔が見えないのは生きてる人だけなんだ」
「あぁ〜……だからお前、オレが一度死んだってわかったんだ。だよなあ、普通は生き返りなんて想像出来ないもんな……」
「だからね、ライネは生きてるのになんで顔が見えるのかなって思って。キミたちのこと調べたんだ」
「なるほどなあ……」
以前ヨダがライネたちの過去を完璧に推察したことを思い出し、納得する。死人が生き返ったなんて、何か証拠でもないとそんな発想は出来ない。
「まあゾンビだろうが死体だろうがライネはライネだよ。ボクゾンビ時代のライネしか知らないし好きだから自信持っていいよ」
「お前気を悪くするなって言っときながら追い打ちみたいなフォローするのな……」
まさかのゾンビ発言にライネは苦虫を噛み潰したような顔をした。確かに、それで合ってはいるけれど。本当にこの子供はものをはっきり言うなと凹む。
「ごめんごめん。それはそうとさ、ライネって元の身体に戻りたいんでしょ? ミドちゃんに、どうしても思い出させないつもりなの」
「なんで思い出させないといけないんだよ」
「だって、ライネと一緒に例の薬のことも忘れちゃったんでしょ? 思い出してもらった方がそれヒントに元に戻す薬も作れるんじゃないの」
「そう上手くいかないよ」
「……かもしれないけど。可能性があるなら賭けたっていいんじゃない?それに、キミもイヴくんも辛そうだよ、隠すの。ミドちゃんだって、絶対思い出したがってる」
飄々とヨダを受け流していたライネの表情が、イヴの名前を出した途端に強張った。それでも彼は、ヨダの言葉を拒む。
「思い出させたら、その方がずっと苦しむ」
「お人好しもここまでくるとめんどくさいなあ。今のキミ見てたら腹が立つよ。たまには自分本意になったっていいんじゃないの、ボクみたいに」
「お前は奔放過ぎ」
「まあそれは置いといて。キミ不幸の塊みたいなもんなんだからさ、ちょっとぐらい自分のために他人に迷惑かけたってバチはあたらないよ」
「そういう、もんかな」
そこでやっと、ライネは拒絶以外の言葉を発した。どういうわけか、四つも年下の少年に激励されている。少しだけ、決意が揺らぐような気がした。



しかし、家に帰るとまた、ライネの決意は揺るぎないものとなってしまう。

「ただいま、イヴ」
いつものように投げかけた言葉は、抑揚の少ない声によって帰ってくるはずだった。いつもなら。二人でいるはずの寝室が、今はしんと静まり返っている。二つあるベッドの片方には、イヴの身体が丁寧に横たえられていた。
イヴは、ここ数日間目を覚まさずにいた。
「お前がこんなに寝てるのなんて、拾った時以来じゃないか?」
全く動かない片手を掬い上げて、指を絡める。あの日、ミドと話している時に倒れたイヴはそれ以降電源ボタンを押しても充電しても起きることはなかった。原因は、ストレスによる暴走防止のストッパーがかかったことだった。心を持ったアンドロイドは強いストレスを受けると心を守るためにバグを生み出すことがある。それは少しだけなら何の影響も及ぼさないが、あまりにも増え過ぎるとやりたいことと真逆の行動をとってしまったり、動けなくなったりと、本人の身体の制御が効かなくなる。周りの人間を傷付けてしまうことだって、ある。それを防ぐストッパーとして、アンドロイドにはバグが一定の値に達すると強制的に眠りにつくという機能が搭載されている。そして今のイヴはそのストッパーが発動してしまった状態で、バグを取り除かない限りは目覚めることはない。
「……ごめんな……」
原因は、わかっていた。むしろ何故こうなることを見越していなかったのかと、ライネは自分を責めた。イヴの精神が限界を迎えていたことなんて、三年前から分かり切っていたことなのに。ライネの看病をしていたこと、それも虚しくライネが死んだこと。加えてめちゃくちゃな方法で生き返ってしまったこと。それらが全て自分の責任だと思っていること。イヴの心に負担がかからないはずがなかったのに、ミドに記憶を取り戻させないことまで彼に強要してしまった。イヴの構造上嘘を吐くのは苦手なのに、三年もそれを続けさせてしまった。きっと倒れる直前も、本当のことを言いかけたのだろう。けれどライネの命令がそれをさせなかった。嘘を吐きたくない感情と命令を守らなければならないプログラムに板挟みにされて、イヴはついに潰れたのだ。
「オレの、オレのせいだ……ごめん、イヴ、ごめんな……」
ひとりになりたくなくて。けれどミドには思い出させたくなくて。全部自分の都合で、イヴを振り回した。壊れかけだった彼を助けたことを免罪符に、彼にずっと甘えていた。もうとっくに、恩なんて返してもらっているのに。
ぴくりとも動かないまま眠り続けるイヴは、ヨダが言った通りまさしく人形そのもので。このまま目を覚まさない方が幸せなのではと、そんな考えが過った。ミドも思い出さなくたっていいじゃないか。自分が我慢さえすれば。
「そうだよ、その方がいい……」
誰も傷付かない方法。今まで二人を苦しめてきた自分が、これからは二人の分まで苦しめばいい。それが一番いい。ぐちゃぐちゃの頭で、そう結論付けようとした。

