俺は、白鳥ケイのことを何も知らなかった。
「たーかざき! 今日のテストはどうだった」
「百点」
「僕もだ。やっぱり君には勝てないなあ。僕が百点の時はいつも百点なんだ」
「なんでお前、そんなに俺につっかかってくるんだよ」
「決まってるじゃないか。君が僕よりすごいから!」
「……わからないな」
うるさくて、面倒臭い奴。最初の印象はそんな感じだった。眩しいくらいの笑顔が、胡散臭くて。そして何より目立つ。貴美と出来るだけ静かに生きていたい俺には、とにかく厄介な存在だった。
その印象が変わり始めたのは、中学二年の頃。家庭科の授業で先生に褒められたのがきっかけだった。
「高崎くん、上手ねえ! こんなに綺麗に縫える子なかなかいないわよ!」
俺がしていた縫い物を見て、中年の女性教師はすごく喜んでいた。教材の布を手に取って、周りの生徒にも聞こえるような声で俺を激励した。それだけなら、まだよかったのだけれど。
(近い……)
早く俺のそばから離れてほしかった。身体が震えそうになるのを抑えるのに必死だった。怖い。この学校で数少ない女性教師が担当する家庭科の授業が、俺は嫌いで仕方なかった。
「この調子でがんばってね!」
なのに、あろうことか彼女は俺の背中をばし、と叩いた。その瞬間、頭の奥にしまい込んで押さえ付けていた気持ちの悪いものが、溢れ出した。
「…………っ、」
触られた、触られた。おんなのひとに。おばさんに。こわい。さわらないで。
『きりひとくん』
誰かの声がする。狭いトイレの個室の中に俺はいた。今よりずっと身体が小さい。目の前に、女の人がいる。乱雑に束ねた長い髪を三つ編みにした、俺の母さんと同じぐらいの歳の女の人。知らない人だった。
『一緒にいた子、きみちゃんだっけ。きりひとくんがいい子にしてたら、あの子には何もしない。きりひとくんは賢いから言ってる意味、わかるよね?』
こわい、おばさんやめて。俺はそう言った気がする。でも声は出なかった。貴美は今どうしているんだろう。砂場で楽しく山を作っているんだろうか。それなら、いいんだけれど。よくない、こわい。たすけて。おばさんのて、つめたい。きもちわるい。なんでふく、ぬがせるの。
「――――!!」
胃の中がひっくり返りそうだった。背中を軽く叩かれただけで、こんな。どうしよう。今教室を飛び出したりしたら変に思われる。が、その瞬間都合良くチャイムが鳴ってくれた。すぐに裁縫道具を片付けて、教室を出る。
「お」
廊下には、もはや見慣れた白髪がいた。なんで授業終わった直後なのにいるんだよ。しかもここ教室じゃなくて家庭科室だぞ。そんなににこにこされても、俺にはにこにこし返す余裕がない。
「高崎! 今日の放課後なんだけど――」
口を開くと酷いものを見せてしまいそうで、返事は出来なかった。限界だ。呆然とする白鳥を置いて必死でトイレに駆け込んで、胃の中身を出した。
「っ、うぇっ……」
吐きながら、俺はこれからのことを不安に思った。見られた。よりによって、一番知られたくない奴に。トイレから出たら、いろいろと問い詰められそうで怖かった。
「大丈夫かい?」
案の定、白鳥はトイレの外で待ち構えていた。帰ってくれと言いたかった。今はお前の相手を出来る状態じゃない。
「保健室行くなら付き添うよ」
「いい……病気じゃ、ないから」
次の授業も出るつもりだった。次は座学だし男の先生だからなんとかなるだろうと思って。なのに、お前は無駄に鋭くて困る。
「……じゃあ、精神的なもの?」
俺は答えなかった。すると白鳥はそれを肯定と捉えたらしく、気の毒そうな顔をした。
「そっか。でもそんな状態じゃ授業出られないだろ。あと五分しかないし」
「大丈夫だって……」
