僕には、高崎桐人しかいなかった。
『ケイ、もう鶴が折れるの? すごいね』
優しい声がする。大好きな姉さんの声。歳の離れた彼女は紙を折るのが好きな僕に、いろんな柄の折り紙を買ってくれた。新しいものを折る度に、ケイは器用だねと褒めてくれた。机の上には、紙で出来た動物がたくさん並んだ。
『勉強も運動もがんばってるね。偉いよケイ』
百点の答案を見せると、頭を撫でてくれた。まだ真っ黒だった僕の髪に優しく触れてくれた。彼女に褒めてほしくて、何でも精一杯がんばった。
「ケイ、大好きよケイ。他の誰かが何を言ったってお姉ちゃんだけは、ケイの味方だからね……」
姉さんは、自分よりずっと小さな僕のことを本当に可愛がってくれた。僕もいつも彼女に付いて歩いていた。母さんよりも長く一緒にいたと思う。
そう、本当にずっとそばにいた。彼女が命を落とす瞬間まで。
中学に入る直前のある日のこと。僕は病院のベッドの上で姉さんの遺影と骨を見た。身体中が痛かった。両親から話を聞くまで、自分の身に何があったのかわからなかった。
街を歩いていた僕と姉さんは、アクセルとブレーキを踏み間違えた自動車に轢かれたらしい。一緒に轢かれたのに、僕は奇跡的に一命を取り留めた。姉さんだけが、打ち所が悪くて亡くなった。
「……姉さん」
ぽっかりと、胸に穴が開いたみたいだった。いつも姉さんと繋いでいた左手が寂しかった。それだけで、どうしようもなく苦しかったのに。
僕の家庭は、世界は、ばらばらに壊れてしまった。姉さんが亡くなってすぐ、姉さんを溺愛していた母さんが、別人のようになってしまったのだ。
「……母さん、何をしてるんですか」
僕が退院して少し経った頃、母さんは僕の部屋でごそごそと何かしていた。ゴミ袋を片手に、僕の机の上を見ている。その手が何かを鷲掴みにする。それが何なのかわかった瞬間、僕は全身の血が冷たくなるような感覚を覚えた。母さんは、僕が姉さんと折った折り紙をゴミ袋に放り込んだのだ。
「いらないものを捨ててるのよ。折り紙なんて邪魔になるだけでしょ」
何も言えなかった。母さんが別の生き物に見えた。恐ろしかった。
「このぬいぐるみも。男の子なんだからいらないわよね」
だけど彼女がベッドの上の熊のぬいぐるみを手に取った時は、黙っていられなかった。それは姉さんが僕にくれた、とても大事な僕の友人だったから。
「やめて!」
母さんの手に縋り付いて、ぬいぐるみを奪った。胸に抱え込んで蹲ると、母さんがただならぬ気配を纏っているのを感じた。恐る恐る上を見上げる。鬼のような形相がそこにあった。
「親にその態度は何よ!!」
凄まじい怒号。聞いたことのない声だった。あまりに理不尽な彼女の行動に、僕は身体を震わせた。怖い。どうして、こんなことをするの。ただでさえ恐ろしくて仕方なかったのに、彼女が次に続けた言葉は、僕に酷く突き刺さった。
「……ほんとに可愛くない……どうして、逆じゃなかったの?」
そう吐き捨てると、母さんはゴミ袋を持って部屋から出て行った。机の上には、もう何もなかった。涙が出た。ねえさん、ねえさんともう会えない人を呼び続けた。どうして、生き残ってしまったんだろう。本当に、僕が死んでしまえばよかったのに。本気でそう思った。姉さんのいない世界には、何もなかった。
そのまま中学に上がった僕は、しばらくの間無気力に生きていた。誰も褒めてくれない上に張り合う相手もいないと思っていたから勉強はつまらないし、好きだった折り紙も作ったそばから母さんに捨てられるからやめた。
「……ねえ、あの子なんで髪、白いの?」
「染めてるんじゃない? あんな白いの、変だよ」