――――ピピピピ……
「? 電話……」
唐突に、ポケットの中の携帯電話が鳴った。取り出して画面を見ると、イヴが倒れる前に部品を注文していた機械専門店の名前が。タイミングがタイミングなだけに気は進まなかったが、仕方なく緑のボタンに触れる。
「もしもし」
『もしもしライネくん? 頼まれてたパーツ届いたで〜。いつでもいいから引き取りに来てな』
「ん、ありがとう。でもタミくん、悪いんだけどさ……それの引き取り、キャンセルって出来る?」
店主のタミには申し訳ないが、今のライネは店に行く気が起きなかった。イヴから離れようとしているのに、機械ばかりの店に入る勇気はない。
『え、まあ出来るには出来るけど……どしたん?』
「いや、ちょっと不具合があって。ほんとにごめん。いつか埋め合わせするから……」
『…………』
タミは数秒黙り込んで、何か考えている様子だった。怒っているのだろうか、その沈黙にライネは不安になる。
『……ライネくん、いつでもいいって言うたけど、やっぱり明日来て』
「え? どうして……それに明日、店定休日じゃ」
『ええからおいで。裏口開けとくから』
それだけ言うと、返事をする暇もなく電話は切られてしまった。やはり怒らせてしまったのだろうか。タミがそれほど短気ではないことをライネは知っているが、今は精神状態がよくないだけに、殊更不安になった。とにかく、明日は行くしかないだろう。ああどうしてこうなってしまうんだと、盛大にため息を吐いた。