そう言って教室に戻ろうとした俺の手が、突然がっちりと掴まれた。進もうとしていた向きとは逆方向に引っ張られる。
「行こう。君なら気分悪いって言うだけで休ませてもらえるよ」
白鳥は振り向きもせず、俺の手を引き続けた。その間何も話さなくて、意外だと思った。いつものあいつなら、べらべら喋り散らすのに。
「……聞かないんだな」
つい、言った。どうして自分から掘り返すようなことをしたのかは、今でもよくわからない。
「知られたくないんだろ? 無理に聞くほど人間出来てないわけじゃない」
いかにも当然だと言うように、白鳥は前を見たまま答えた。そしてその後急に立ち止まると、ゆっくり俺を振り返って、言った。
「でも高崎がいいなら、話してほしいな。何か助けになれるかもしれないし」
「…………」
こいつ、こんな顔も出来るんだな。心底驚いた。白鳥はいつもの作り物みたいな胡散臭い笑顔を捨てて、穏やかに微笑んでいた。うるさくなくて、笑顔を押し付けてこないあいつを見たのは、初めてだった。
「……さっき触られたんだ、家庭科の先生に。なんでもないスキンシップだったけど、駄目だった」
気付くと俺は、さっき起きたことを話していた。白鳥にだけは、知られたくなかったはずなのに。
「俺、小さい頃知らない女の人にトイレに連れ込まれて、それで……怖いんだ。女の……特に年上の人に触られるのが」
初めて、母さん以外の人に話した。こいつは何と言うのだろう。同情したり、可哀想だとか言うのだろうか。もしもそうしていたら、俺と白鳥は今一緒にはいなかったかもしれない。
「ごめん」
ぱっ、と掴まれていた手が離された。
「手、軽率だった……」
顔を見ると、白鳥は何故か真っ青になっていた。いつも堂々と俺に突撃してくるあいつは、そこにはいなかった。おどおどと何かに怯えるような顔で、申し訳なさそうにしている。馬鹿だな、駄目なのは女の人だけって言ってるのに。そんな白鳥がおかしくて、俺はつい吹き出した。
「なんでお前の方が顔色悪くしてるんだよ。お前ぐらいなら触られたって平気だよ」
笑いながらそう言うと、白鳥はきょとんと惚けた顔をして、それから泣きそうな顔で安心したように笑った。
「……よ、よかった……」
それからは、同級生に触れられそうになった時は白鳥がそれとなく避けてくれるようになった。本当に助けになってくれた。俺はあいつの笑顔が胡散臭いと思わなくなった。ときどきあいつの異常なテンションの高さに手を焼くことはあったが、俺とあいつは友達と呼べる関係にはなったと思う。
なのに
「はぁ、はぁっ……!!」
息が苦しい。でも走らないと。白鳥、どうして待ち合わせに来ないんだ。遅れてきたことなんて、一度もないのに。映画、観に行くんじゃなかったのか。大学受験が終わったら行こうってお前、言ってたじゃないか。楽しみにしてたじゃないか。サイレンの音が止んだ。あいつの家が近付く。怖い。救急車が停まっている。人だかりが出来ていて、その真ん中で誰かが叫んでいる。女の人。ケイ、ケイ、どうしてよ! 白鳥の名前を呼んでいる。きっとあいつのお母さんだ。担架が運ばれている。見たくない。赤い。折り畳み式の携帯電話を握った白い手がだらりと担架からはみ出しているのを見て俺も、あいつの名前を叫ぶしかなかった。
「白鳥!!」
担架に載せられた白鳥は、俺の声に反応しなかった。いつも目立ち過ぎるくらいに目立つ白い髪が、真っ赤に染まっていた。なんで、どうして。そのまま担架は救急車の中へ運ばれて、俺は人だかりとともに置き去りにされた。
「白鳥……」
立ち尽くすことしか出来なかった。俺は、白鳥が俺と同じように、いや俺と違って過去どころか現在進行形で苦しんでいたことを、その時まで全く知らなかった。いつもからから笑っていたあいつが偽物だったということに、気付いてやれなかった。