ひそひそと、声がした。聞こえてるよ。わざわざ本人の近くで話すなんて、わざとなのか本物の馬鹿なのか。髪の話は中学に入ってから飽きるほど聞かれた。姉さんがいなくなったショックと、母さんがおかしくなったストレスで僕の髪はすっかり色を無くした。いちいち説明するのは死ぬほど面倒だったけど、染めると何かに屈するような気がしたのでしなかった。
(……僕より馬鹿な癖に。どいつもこいつもクズばかりだ)
そうしていないと自分が壊れてしまいそうで、僕は周りの人間をみんな見下して過ごしていた。中学生活は何も楽しくなくて、何のために生きているのか、わからなかった。頻繁に姉さんの後を追いたくなった。
彼に会うまでは。
「二位……?」
五月。定期考査の結果が発表され、廊下に学年順位が貼り出された。生徒の名前と得点が書かれたもので、廊下にはたくさんの人がそれを見に来ていた。僕は国語で一つミスをしただけで、その他はみんな満点だった。これなら一位だろう。そう思って、順位は見ないつもりでいた。だけど廊下に出ると否が応でも目に入る。人が多くても見やすい上の方だけでも見ておくかと上位に目をやると、意外な結果に僕は愕然とした。一位の場所には僕ではなく、別の名前が載っていたからだ。
(高崎くん……? こんな賢い人、この学校にいたんだ)
一位は、高崎桐人という男子生徒。隣に書かれた点数は、全教科満点。周りの生徒たちは化け物かよとか、すげえとか、感嘆の声を上げていた。僕もそう思った。その時の僕は、負けて悔しいと思うどころか、何故か喜んでいた。この人なら、僕と話が合うかもしれない。きっとそう思ったのだろう。
「ねえ、この一番の人ってどこのクラス?」
隣にいた生徒に声をかける。いきなり僕に話しかけられて彼は一瞬驚いた顔をしたが、快く教えてくれた。
「高崎? あいつならB組だよ」
「ありがとう!」
すぐにB組の教室へ向かった。妙に騒がしい。小さな人だかりが一人の生徒の机の周りに出来ていた。そこから、高崎お前すげえなーと声が聞こえた。ああ、あそこにいるのが。
「あの人が……」
真っ黒い天然パーマの、あまり目立たない少年がそこにいた。いろんな人に取り囲まれて正直早く帰りたい、そんな顔をしている。自慢なんてしない人だった。格好いいな、そう思わずにいられなかった。
その日から、世界が変わったみたいだった。僕よりすごい人なんて、姉さんだけだと思っていたから。彼のことを知りたくて仕方なかった。友達に、なりたかった。
「ケイ、二番ってどういうこと?」
その日の夜、母さんは僕をリビングに呼び出してそう言った。彼女はこの頃には、事あるごとに僕の弱みを見つけて叱りつけた。
「何にも出来ないわねあなた。美咲はこんな順位取ったことないわよ」
そして姉さんと僕をやたらと比べたがった。僕を通して、姉さんを持ち上げた。そうして僕がちくちくと責められていると、少し離れた場所にあるソファに座った父さんが、さすがに見兼ねたのか口を挟んだ。
「おい、ケイもがんばってるんだからあんまり言ってやるな……」
「あなたは黙ってて!」
父さんが出した助け舟は、母さんの怒声ですぐに転覆した。まあ、わかっていたけれど。もうなんでもよかった。こんな日が、毎日だった。でも学校に行って、高崎といると不思議と平気だった。彼は僕が叱られる原因でもあったのに。もしかすると、何でも出来る彼と、何でも出来た姉さんを重ねていたのかもしれない。
だから彼には、嫌われたくなかった。
「……怖いんだ。女の……特に年上の人に触られるのが」
珍しく具合の悪そうだった高崎からの告白。彼にそんな過去があったなんて、思ってもいなかった。僕ははっとして、掴んでいた彼の手を離した。冷や汗が、背中を伝う。もしかして、手を掴んじゃいけなかった? 僕のこの手も怖い? 僕は酷いことをした? お願いだ、嫌いにならないで。ぐるぐると、よくない考えが頭を巡る。その頃の僕は母さんに責められ続けたせいかどうも、そういう思い込みが激しくていけなかった。高崎はそんなことで誰かを嫌いになるような狭量な人間ではないのに。