「…………」
翌日の朝。タミの店の裏口の前で、ライネは立ち尽くしていた。扉をノックしてしまえばすぐなのに、なかなかそれが出来なくて。裏口から入れてもらうことなんてタミの身体の事情で今まで何度もあったのに、かれこれ十分は手が動かない。怒られるとか、タミの人柄上そういうことはないとわかっている。落ち着け、大丈夫だと深呼吸をすると、扉をノックしようとした。しかし同時に、まるでその手を避けるように扉が内側に開いた。
「わっ、ライネくん! なんやおるんやったら言うてよ〜」
中からひょっこりとタミが出てきて、ノックする姿勢のまま固まったライネに目を丸くしている。
「……びっ、くりした……」
「ごめんごめん。こんな早くに来るとは思わんくて。あ、ゴミほかしに行ってくるからちょっと待って」
ライネが視線を下に向けると、タミがゴミ袋を持っていたのが見えた。彼がそれをてきぱきと近くのゴミ捨て場へ運んで行くのを見守ってから、中へ通してもらう。どうやらいつもの陽気なタミだ、何も不穏な空気なんてない。ライネは胸を撫で下ろしたが、それならどうして呼ばれたのだろうと、新しい疑問が湧いてくる。しかしその答えは、直後に明らかにされた。
「なあ、ほんまにどしたん? 何かよくないことあったんやろ?」
ライネが入り口で靴を脱ぐために座り込んでいると先に上がっていたタミの声が上から降ってきて、心臓が跳ねた。何もかも見抜かれたような口ぶりと、声。さっきまでの溌剌とした声色と違い、少し真剣な雰囲気を纏っている。
「え、なんで……」
思わずタミを見上げる。
「いつもなら普通と違う部品も繋げてまうきみがただミスしてパーツキャンセルするなんて思われへんもん。声にも元気なかったし……ぼくでよかったら聞くで」
ライネは呆気に取られてしまった。あんな一言二言の会話だけで、悟られてしまうなんて。頭の中がざわつく。どうしよう、普通より遥かに複雑で突拍子もない自分の家の事情なんて、言えない。それに昨日決めたのだ。イヴに頼るのはもうやめると。彼はもう、全て終わるまで眠らせたままにすると。ライネの中で、この悩みは完結したはずだった。無関係の友人に話すなんて、考えたこともなくて。どうしよう。どうしよう。脳内で、嵐が吹いている。手が震える。
「ライネくん?」
動けなくなっているライネにタミが怪訝そうに声をかけてくる。何か言わなければ。そんなことないよ、本当にただ部品をキャンセルしただけなんだと、言ってしまわなければ。口を開け、声を出せ。そう強く強く念じて、ライネは唇をこじ開けた。
「…………イ、イヴ、イヴが……」
口から出たのは、考えていたのとは真逆の言葉だった。酷く震えた声で続きを紡ごうとするものの、同時に喉から出てきた嗚咽のせいで主語しか言えず、青い瞳から、ぼろぼろと涙が溢れ出した。
「ラ、ライネくん? イヴくんに何かあったん?」
上から落ちるタミの声に焦りが混じる。彼は咄嗟にしゃがんで、ライネの様子を伺った。両手で顔を覆ったまま全身を震わせる彼は、いつもより小さく見えた。
「これは、相当参ってたんやなあ……よかった気ぃ付いて……」
これはやはりただ事ではないと理解したタミは、ライネの背中をぽんぽんとさすった。今日はたっぷり話を聞いてやろう、そう思いながら。



「もう喋れる?」
「…………ぅん……」
ぽろぽろと流れ落ちていた涙の勢いが弱まったのを見計らって、タミはライネに声をかけた。小さく返事がきて、とりあえずもう少し落ち着ける場所に連れて行こうと思い手を引いた。ここ、店の休憩室には造りかけの機械が多過ぎる。
「おいで。ここで泣くの気遣うやろ」
「うん、部品濡らしそう……」
階段を昇って二階へ行くと、そこは居住スペースになっていた。リビングと小さなキッチン、隅にはベッドが置いてある。
「あーなんか埃っぽいな……ごめんな父さん死んでからあんまり使ってないねん」
「いいよ、オレが急に来たんだから」
台拭きで埃を払ったテーブルの前の椅子に座ると、ライネはぼんやりと顔を拭った。何から話そう。
「どうしよっかな、食べもんはほとんど処分したし……あ、ココアが生きてるわ。ライネくん甘いもんいけるっけ?」
タミはというと、ごそごそとキッチンの棚を探っている。棚の中には保存のきく食品が片手で数えるほどしか入っていなかった。冷蔵庫は、電源すら入っていないらしい。
「いけるよー。ていうかタミくん、そんな無理して飲み物出さなくてもいいよ……」
「いや雰囲気って大事やん? ぼくはよくわからんけど、あったかいもんって落ち着くらしいし」
鍋で作ったろ〜、と妙に張り切る姿を見ていると、自然と心が安らいだ。持つべきものは友だなあと、ライネはひっそりと感謝する。
「ライネくん」
「ん? どしたの?」
「あかんぼく料理とか、いやこれは料理とは言えんけど、二年ぶりぐらいや……楽しい……」
「そ、それはよかった」
真剣な声で呼ばれたと思えば、タミはうきうきと肩を震わせていて拍子抜けする。父がいなくなって以来初めての料理だったのだろうと思うと、無理はないけれど。
(イヴも、家事してる時だけは楽しそうだったよなあ……)
そんなタミとイヴの姿が被る。血や薬でしょっちゅう服を汚したり、毎日毎日夜更かしをして朝酷い有様になるライネとミドに文句を言いながらも、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれたイヴ。いなくなると、胸にぽっかりと穴が空いたようだった。
「……イヴがさ、ストッパーかかって起きなくなったんだ」
あれだけ話し辛かった言葉が、タミを見ているとするりと出た。ライネに背を向けていた彼だったが、その言葉を聞いてすぐに振り向く。
「それは、なんでまた……」
彼が驚くのも無理はない。ストッパーがかかるなんて、虐待でもされていない限り普通は起こらないのだ。タミはライネのことを機械を大切にしている人として信用していたから尚更だ。
「分かりやすく話せるかわかんないんだけど……オレの家、ちょっと変わっててさ」
意を決して、ライネは事情を話すことにした。もちろんある程度のことは伏せてだが。どこまで話せばいいか、頭を巡らせながら話す。
「オレ、イヴともう一人、オレの幼馴染と一緒に暮らしてるんだけど、昔辛いことがあって幼馴染が記憶喪失なんだ」
「記憶喪失」
「うん。三年前に、オレに関する記憶がすっぽり抜けちゃって」
「そいつは今も思い出してなくて、いや、本当に辛いことだったからオレが思い出させないようにしてるんだけど……一から関係やり直して仲良くやってた。でもそれじゃ駄目だったみたいなんだ」
「イヴは、そいつが記憶喪失になるきっかけを作ったのは自分のせいだって思ってて……思い出させたかったみたいなんだ。元々嘘を吐くのは苦手だし、本当のことを言いたかったんだと思う。でもオレが思い出させないでやってくれって頼んだから、イヴはずっと我慢してた。それで……」
「ストレスがちょっとずつ溜まって、ついに爆発しちゃったと」
「うん……」
タミはココアの入ったマグカップを持ってくると、ライネの向かいに座った。
「その様子やと、起こすかどうか迷ってるんやね」
紫の瞳が、見透かしたように伏せられる。本当に察しがいいなとライネは感嘆した。何も言わずに頷く。
「今起こしたって、原因が残ったままだからまた倒れる。オレが寂しいからって、そんなことしたくない」
「それはそうやけど、このままずっと寝かしとくん?」
「……幼馴染が思い出してもよくなるまでは」
「今は思い出したらあかんの」
「今は……うん。理由は言えないけど」
「そう……きみが決めたんなら、口出しはせんけど……」
悲しそうに、それでも仕方なさそうにタミは頷いた。しかしそれから少し考え込むと、彼は真っ直ぐライネの目を見て言った。
「……じゃあ、これから言うのはぼく個人の感想と意見。ぼくはきみらの事情を全部知ってるわけちゃうし、イヴくんが同じかどうかはわからんけど……ちょっとは参考にしてくれたら嬉しい」
深呼吸の真似事をすると、タミは緊張気味に口を開いた。
「多分……嘘吐くのが苦手やいうのもあるやろけど、イヴくん、ライネくんが忘れられたまんまなんが嫌やったんちゃうかな。大事な人が、その大事な人に忘れられて、平気なはずないよ。ぼくやって、仮に父さんが誰か父さんの大事な人に忘れられたら、思い出してほしいもん。忘れられて、辛い思いしてる父さんなんか、見たない……」
父親のことを思い出しているのだろうか、タミは切なげな表情で、ぽつりぽつりと言った。イヴも、そうだったのだろうかとライネは思う。
「タミくん……」
そしてそれから、タミは部屋を見渡すと、静かに目を伏せた。
「それにぼく、自分がもしイヴくんと同じように動けなくなったとしたら、何回倒れることになっても、やっぱり起こしてほしいなあ。ぼくら使ってもらえるのが何より嬉しいから。この部屋みたいに、埃被るのは嫌やで……」
それを聞いた瞬間、ライネは椅子から勢い良く立ち上がった。彼にはタミの言葉が、イヴが言っているように聞こえて。自分のするべきことが、ようやく見えた気がした。どうして今まで、こんな遠回りをしてしまったのだろう。
「タミくん、オレ……!」