「お前ぐらいなら平気だよ」
ほら、大丈夫だった。高崎がくすくすと笑う。笑顔を見たのは、それが初めてだった。それからは、彼との距離がいくらか縮んだ気がした。一緒に勉強したり、彼の家にあげてもらったこともあった。高崎のお母さんは明るくて優しい人で、彼と仲が良かった。少し羨ましかったけど、僕には父さんがいるからそれでお互いさまだと思った。
幸せだった。幸せだったんだ。学校にいた時だけは。ずっと一緒にいたかった。それだけで僕は、生きていけた。
生きていけると、思っていた。
「高校はこの学校に行きなさい」
いつものリビング。母さんが一冊のパンフレットを机の上に置いた。家から少し遠い、私立の進学校が写っている。
「……一校じゃ、だめですか」
高崎の目指す高校を聞いていた僕は、思わず言ってしまった。同じ学校に行けるなんて、露ほども思っていなかったけれど、口に出さずにはいられなかった。
「駄目に決まってるでしょう。あんなレベルの低いところ。結局一番になれなかった癖に、口答えするのはやめなさい」
予想通り、僕の望みは一蹴された。わかっていたのに、胸が痛かった。一番最初、折り紙の動物を捨てられた時のような痛み。さすがに涙はとっくの昔に枯れて出なかったけど。辛いなあ。君と同じ高校に行きたかったなあ。
僕の世界が、二度目の終わりを迎えた。
高校生活は中学の始めと同じで、全然楽しくなんてなかった。そして僕は母さんにほんの少しだけ、抵抗するようになった。母さんはもう僕にとって、幸せを邪魔する怪物だった。彼女の悲しみも理解してあげたかったけど、僕は疲れていた。会いたくなかった。生徒会に入って、帰宅時間を出来るだけ遅くした。生徒会のない日は、高崎に会いに行った。帰りが遅いと罵られることも多かったけど、それだけを楽しみに生きていた。
僕は何度も何度も、死んだ世界を作り直していた。ばらばらになる度に、必死でかき集めて繋ぎとめていた。
「この本、映画になるんだな。観に行きたいな」
放課後、高崎と一緒に本屋に行った時、好きな小説の帯に映画化決定、と書かれているのを見つけた。翌年の春公開されるそうで、それを見た高崎が言った。
「この頃ならちょうど受験終わってるな。行くか」
「うん」
「……なんだよ」
割とすんなり了承してもらえて、つい頬が緩む。君はいつもいつも、こんな僕に優しい。
「いや、映画もだけど、君と同じ学校に行くの、楽しみだなって」
大学は、同じ学校を受験することに決めていた。国立の、トップクラスの学校。母さんも文句は言わなかったし、高崎も学費のためにそこへ行くと言った。嬉しかった。
「受験終わってから言え」
「大丈夫だよ君も僕も受かるよ」
初めて、未来が楽しみになった。大学って楽しいのかな、部活はどこに入ろうか。その頃は抵抗の甲斐あって、そんなことを考える余裕があった。
父さんも、思うところはあったようで。
「ケイ、大学に入ったら下宿しないか?」
受験の少し前、父さんが僕の部屋に来てそう言った。とても心配そうな顔をしている。
「お前は少し、母さんから離れた方がいい……手続きは父さんが付き添うから、内緒で進めよう」
「……ありがとうございます、父さん」
父さんは、姉さんが死んだ後も変わらず優しかった。結婚した理由が複雑らしくて母さんには逆らえなかったけれど、ときどき僕をフォローしてくれた。そして今回の彼の提案は、とても魅力的だった。下宿。家を出られる。母さんに、怒られなくなる。もう憂さ晴らしの道具には、ならなくていいんだ。ぬいぐるみをベッドの下に隠さなくてもいいし、折り紙も捨てられない。そう思うと嬉しくて嬉しくて。未来がより楽しみになった。