タミの店から帰ってきてすぐ、ライネはイヴの心に根付いたバグを修正した。これで目を覚ますことは出来るはずだが、彼が再び眠りにつくかどうかは、ライネ次第だ。恐る恐る、電源ボタンを押す。
「よかった、ちゃんと起きた……」
ライネの不安をよそに、イヴの赤い目がゆっくりと開かれた。彼は目覚めてすぐ視界に入ってきたライネの姿に瞬きをした。自分の状況がわかっていないようだった。
「ライネ……? 俺……」
「ミドと喋ってて、倒れたんだよ。ごめん、オレが迷ったから起こすの、遅くなった」
そう教えてやると、イヴはああ、と理解した素振りを見せた。何故か安心したような表情。
「夢を見てるのかと思った。お前が、病気になる前に戻ったのかと」
イヴが戸惑っていた理由。それはライネの髪が、いつもの白髪ではなかったからだ。彼の髪は、病気疲れで色が落ちてしまう前の黒髪に戻っていた。
「染めたんだよ。洗ったらすぐ落ちるやつだけど」
「どうしていきなり」
「……決めたんだ。今度はオレががんばらなきゃって。いつまでもうじうじしてられない」
ライネは言いながら、イヴのごわついた髪をそっと撫でた。
「イヴ、今までありがとう。いいんだもう、がんばらなくて。これからはオレとミドががんばるから、お前はもう休め」
ライネの纏う雰囲気と言葉に、イヴは不穏な気配を感じて起き上がった。ところがライネの肩に触れる前に、逆に抱きすくめられる。
「オレがこうなったのは、仕方なかったんだ。お前のせいじゃない。ごめんな、こんなになるまで嘘吐かせて」
「ライネ、何を」
「もう嘘はやめる。ずっとミドのためだなんて言ってきたけど、逃げてただけなんだ。それで誰も幸せになれないんなら、オレはあいつと向き合わないと」
イヴを抱きしめていた腕が、するりと解ける。ライネがこれから何をしようとしているのか察したイヴは咄嗟に離れていくライネの手を掴んだ。
「……イヴ?」
「いいのか、本当に」
ライネがこれからしようとしていることは、おそらくイヴがこの三年間ずっと望んでいたことだ。それなのにいざライネがそれを実行するとなると何故か、尻込みしてしまう。するとライネはイヴのそんな不安を感じ取ったのか、ふわりと微笑んで言った。
「うん、いいんだ」
どこまでも落ち着いた声だった。それを聞いてイヴは、ライネの決意の強さを知った。きっとこの先どう転んでも彼は後悔しないのだろう、そう思った。掴んだ手が、離れる。
「ありがとな、イヴ」
ライネはまたイヴの髪をくしゃりと撫でると、いつものお気に入りのマフラーを手に部屋から出て行った。イヴは後を追わなかった。これから起こることに、自分は介入しない方が良いと思ったから。




かつん、かつん。地下へ続く階段に響く足音が、やけに耳をつく。いつもはこんな音、意識したこともないのに。三年前に死ぬ前、イヴと徹夜をした時に聞いた時計の音みたいだ、とライネは思った。やはり緊張している。
「ミド」
地下室の扉を開けると、ミドがパソコンの前で何か文章を打ち込んでいた。部屋に誰か来たことに気付いた彼は今のライネの格好を見て、目を丸くした。
「ライネ、くん……?その髪、どうしたんですか」
「昔に戻りたくなって。オレ白髪になる前はイヴみたいに黒髪だったんだぜ。懐かしいな」
黒い髪を弄って、強調しながら話す。
「それは、意外でした……、っ!!」
髪の効果は、ライネの想像以上に早く出た。最初はいつも通りに話そうとしていたミドが、頭を抱えて呻く。
「意外じゃないよな? 見覚え、あるだろ」
「ない、ないです……君は僕と初めて会った時にもう、」
「初めてお前と会ったのは六歳の頃だったっけな」
ミドが否定する前に口を開く。今までの記憶を掘り起こして、投げ付けた。こうでもしないと、また逃げられてしまいそうだったから。
「部屋の隅で本を読んでたお前が気になったのが最初だった」
ミドの息が荒くなる。
「友達になって、クリスマス会でプレゼントを交換して……ほらこのマフラー、お前がくれたんだぜ。三年前から何度も捨てたくなったけど、結局手放せなかった」
首に巻いたマフラーを外してミドによく見えるように広げて見せる。ほつれようが血で汚れようがずっとずっと、もらった時から離さず持っていたマフラーを。
「知らない、知らない……」
「お前だって、オレがあげたものずっと持ってるじゃないか。その手袋」
首を横に振るミドの手を指差すと、彼はそれを後ろ手に隠す。
「ち、がいます。これは」
「手のひらの傷を隠すためにあげたんだ。お前はいつもそれを気にしてたから」
ミドが目を見開いた。誰にも見せたことがないのにどうして知っている、と言いたげだ。他の人はともかくライネだけは施設時代に見ていたから、当然なのに。
「お前はずっと、他人が怖くなったオレと一緒にいてくれた。家を建てて、オレを怖いものから遠ざけてくれた。感謝してるんだ、本当に」
昨日のことのように思い出せる、家が建った日。ずっと二人で手を取って、生きていけたら。そんなささやかな幸せを、夢見ていた。
「……でも、オレは病気になった。死ぬ前にアンドロイドに触れてみたかったオレは、捨てられてたイヴを拾ってきた。お前はオレを治すために、他のことは全部イヴに任せて薬の研究に付きっきりになっていった」
「やめて、ください……」
段々と近付いて来た暗い本筋に、ミドが顔を覆う。それでもライネの思い出は止まらない。
「結局オレは病気には勝てなかった。だんだん弱っていって、一年かけて感覚をなくして死んだ。でもお前は」
「やめて!!」
悲鳴のような制止の声。ミドが耳を塞ぐ。彼の身体は、酷く震えていた。ライネだって、本当はやめてやりたい。ミドの怯える顔なんて、見たくない。でも、それではいけないんだ。
「嫌、嫌だ。それ以上言わないで。思い、出したくない」
ライネはミドの手を掴んで、あちこちに泳ぐ深緑の目を見つめた。ライネの手だって、震えている。
「駄目だ、お前は思い出さなきゃいけない。オレと、イヴにしたことを。じゃないともうみんな、駄目になる」
「いや、いや……」
拒絶し続けるミドに追い打ちをかけるように、ライネは口を開いた。イヴはすでに限界が来ている。ライネだって、このまま続けていける自信がなかった。いつかみんな共倒れになってしまうのなら。
「お前は薬を作った。もう死んじゃったオレにも効く薬を。何でも元に戻す薬を。それを、オレの死体に……」
「違う!!僕はそんなことしてない!!嘘だ、嘘だ……!!」
じくじくと、胸が痛むようだった。嘘だなんて言わないでほしい。確かにライネはここにいたのに。ミドが生き返らせてくれたこの身体は、嘘なんかじゃないのに。
「ミド」
まだ逃れようとするミドを、腕の中に捕まえる。もう二度と、離れないように。
「ミド、ごめんな。イヴに背負ってもらってでもお前に会いに行けばよかったんだ。ちゃんと話せば、何か変わってたかもしれないのに。変な意地を張って、お前が会いに来てくれるのを女々しく待ってたんだ」
病気で動くことすらままならなかった頃。ずっとミドが会いに来てくれるのを待っていた。死ぬ前に顔が見たかった。それだけで十分だった。だけど、ミドはそれだけではいられなかった。ライネに生きていてほしかった。顔を見る暇があったら、ライネを生かすために全ての策を使いたかった。あの時のライネはそれを、わかってあげられなかった。
「ひとりになるのが怖いのは、オレだけじゃなかったのに。でももう大丈夫だよミド。オレはもう、お前より先に死ねないんだから」
死ねなくたっていい。ミドとイヴがそばにいてくれるなら。この身体を拒むことで彼らを苦しめるなら、いっそのこと受け入れてしまえばいい。
「これからはずっと一緒だ。お前が死ぬまで、ずっと。もういいんだ。研究なんてもうやめよう。オレはもう、元の身体に戻らなくたっていい。だからお前が責任を感じることなんてない。でもその代わり、ひとつだけわがままを聞いてくれよ」
「何、ですか」
か細い声で、ミドが聞いた。ライネは少し腕を緩めて、ミドと顔を見合わせる。叶えてほしいことはたったひとつだけ。幼い頃からずっとライネと一緒にいた、ミドにしか、出来ないこと。



「……オレが生きてた頃のこと、思い出して」

 

 

 



 

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