でも、未来は偶然生き残った僕をそんな簡単に、受け入れてはくれない。
その日は受験が終わって、約束通り高崎と映画を観に行く日だった。学校は午前で終わるので、そのままいつも通り高崎の学校の前で待ち合わせをして映画館に行く。そういう予定だった。でも。
『ケイ、話があるから帰ってきなさい』
僕の学校が終わってすぐ、母さんから電話がかかってきた。どうして、今日に限って。話って何だ。無視したかった。でも、身体が震えて無理だった。今までの記憶が、母さんに逆らうことを許さない。
『ごめん、急に家に帰らないといけなくなった。時間に余裕はあるけど、もしかしたら遅れるかもしれない』
高崎に、そうメールを送った。今から帰って話を早く終わらせれば、多分間に合う。僕は酷く、苛立っていた。
「ケイ、一人暮らしするって本当?」
帰ってすぐ、しかめっ面の母さんが尋ねてきた。ああ、バレたのか……。
「本当です。四月から、大学の近くで。手続きもほとんど終わってます」
しらばっくれても無駄だと思い、率直に話す。早く、早く終わらせたい。
「どうしてお母さんに黙ってたの」
「……全部終わってから言おうと思ってたんです」
「美咲なら最初から言ってくれたわよ。しかもこんな安いところ……許可するお父さんもお父さんよ」
また姉さん。姉さんは下宿なんかしたことないじゃないか。彼女を持ち上げるのは構わないけど、想像でものを言うのはやめてくれ。
「姉さんや父さんを引き合いに出すのはやめてください。僕が決めたんです」
もううんざりだった。腹が立つ。僕はどうして、こんな目に遭ってるんだ? 僕が一体、何をしたんだ? 僕はその日初めて、母さんに怒りを覚えた。邪魔をしないでほしい。お願いだから。やっと、幸せになれそうなんだ。
「……あなた、本当に可愛くないわね。美咲と大違い」
「僕は、姉さんじゃありません」
姉さんじゃない。僕は姉さんじゃない! 僕だって生きていたくなんてなかった。出来ることなら姉さんと代わってあげたかった。でも生きてたのは僕なんだ。いい加減、受け入れてくれよ……。
「黙りなさい! ああどうしてこんな子になったんでしょう……! どうしてあの子が死ななくちゃいけなかったの、美咲、美咲……!!」
母さんが、今までなかった僕の反抗にヒステリックに叫んだ。こうなるともう、話なんて出来ないだろう。行こう。彼に会いに行こう。まだ間に合う。僕は幸せになるんだ。なりたいんだ。叫ぶ彼女を尻目に、リビングを出ようとする。ドアノブに手を掛ける。その時、
「待ちなさい」
恐ろしく冷たい声。母さんが、背後に立っていた。机の上に置いてあった、ワインボトルを片手に。
「……もういいわ」
ああ、僕ももういいや。もう作り直すのも、疲れた。どうやら僕はどうしても、幸せになっちゃいけないらしい。姉さんは、僕を恨んでいるのかな。僕が生きてるから、罰が当たるのかな。生きていたかった姉さんの代わりに、生き残ってしまったから。もういい。もういいよ、あげるよ、全部。その代わり天国で会えたら、また僕の頭を撫でてよ。
――――ごとんっ
すごい音だ。顔が床とぴったりくっついてる。痛くない。何が痛いのかもうわからない。目の前がじわじわ赤くなってく。僕は何をしていたんだっけ。あ、映画。ごめん高崎、約束、守れない。それだけは伝えておかないと。待ち合わせを何の連絡もなしに反故にするなんて、礼儀知らずにもほどがあるからな……ケータイ、どこだっけ。開くの面倒臭い。いい加減、君との連絡もスマートフォンにした方がいいのかな。こっちのケータイに入ってるの、君と姉さんだけなんだぞ。でももう遅いか。あ、上手く打てない。三文字打つのが限界かもしれない。いいやもう、これで。『ごめん』、これだけしか伝えられない。
…………映画、観たかったな。